六、復讐者 17
「はは。そんなに焦んなよ、兄さんよ……」
男は街中でふと独り言を呟くと立ち止まった。
男の上で緑豊かな樹木が揺れている。それは陽光を受けて影と光を柔らかに掻き混ぜていた。男はそんな陽光の作り出す陰影を頭上に落とすがままにして一人不敵に笑う。
「天気のいい日曜の午後だぜ。街中ぐらいブラブラさせろよ」
男はやはり誰とという訳でも呟く。携帯電話の類いを耳にかざす訳でもなく、ハンズフリーのヘッドセットをつけている様子もない。
「たまには姿を見せたらどうだい? 〝ささやく〟兄さんよ」
男はそう呟くと空を見上げる。話し相手はどうやら〝ささやい〟てくる相手らしい。男は眩しげに陽光に目を細めながら、それでいて己の頭の中を覗くかのように更に上に視線を上げる。
虹彩より下の白目が多く現れ見る者が居れば何かに酔っているかのような様子で男は笑う。
「だんまりかい? まあ、いいけどな。ムカつく糸目女はからかってやったからな、それなりに気分がいいんだよ。焦ってメインディッシュに手を出す気もなくってな」
男は一人口元を歪める。誰に見せつける訳でもないその歪んだ顔。その己自身の表情が、更に内面を満たしていくのかその口元は内から押されるように何処まで嗜虐的に歪んでいく。
「ああん? 糸目女の様子なんて知るかよ。ありゃ、ひねくれてんだろ? 俺も似たようなもんだがよ」
男はその笑みのままでまた歩き出す。
「何だ? 糸目女も気に入らないなら、俺がやってやろうか? はは! 仲間同士で争うなって? 仲間? 仲間! 仲間なんて誰も思ってねえだろ! 俺もあんたもな! 同類ってだけさ! どうせあんたの思うように動かない人間は、ムカつくだけだろ? 俺の力の練習台にでもなってもらおうぜ!」
男はご機嫌に笑い声を上げて街をいく。その様子に通りがかった近隣の男性が明らかに距離をとってすれ違おうとした。
「はん! 何、人をヘンなモノ見る目で見てんだよ!」
男は立ち止まると通りがかりの男性にじろりと目を向ける。男性が通り過ぎようとした右の目を剥き、左の目を痙攣まじりに細めて男は視線を飛ばす。
男性は慌てて顔を背けて足早に去ろうとした。
「はは!」
その背中に大げさな笑い声を投げつけて男は前を向き直る。男の背中の向こうで男性が足早に駆けていく。男性の靴底がアスファルトをせわしなく叩く音が鳴り響いた。民家三軒程の距離が空くと足音が普通に戻る。
その音の変化に男はふんと鼻を鳴らすと右手を後ろに振った。
「うわぁっ!」
その瞬間に男性の慌てた悲鳴めいた声が響き渡りに、すぐ後にアスファルトに身を叩きつける鈍い音が鳴り渡った。
男性はまるで後ろから誰かに足を持ち上げられたかのように、何もない場所で上半身から地面に飛び込むように倒れていた。
「あはは! 一人で転んでやがる!」
男は相手に聞こえるようにそう声だかに笑い声を上げる。そして転んだどころではない倒れ方をした男性に、後ろを振り返ることもなくましてや助けにいこうとするそぶりも見せずに再び歩き出す。
「〝ささやく〟兄さんよ! あんたがくれたとはいえ、これは俺の力だぜ。その点は俺も、糸目の姉ちゃんと変わんねえよ。好きなように使わせてもらうぜ」
男は先に振った自分の右手を己の眼前に持ち上げた。
その右手は黒く、その尖端は手の平の変わりに細いムチ状にしなっていた。このムチ状に伸ばした右手で男性を転がしたらしい。ムチは男の意思のままに動くのかしばし踊るようにその身を中空にしならせた。
実際は右手はその形を自在に変えられるようだ。空でひとしきり力を見せつけるようにしなったムチ状の右手は、次の瞬間に五本の紐状に裂けるやそれぞれの紐が指の形になって右手の先に戻ってくる。
手首から先の指の形に戻ったそれは、手首から先を旋盤でもついているかのようにぐるぐると回った。手首は捩じれることもなくその場で何度も回る。
軟体のように形が自在に変えられるのではなく、小さな粒子が集まって全体の形を作っているようだ。砂漠の砂塵に意思を持たせたかのように男の右手は小さな粒一つ一つが自由に動き回って形を変える。
「俺は、自由だからな!」
男はそう最後に高らかに笑うと、黒い右手の指先を錐のように鋭くさせてみせた。