六、復讐者 11
「むむ……」
速水颯子は夜の街で不意に振り返った。
本人曰くのバイト帰りなのか、そこはどっぷりと陽が暮れたネオン輝く繁華街だった。
誰かに呼び止められたと思ったのか、速水は細い目を更に細めて街ゆく人を一通り見回す。だが皆が速水の横を流れていく。速水を呼び止めた人物はいない。
小さな川の流れる繁華街の両脇の街路。先日速水が宗次郎をからかった路地に、氷室がドライアイスを放り込んだ小川が流れる繁華街。その人ごみ溢れる狭い路地を、酒の匂いをまとい、時にまき散らす大人達が速水の脇を通り過ぎていく。
「何ッスか? 人に断りもなく、いきなり〝ささやか〟ないで欲しいッスね。誰かに呼び止められたかと思ったじゃないッスか。恥ずかしいッスね」
速水のバツが悪そうな顔の上で鼻がひくつく。人に呼び止められたと振り返ったが、実際は心の中に直接ささやきかけられたようだ。
「呼びかけておいて、だんまりッスか? もっと力を使え――そう言いたいみたいッスね」
速水は路地の脇に足を向ける。そこにあった自販機に近づくやポケットから取り出した小銭を放り込んだ。量だけが自慢のような炭酸ジュースのボタンがずらりと並ぶ自販機。そのボタンを速水は楽しげに撫でた。
「好みは人それぞれッス。どれをどう選ぶかは、こっちの自由。違うッスか?」
速水は大容量の炭酸ジュースが並ぶ自販機の一角から、缶コーヒーのボタンの上で指を止める。この陽気なのにそれは何故かホット飲料だった。速水は細い目を嬉しそうに細めてそのボタンを押す。
「何の為にこんな力くれたか知らないッスけど、もらった以上は自分の力ッス。好きにさせてもらうッスよ」
速水はホットの缶コーヒーを取り出し口から取り出した。手の平の中に収まる大きさのスチール缶。速水はその熱さに直接持つことができずに、二三度両手の中でお手玉のように宙に浮かせる。
ようやく手が熱さに慣れるや片手に収め、プルタブのフタを開けて自販機に背中を向けてもたれかかる。
「……」
相手の返事を待とうしたのか速水は黙って缶コーヒーに口をつけた。
「ふふん、やっぱりだんまりッスか? そうッスよね? あんまり声を聞かれると、自分が誰だかバレるッスからね」
速水は缶コーヒーの底を暗い夜空に向かって一気に傾けた。
「……」
相手はやはり応えないようだ。速水は二三度小分けにしながら熱いコーヒーを喉の奥に流し込む。そして口から缶を離すや虚空を見つめて相手の返事を待った。
「よう」
その速水が不意に呼びかけられる。
「誰ッスか? 今、人と話してるッスよ」
速水は再度口につけていた缶コーヒーを軽く離し、呼びかけられた方に視線だけ横目に流した。
「人なんて何処にいるよ? 独り言か?」
「ふん。誰かと思えば、〝あんた〟ッスか?」
速水は街灯に照らされて立つ男の顔を見て缶コーヒーを胸元に降ろした。
「ああ、俺だよ」
「ふん。お元気そうでなりよりッスね。で、何の用ッスか?」
速水はそう応えるともう一度飲み口に口をつけ、残っていた缶コーヒーの中身を音を立てて呑み込んだ。
「復しゅうに――決まってんだろ?」
「……」
速水が空になった缶コーヒーを握り締める。スチール製のその缶が音を立ててへこんだ。丁度『リサイクル』と書かれたマークが、速水の指の間からのぞいている。速水はそのマークを歪ませながらゆっくりと胸元まで降ろしていく。
自販機に背中をもたれかからせたまま、全身から力をゆっくりと抜いていく。それは油断や余裕による弛緩ではなく、力を爆発させる前のリラックスのようだ。その証拠に速水の目の光が反対に鋭くなっていく。
「ふふ……」
その様子に男の口角が歪む。
「――ッ! 受けて立つッスよ!」
速水の肩から先が消えた。見ている者がいればそう見えた程、速水は内から外に一瞬で腕を振り抜いた。
実際速水に相対していた男にはその動きは見えなかったようだ。自身向かって飛んでくるスチール製の缶。それが弾丸のように胸元に飛んでくるのを、男は動くこともできずに迎え入れてしまう。
スチール製の缶が男のあばらを直撃する。
硬い鉄の缶が柔らかい人の胸に当たる鈍い音が響く。
そう思われたその時、
「――ッ!」
そのスチール缶はぼそっと低い音を立てて男の胸にめり込んだ。
速水はその光景に細い目を見開いた。弛緩していた筋肉を引き締め直し自販機から離した体を身構えさせた。
スチール缶は男の胸に半ばまで埋まっている。まるで砂場に埋まる玩具のように、斜めに刺さったそれは男の胸に止まっていた。
「おいおい、ご挨拶だな。ポイ捨てはよくないぜ」
男は胸元に刺さったスチール缶に右手を伸ばし、何事もなかったかのように抜き出す。
「〝ささやかれた〟力ッスか?」
「そうさ。リサイクル――大事だぜ!」
男は速水がそうしたようにスチール缶を手に胸元に構える。
その手がムチのようにしなった。速水のそれと違いそれは誰の目にも分かる早さだった。
だがその手は文字通り〝ムチのように〟しなった。関節などないかのように紐状に缶コーヒーを持った手がしなると、遠心力を最大限に利用した力でスチール缶が放たれる。
「――ッ!」
己の頬をかすめスチール缶が後ろに飛んでく。速水はその状況に一歩も動けなかった。金属と金属がぶつかり合う甲高い音が辺り一面に響き渡る。
速水が利用した自販機とは別の自販機の側面に衝撃で歪んだスチール缶が半ばめり込んでいた。
派手に上がった金属音に通行人が一斉に振り返った。
「おっと、注目を浴び過ぎだな……まあ、今日は挨拶だけにしておくさ……」
男はそうとだけ速水に告げると、何げない様子で足を踏み出す。
「……」
男はまるで速水を挑発するかのようにその真横を無防備に通り過ぎた。
頬をかすめたスチール缶は速水の肌に一条の傷をつけていた。速水はその真新しい傷から流れ落ちる血もそのままに後ろを軽く振り返る。
遠ざかっていく男の背中。その横に自販機の壁に斜めに突き刺さったスチール缶が見える。
「確かに、リサイクルは――」
速水がその両方を不快げに見送りながら呟くと、
「大事ッスね……」
ようやく壁から剥がれたスチール缶がその下にあったゴミ箱の中に落ちていった。