六、復讐者 3
「と、言う訳で花応! 今日はお泊まりさせてね!」
後ろ手に手を回し大きな声で呼びかけながら花応達の下に帰って来た雪野。殊更明るく振る舞おうとしたのか雪野は両の口元を大げさに上げ笑みの形を作ってみせる。
雪野の背中の向こうには霧散したジョーのスモークが僅かに霧のように拡散していっていた。その霧の向こうを市民達が殊更ガッカリしたような仕草で去っていく。ある者は大げさに口を開けて空を見上げていかにもな落胆の様子を、他のものは苦笑いを浮かべて己の心配のし過ぎを恥じているかのような様子で。
「何でよ? 明日来るんでしょ? 何で今日お泊まりになるのよ?」
花応はその市民達の様子を視界の端に入れながら、戻って来た雪野に怪訝な視線を向ける。
「事件かと期待した人間と、心配した人間が、そうじゃなかったって、自分自身に言い聞かせながら帰っていく――そんなところか……」
こちらはむしろ去っていく市民達に目をやり宗次郎が呟く。
「だって、この手は隠し切れないし。こんな怪我抱えて、家に帰れる訳ないじゃない」
雪野は宗次郎には応えずに、後ろ手に回した右手を少し戻して覗かせた。
「むむ……また、そんな怪我までして……」
花応が眉間に皺を寄せる。一度背中から出されて直ぐにまた隠された雪野の右手。それはその一瞬でも分かるほど赤い腫れが表面を覆っていた。
「あはは、。ゴメンゴメン。反省してる。だから、今日は泊めてね。治り待ちするから」
「家に帰るのを、一日延ばしたぐらいで――」
「一日経てば、表面上は完治するもの。ねっ? いいでしょ?」
「ぬぬぬ……」
眉間の皺を更に深くして花応は唸る。
「何よ? ダメなの?」
「別に……いいけど……」
「よし! じゃ、決まりね! さて、氷室零士くん……」
花応に向けていた無邪気な笑み。それを一瞬ですっと引っ込めると雪野は真顔に戻って氷室を見下ろす。
雪野は一歩前に出ると花応と宗次郎に背中を向けて氷室と向き合った。雪野の表情はそれで花応達からは見えなくなる。
「……」
氷室はビクッと一つ身を震わせるが雪野の声に顔を上げなかった。
「あなたの力は〝ささやかれて〟手に入れたもの。違う?」
「……」
氷室は顔をやはり上げようとしない。
「あなたを責めたい訳じゃないわ。只聞きたいの。その力は〝ささやかれて〟手に入れたものね」
「……」
氷室はやはり答えない。雪野の方を見ようともしない。
「……」
雪野はその姿をじっと見下ろす。後ろ手に回していた腕はいつの間にか前に戻され、その手にはまだ魔法の杖が握られていた。雪野は赤く腫れた手で魔法の杖を己の脇に垂らすように持つ。
花応も宗次郎も黙って雪野と氷室のやり取りを見つめた。ジョーすらも余計なことを言わないつもりか、花応の背中に隠れるようにして雪野を見ている。
「そう……答えたくない? 分かったわ。話を聞いても何か分かる訳じゃないのは、経験上知ってるし。何か足しになる話が聞けたらって思っただけだし」
「……」
「やっぱり話す気にはならない? じゃあ、私から……言わせてもらうわ……」
雪野が杖を握る手の力をぐっと増す。
泣き崩れる男子生徒にその背中を見下ろす同年代の少年少女と人の背丈程ある水鳥。その異様な組み合わせに煙幕が晴れても市民達を近づけなかった。人の流れが正常に戻っていく中、公園のその一角だけぽっかりと空間が空く。
「先ず、そんな力もう望まないことね。自分のしでかしたことにを思い出したら、それがどんなに危険な力か分かるでしょ?」
「うう……」
氷室は嗚咽だけ応えるように漏らした。
「それと、そんな力に頼るにせよ、頼らないにせよ。友達を傷つけるのは――危ない目に遭わせようとするのは、私が許さないわ……」
雪野の手の中の魔法の杖がきんと金属質な音を立てて唸る。同時にその尖端につけられた宝石らしき石が光る。
「おいおい、千早。もう力なくした相手に、魔力向けてるなんて。それこそ危ないだろ?」
その様子に宗次郎が慌てて口を開いた。
「ふん……別に、ちょっと力が入っちゃっただけよ……」
雪野は宗次郎に振り向かずに答える。
「そうか?」
そんな雪野の背中を宗次郎がいぶかしげに見つめた。
「そうよ……ジョー、戻しておいて……」
「ペリ……」
雪野に呼ばれてジョーが花応の背中から離れた。そして雪野の顔を窺うように長い首を曲げて覗き込む。ジョーは雪野の顔を見上げると一瞬ぎょっと目を剥いてから慌ててその手元の魔法の杖を呑み込んだ。
「さて、氷室くん――」
雪野は顔を上げようとしない氷室を見下ろして、
「今日のことは忘れることね……ううん、忘れないことね……ましてや復讐――だなんて、考えないことね……それがあなたの為よ……」
花応達に最後まで背中を向けたままそう告げた。