六、復讐者 1
「……」
市民の憩いの公園の上で傾き始めていた太陽の光。その温かい陽射しが白い靄を照らす。極限まで冷やされ固体と化した空気が気化していく靄だ。冷たい靄は太陽の陽射しに諭されほぐされるかのように薄れていく。
ヘリウムでその絶対零度近傍の壁を破った少女――桐山花応はその様子をじっと見つめた。
「花応」
敵の力を奪った魔法少女――千早雪野が、晴れていく靄の向こうで花応に振り返る。靄は急速に薄れ出し先程までは陰としてしか分からなかった雪野の上半身を浮かび上がらせる。
「怪我はない?」
雪野が靄を腰から下にまといながら花応に尋ねる。その手元はだらりと下げられており先の攻撃で絶対零度近傍の壁に触れてしっまた両腕の先を丁度隠していた。雪野もそのことが分かっているらしく腕を上げようとはしなかった。
「大丈夫よ。あんたこそ、どうなのよ?」
「ちょっと、やられたかな」
「『ちょっと』どころじゃないでしょうに」
花応が不機嫌そうに腕を胸の前で組んだ。
「桐山。これ、重いんだけど。降ろしていいか?」
冷気を操る敵に狙われた花応のクラスメート――河中宗次郎が、ビール樽大のガスボンベを脇に抱えながら間抜けた声で訊く。
宗次郎は花応が二本目のガスボンベを抜き出すとそれを一人で脇に抱えていた。
「もう、要らないわ。ジョーの嘴に戻しておいて。私の部屋よ」
「おう。てか、抜き出したはいいが。入るのかコレ?」
宗次郎はジョーの嘴の口径よりも遥かに大きいガスボンベを抱えて振り返る。
「ペリ……」
全身羽毛で覆われたペリカンにしか見えない不思議生命体――ジョーが、その羽毛の上からだというのに冷や汗を一つ流した。
「いけるか、ペリカン?」
「が、頑張るペリ……」
「よし。桐山の部屋まで運んでくれ」
ジョーの返事に宗次郎がその嘴にガスボンベを捩じ込んだ。あががとアゴも外れんばかりに開けながらジョーがそのガスボンベを呑み込む。
「ペリカン、便利だな。宅配業者みたいだ。ああ、それでペリカン――」
「何のことベリか?」
何か言いかけた宗次郎をガスボンベを呑みこんだジョーが不思議そうに見返す。
「いや、何でもない」
宗次郎はそう答えながら今や地面近くにだけ溜まっている白い靄を見下ろす。そこには両手両ヒザを着いた人影があった。
その人影は立ち上がれないのか、それとも顔を上げることができないのか。地面に向かってうなだれるように突っ伏していた。
人影はすすり泣きを始めたようだ。細かくむせぶように震え小さな泣き声が靄の向こうから聞こえてくる。影は靄で己が見えないのいいことに一人で泣き続けた。
「しかし、ヘリウムってのは、凍らないんだな」
その様子に居たたまれなくなったのか、宗次郎は花応の背中に振り向き直って呟く。
「そうよ。まあ、圧力をかければ固体にはなるけど。こんな開けた場所で圧力をかけるなんて無理だから」
花応も突っ伏した人影を見下ろしながら応える。感情を押し殺しているようだ。その目は軽く伏見がちにされ瞳の動きも少ない。
「それで、水滴で攻撃することにしたってか?」
「そうよ。水滴になったヘリウムが気圧差の風に乗って、向こう側まで届くと思ったのよ。それにもっとうまくいけば、地面に落ちても超流動で何とかなるってね。まあ、超流動なんて滅多に見れるものじゃない量子的現象だから、あんまり期待はしてなかったんだけど。うまくいったわ」
「しかし、ヘリウムのガスボンベなんて。よく手元にあったな。ありゃ、しかも業務用だろ? お店とかで配ってるような風船まで出て来たし。『作り置き』とか言ってたな? お前一体何やってたんだ?」
「うっ……それは……」
「『それは』?」
「……」
花応は真っ赤になって答えない。
「あはは。花応は多分、私達を歓迎する準備をしてくれてたんじゃないの?」
雪野が花応達の下にゆっくりと歩いて戻ってくる。今や爆発的な気化は終わり、足下に凍って落ちた空気の成分がゆっくりと蒸発しているようだ。たなびくように地面すれすれに広がり出した気化の靄を引き連れ雪野は近づいてくる。
「『歓迎』? 『準備』? あれか? 俺ら遊びにいくからか? パーティグッズも買ってたってな? 最初のスプレー缶はそれだよな? ガスボンベも風船も、俺らを呼ぶ為か?」
「風船……変だった?」
花応が覗き込んで尋ねてくる宗次郎から顔をそらしながら訊き返す。
「変だよ? ヘリウムのスプレー缶は分かるけど。ガスボンベは意味分かんないぞ。何で風船膨らませてんだ? 友達が遊びにいくぐらいで」
「うるさいわね……何だっていいでしょ……」
「気になるじゃねえか。クラスメート呼ぶのに、何で部屋で風船膨らませんだよ? 普通にしとけよ」
「うるさい! うるさい! うるさい! 普通なんて、分かんないのよ! もう忘れたのよ! 中学の時に友達家に呼んだら、皆にどん引きされたのよ! 『花応さん家って――変』って! 分かる? 同級生に『さん』付けされる気持ち! どうせ中学まで世話になってた親戚の家は、友達にどん引きされるような家だったわよ! いかにも資産家の家みたいな――セキュリティやら! お手伝いさんやら! 調度品やら! ご馳走やらで! それ以前に歓迎の態度が……とにかく! 皆次の日から、一気によそよそしくなったわ! 普通に友達を呼ぶなんて、小学生の時以来なの!」
花応は真っ赤になりながら一気に捲し立てた。
「まあ、何だ……それで小学生のお誕生日会よろしく、部屋を飾り立ててたって訳か」
「そうみたいね」
宗次郎と雪野が呆れたように鼻から一つ息を抜きながら互いの目を合わせる。
「うるさい……嫌なら、来るな……」
花応は唇を尖られながらそんな二人に探るような視線で振り向いた。
「行くわよ」
「呼ばれたしな」
そんな視線の花応を迎えたのは二人の苦笑いに近い笑みだった。
花応は何故かその笑顔が直視できなかったりのか、
「ふん……」
殊更不機嫌そうに鼻を鳴らして顔を二人からそらす。だがそのそれでも垣間見える頬は赤く染まり、湧き出る笑みを抑え切れないというふうに丸く膨らんでいた。