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五、招かれざる者 26

「ヘリウム? 凍らないだって!」

 氷室の前に巡らされている冷気の壁。その壁に向かって勢いよくガスボンベから噴き出す。

 氷室はそのガスに目を剥く。空気中の二酸化炭素や窒素すら液体化し、今や酸素すら固体化する己の力。その筒状に展開された冷気の壁にガスは真っ直ぐ吸い込まれるように飛んでくる。

 そしてガスは冷気の壁に触れるや細かな飛沫となって飛び散った。

 氷室はその様子に腕で顔を覆い守ったまま目を凝らす。

「僕の力で、凍らない物質なんてあるものか! 僕は絶対零度の力を手に入れたんだ!」

「違うわ、氷室くん! たとえあなたが絶対零度の力を手に入れたとしても、ヘリウムは凍らないのよ! 不確定性原理と呼ばれる量子的な現象によってね!」

 花応は宗次郎にボンベを支えさせながら自身はガスを氷室に向かって噴射し続けた。

「花応……」

 その斜め前に立った雪野は一瞬で赤くなった腕で魔法の杖を構える。守りに入っている氷室が攻めに転じた時の為に警戒しているのだろう。

「なっ? 絶対零度は全てを凍らせる――」

「それは誤解よ! 全てが凍るなんて、『絶対』だの『零度』だのイメージが作り出したただの誤解! 実際見てみなさい!」

 花応が空いている方の腕で氷室の冷気の壁を指差した。そこには透明な液体が冷気の壁が作り出す風に巻かれて舞っていた。

「その温度で液体でいられるのは、間違いなく沸点の低いヘリウムね! さあ、氷室くん! 冷気を操れても、あなた自身には冷気に対する耐性がない! 違う?」

「……」

「違わないわよね! そんな厚着で力を使ってるんだもの! ドライアイスレベルでも、本当は直に触れないはずだものね!」

「く……」

「さあ! あきらめるなら、今の内よ! まだ微小な水滴でいる内は、防ぎきれるでしょうけど! だけどあなた自身が力を解除しない限りはずっと液体のまま! その内に集まり出して、大きな水滴になるわ!」

「それが何? 固体だろうが、液体だろうが! 結局少しやり過ごせば地面に落ちちゃうよ! ガスボンベとはいえ、無尽蔵に出せる訳じゃあるまいし! 結局僕の勝ちさ! 地面が濡れて、ガス欠になってそれでお終い! それだけの話だよ!」

「そうね! ヘリウムがただの希ガスならそうでしょうね! 原子番号2! 元素記号He! ヘリウム! この元素は絶対零度近傍では、もっと面白い性質があるのよ!」

「なっ?」

「そうよ……凍らないなんて、液体ヘリウムはとても素敵……でももっと、素敵な性質をヘリウムは持っているわ……」

 花応がすっと視線を落とした。そこには氷室の冷気の壁に阻まれたヘリウム以外の元素が凍りついて落ちている。地面に積もったその固体は小さな山脈のような氷の連なりを冷気の壁に沿って作っていた。その上に大きな水滴と化したヘリウムが滴り落ちていく。

「何を言って……桐山さん……」

「大きな水滴になった液体ヘリウムは、重力に引かれて落ちていく……でも……」

 花応の目が吸い込まれたように地面から離れなくなる。目の前の脅威である氷室に語りかけながら、花応はその小さな氷の山脈の上に降り注ぐ液体ヘリウムに目を奪われていた。

「桐山さん、何を見てるの?」

「そうね……少なくとも――あなたじゃないわ……」

「――ッ! 桐山さん!」

 氷室の顔が歪む。感情が複雑に交差したのか、左半面は奥歯を噛みながら痙攣し、右半面ががく然と目を見開き口元が開ききれず揺れた。

「そうよ! 私が見たかったのは、ヘリウムよ! ヘリウムが――」

 花応がようやく顔を上げる。そのキッと鋭く細められた目は、氷室を真正面から射抜いた。

 それでいて花応は氷室の足下を指差す。

「何だ? 液体ヘリウムが、生き物みたいに広がってくぞ!」

 花応の指差す先を見て宗次郎が不意に叫んだ。地面に一度落ちた液体ヘリウムは何故か公園の舗装された地面を這うように広がる。まったくの粘り気がないように見えるそれは、氷室の足下向かって一気に流れていった。

「そうよ! これこそがヘリウムが絶対零度近傍で見せる――」

 花応が丁度空になったガスボンベを放り捨てた。


「超流動――スーパーフローよ!」


 ガスボンベが派手な音を立てて地面に転がる。

「うわ! 何だこれ! こっちに来る!」

 氷室が悲鳴を上げた。思わずか身をそらして後ろに半歩退く。だがその氷室を追い、何にも邪魔されずにす冷気をまとった液体はすっと流れてくる。

「氷室くん! それは液体ヘリウムの量子的現象よ! ヘリウムは絶対零度近傍でも凍らない! そして絶対零度近傍で相転移を起こして、極度の流動性を手に入れるわ! 粘性がゼロになるのよ! 粘性がゼロの究極の液体は、何にも邪魔されずに広がるわ! それこそ垂直の壁すら登るぐらいにね! 素敵でしょ!」

「うわ! この! くるな!」

 液体ヘリウムは氷室の足下にあった小石すらよじ登り瞬く間に均一に広がっていく。

「勿論私達の方にも流れてくるけど――」

 花応の言葉通りその一部は花応の方にも流れて来ていた。

「私達は常温の世界にいるから、直ぐに気化してくれるわ! でもあなたはどう? 冷気の壁で身を囲ったあなたは!」

 冷気の壁の下にできていた氷の山脈。それすら難なく乗り越えた液体ヘリウムは、花応の方に流れ着く前に冷気の壁を離れるやふっと蒸発していく。

 だが氷室の足下に向かった液体ヘリウムは蒸発することもなく、直ぐにそこまで達してしまった。

「うわ! 凍る! 足が……」

 氷室の退避は間に合わなかった。後ずさる氷室のブーツに液体ヘリウムは静かに這いよると、その皮に触れて周囲の空気ごと凍りつかせ始めた。

「それと……ヘリウムのガスボンベ――お恥ずかしながら、いくらでもあるから……」

「ペリ……」

 花応がもう一度ジョーの嘴に己の右手を突っ込んだ。ジョーの嘴を内から圧して新しいボンベの尖端が現れる。

「うわわわぁぁぁぁああああぁぁぁっ!」

 花応の声が聞こえていたのかいなかったのか。氷室は凍りつく己のブーツに目を奪われながら絶叫する。

 不意に空気の流れが変わった。冷気の壁に吸い込まれる一方だった風の流れが突如止まり、その反動か冷気が一気に拡散した。氷室が堪らず冷気の力を解放したのだろう。爆発するかのように白い蒸気が地面から噴き上がる。

「――ッ! 終わりよ、氷室くん!」

 その様子に間髪を入れず雪野が地面を蹴った。

 常温に戻った世界で凍っていた物質が急速に白い蒸気を上げて気化していく。

「〝ささやかれた〟力から――解放してあげる!」

 雪野が白い蒸気の靄を突き切り氷室の上に杖を振り下ろした。

「桐山さん!」

 助けを求めたのか、何かを訴えようとしたのか。氷室が最後に花応の名を呼ぶ。

「そうね……氷室くん……」

 白い靄に隠され雪野と氷室の姿は影としか分からなくなった。どんな顔をして氷室が花応の名を呼んだのか花応には見えなかっただろう。

 花応はその靄の向こうでヒザから崩れ落ちる人影に向かって呟く。

「超流動だなんて、珍しい科学的現象を見せてくれたことには、感謝するわ……でも――」

 花応が取り出しかけていた新しいボンベを地面に置く。それはやはり風船用らしきヘリウムのボンベだった。

「絶対零度だなんて言葉、軽々しく口にするうちは――お呼びじゃないかな? いろいろとね……」

 花応は最後に己にしか聞こえないように呟くと、今まで周囲を覆っていた白い靄が嘘のように一気に晴れた。



(『桐山花応きりやまかのんの科学的魔法』五、招かれざる者 終わり)

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