五、招かれざる者 25
「花応! 何を?」
雪野が己の横から手を伸ばす花応にがく然と振り返る。
「何のつもり! 桐山さん! そんなスプレー缶で、僕に勝つつもりなの?」
氷室の目は驚きに軽く見開かれるが、その自信故か直ぐにいぶかしげに細められる。
氷室が花応の行為に脅威を感じなかったのも無理はないのかもしれない。花応が手に持っているのはどう見ても市販のスプレー缶だったからだ。
「悪いけど。そのつもりよ」
花応は雪野の驚きの視線にも、氷室の懐疑の視線にも構わずその自慢の吊り目を光らせる。
冷気の壁に触れないギリギリの距離を保ち、花応はそのスプレーの中身を噴射し続けた。
「それ? 〝あれ〟だよね?」
見覚えがあったのか氷室がスプレー缶に目を凝らす。
「ええ。そうよ、〝あれ〟よ、氷室くん」
「あの時、クレジットカードで買ってたあれ。それってただの――」
「ええ。ただの――」
花応は氷室に答えながらも噴射を続ける。距離を取っているとはいえ花応の指先が軽く寒さに震え出した。
「おい! 桐山! お前!」
その様子に後ろから宗次郎が堪らず手を伸ばす。
「大丈夫よ、河中。見てなさい。絶対零度の壁――私の科学が打ち破るわ」
「大丈夫に見えねえよ! てかどう見ても、絶対零度に勝てる手段にも見えねえよ! ただのスプレー缶だろ? それ!」
宗次郎は噴射を続ける花応の腕を慌てて掴む。寒さで震える花応の腕を止めさせる為にか、己の掌を上から覆いかぶせた。
「そうよ。ただのパーティグッズ。ジョーに試したけど、確かに楽しいわね」
「何を暢気に! やっぱ、ただのスプレー缶じゃねえか!」
「やっぱりあの時の! だけど、ただのスプレー缶! そんな物で、僕の絶対零度の壁を破れるものか!」
「花応。残念だけど、出る端から凍ってるわよ。氷室くんまで、届いてない」
「……」
宗次郎と氷室、雪野の指摘にも花応の噴射は止まらない。花応の指先から吹き出るガスは風の流れも相まって、広がりながらも氷室に向かって真っ直ぐ伸びていく。そして冷気の壁に当たるやそのガスは固体になって落ちていく。
「見てよ、桐山さん! そんなガス――僕の絶対零度の力の前では無力だよ! 僕に届く前に落ちちゃってるじゃないか!」
「……」
花応は相手の言葉に構わず噴射を続ける。
「おい、桐山!」
その様子に堪らず宗次郎が声を上げた。
「河中……流石に冷たいから、手――そのままにしててね……」
花応が白い息を吐く。手先は絶対零度の壁に向けているせいか寒さに細かく震えていた。止めようと重ねられたままの宗次郎の手の下で花応の包帯に巻かれた手が震える。
「えっ?」
「お願い……」
冷気故か頬を赤く染めた花応がその頬だけ宗次郎に向けて続ける。
「お、おう……」
宗次郎はその様子にこちらも寒さの為か急に頬を赤くして花応の手を握り直す。
「何処までも――見せつけて!」
氷室が不意に血も出んばかりに下唇を噛み締めた。
それと同時に力が上がったのか、噴き寄せるガスが更に勢いよく固体になっていく。
そしてその固体に混じって今までは現れなかった液体も滴り落ちた。
「――ッ! そうよ! その沸点の低さを待っていたのよ!」
花応がその様子に目を見開く。
「氷室くん! あなたは本当に絶対零度近傍の力を手に入れたのね! でも、それが私の狙い!」
スプレー缶からの噴射が尽きる。花応が氷室の力に対応する為に取り出した切り札とも言うべきガスが尽きた。
「な……」
「そうよ! 絶対零度なんてあり得ない! だけど絶対零度近傍――ならあり得る! だったら認めてあげるわ! それとそこまでいけるのなら、ぜひ科学的に見てみたいわ! 〝あの現象〟は起こるのかってね!」
だが策が尽きたはずの花応は自信に満ち溢れた声で続ける。空になったスプレー缶を投げ捨てるや、宗次郎の手も振り払いもう一度脇に抱えたままのジョーの嘴に手を突っ込んだ。
「ペリ……」
「何を……」
「『何を』ですって、氷室くん? 物質のことを訊いているのなら、答えてあげる。今の今まであなたが凍らせてたガスは、ただの――酸素よ」
「『酸素』? 酸素が何だってんだ? 実際絶対零度の壁で凍って、僕まで届かないじゃないか!」
「絶対零度近傍よ! ええそうね! 酸素じゃあなたまでは届かない! 絶対零度近傍の壁に触れて、固体になって落ちてしまうもの! でも、足下をよく見てみることね!」
花応が視線だけ下に落とし氷室をぐるりと囲む冷気の壁を見下ろす。そこには固体と化した酸素が落ちて転がっている。白い氷のように見えるそれはただただそこに転がるだけだった。
「転がってるだけの酸素に――」
「転がってるのは酸素だけじゃないわ! 今となってはね! よく見ることね! 少し濡れてるでしょ!」
花応の言葉通り氷めいた酸素に、その氷がやや溶けかけているかのように液体がまとわりついていた。
「だから何? 溶けかけてるだけじゃ――」
「違うわ。この冷気でも凍らない物質が、そこにぶちまけられているのよ」
「な……」
「酸素なんて、単なる窒息防止用の混ぜ物よ! 私の狙いはこっち――」
花応がようやくジョーの嘴から手を引き抜いた。
「花応!」
その手に束となって握られている物に雪野が思わずか声を荒げる。
「風船じゃねえか、桐山!」
そうそれは風船の束だった。アルミで丸く形づけられた風船が、花応が手を離せば飛んでくように浮かんでいる。
「ええそうよ、河中! 何個でもあるわ! 作り置きがね!」
花応はそう応えるとその風船を氷室に向かって放り投げた。気圧差が作り出す内向きに巻き込んでいく風が、風船が空に舞い上がる前に氷室に向かっていく道筋を作る。
風船は氷室に近づくにつれて見る間にしぼんでいった。
「顔を守った方がいいわよ、氷室くん!」
しぼみ最後は冷気の壁に当たって音も立てずに破れる風船。その中から透明な液体が飛び出した。
飛び出したきらきらと光る液体に目を光らせながら、花応は次々とジョーの嘴から風船を取り出して放り投げる。
「なっ!」
飛び散り、冷気の壁に当たっても凍らないその液体が氷室の全身を襲う。氷室はその小さな液体のしずくから、花応の忠告通り手で覆って顔をかばった。
「これは警告よ、氷室くん!」
「うるさい! こんな程度で!」
「そう。じゃあ、今から本気! 食らいなさい! これが絶対零度近傍でも凍らない――」
花応は最後は力を込めてジョーの嘴から手を引き抜こうとする。
「ペリ……」
ジョーの大きく開けた嘴を内側から圧する勢いで、金属のガスボンベの尖端が現れた。
その重そうな様子に宗次郎が慌てて回り込んで手を貸す。完全に姿を現したガスボンベ。そのビール樽程の大きさの筒状のボンベを宗次郎が脇に抱えた。
花応は宗次郎が脇に抱えたボンベの尖端に着いたバルブを捻り、
「ヘリウムよ!」
中のガスをスプレー缶とは比べ物にならない勢いで噴き出させた。