五、招かれざる者 24
「いくら何でもおふざけの度が過ぎるわ、氷室くん」
ジョーが作り出した物理的煙幕の中を、氷室が作り出した気圧差による冷たい風が舞う。
花応は荒れ狂う風にショートの髪を千々に乱れさせながらも、その自慢の吊り目の奥に決意の光を宿しながら氷室を刺すようにその視線で射抜いた。
ジョーの煙幕の向こうでは異常に気づいたらしき市民の声が聞こえて来る。遠くからでもあり風にかき乱されるそれは花応達の耳に千々に乱れてまともな音声となって届かない。だが緊迫している様子はよく伝わって来た。それぞれがパニックからか声を張り上げてくる。
「『度が過ぎる』――だって?」
そんな声にまるで耳を貸さずに、氷室はくいっと片方の眉だけ器用に上げた。
「そうよ。そう言ったわ、氷室くん」
花応は宗次郎の肩越しにその氷室の表情を窺った。
宗次郎は花応の直ぐに前に立ったまま背後の少女を守るように身構えている。
「何を言ってるの、桐山さん? 今の僕は絶対零度だって作り出す自信があるんだよ? むしろは『度』はまったく過ぎないよ。もはや、ずっと〝度〟はゼロだよ」
「そうね。あなたのおふざけは、確かにお寒い〝度〟ね。適度ってものを知らない感じ。物事には度ってモノが必要なのよ。温度のソレが、地球の『ハビタブルゾーン』を決めるようにね」
「ハビタ――何?」
「ハビタブルゾーンよ。地球型の生命が誕生し生存していくには、液体の水が必要でしょ? 水は知っての通り私達が常温と呼ぶ温度帯で液体でいてくれるわ。これはとても重要なことなの。液体の水は生命の誕生期には揺りかごになってくれたし、今はまさに私達の体の六割から七割を満たしてくれている。水が液体であってくれるという私達生命に取って適度である〝度〟を保てる温度――それを保ってくれる地球と太陽などの距離範囲がハビタブルゾーンよ。私生命には常温という適度が必要って話よ」
「あは! やっぱり凄いや桐山さんは! そんなことすらすら出てくるなんて! でも、やっぱりさ! 君に釣り合う男になるには、これぐらいの力が必要だと思わない?」
氷室は口元を自慢げに歪めるとすっと右手を前に出した。そこには先にも増して冷えきった空気が流れ込んでいく。
「……」
その様子に間で杖を構える雪野が腰をすっと落とす。
「知らないわよ……」
「はは! 謙遜しちゃって! いいさ! 僕はそれでも君に釣り合う力が欲しかったんだ! 見てよ! 今じゃ宇宙規模のお寒い氷室さ! 宇宙の絶対零度を僕は手に入れたんだ! どんな物でも凍りつかせてあげるよ! この絶対零度の力でね!」
「あのね、いい? 雪野にも前に言ったけど。まず、宇宙は絶対零度じゃないわ。おおよそ二・七二五K――ケルビンの温度を宇宙は持ってるもの。CMB――宇宙マイクロ波背景放射っていう言わばビッグバンの名残の温度があるのよ」
「そんなのどうでもいいよ! 僕のは物の喩えだよ! た・と・え!」
「そう? それと――絶対零度なんてあり得ないわ……現実的にはね……」
「な……」
「物を冷やすには、より冷えた物で冷やすしかないもの。元より絶対零度以下の物質なんてあり得ない。だから絶対零度には冷やせない。大雑把に近傍の温度しかとれない。科学的に考えれば分かることだわ。何処まで行っても、人類が手にできるのは絶対零度近傍の温度でしかないのよ。それと絶対零度――その近傍にまで冷やしたからって、量子的な原理も考えると、常に粒子は揺らいでいるから――」
「うるさい! すらすら科学的なことを口にするのも、やっぱり〝度〟が過ぎるよ! それとも何! 桐山さんまで、僕の力を認めないの?」
「雪野をこんな目に遭わせて! あなたの何を認めろと言うの!」
「おいおい、桐山。俺も心配してくれよ」
宗次郎が息を呑みながら、それでいて花応を背中にかばったまま抗議の声を上げる。
「知らない。あんたはおまけ。ほら、ジョー! 気を失ってる場合じゃないわ! 起きなさい!」
花応が傍らに気を失ったままで転がっていたジョーの脇腹を無造作に蹴りつけた。
「ぺり!」
花応に蹴られてジョーが短い失神から舞い戻り慌てて立ち上がる。」
「あのな……」
ジョーの扱いの悪さに己を重ね合わせたのか宗次郎がげんなりとした様子で振り返る。
「また二人で会話して! 僕は蚊帳の外! もういいよ! 力づくで認めさせてあげるよ! もう誰も僕に――」
その光景に氷室の顔が憎悪に歪む。氷室の右手の中の渦は新たな液体窒素の塊を作り出していた。空気そのものが凍ったかのようなその液体から湧き上がる煙が、氷室の歪んだ顔を白い粒子の向こうに隠していく。
「〝冷たく〟なんかさせるものか!」
氷室が右手を振りかぶり掌に浮かぶ液体窒素を投げつけた。
「何度も同じ手を!」
雪野が魔法の杖をふるう。その尖端から閃光がほとばしった。
その閃光は一瞬ジグザクの光となって空中を走ると液体窒素に衝突する。
白煙を上げて飛んで来た液体窒素はその閃光に撃たれるとその場で四方に爆発四散した。破裂する瞬間から気化するその液体は先と違い雪野の足下にも届かずに地面に細々になり落ちていく。
「カミナリ? やるね、千早さん!」
「ええそうよ、氷室くん! 電撃よ! 手元で破壊しなけりゃ、被害も少ないわ! 液体窒素を自分で叩いてしまう失敗も、もうしないわ!」
雪野が氷室に答えながら前に飛び出した。
「それでも自分から近づいてくるなんて!」
「ケリをつけて上げる!」
「できるもんか!」
目の前に迫り来る雪野に、氷室が己の身をかばう訳でもなく両手を左右に拡げた。
「何を!」
雪野が構わず魔法の杖を振り上げ、突進の勢いとともに振り下ろす。
「攻撃だけが――僕の冷気の力じゃないよ!」
「――ッ! 冷気が!」
雪野が振り下ろした杖を慌てたように引っ込めた。それでも勢いを殺し切れず途中まで振り下ろした両手の先が、何も触れていないのに真っ赤に腫れ上がる。
「惜しい! 全身で飛び込んでくればよかったのに!」
「冷気の壁……」
雪野がその場で片膝を着いしまう。痛みに両手をそれぞれの手で押さえようするが、両手ともに軽度の凍傷にやられてそれもままならない。
「そうだよ! 冷気の壁を張らせてもらったよ! 僕の周りに筒状にね! 力は分散するけど、それでも君は近づけないみたいだね!」
その言葉通りなのか氷室の足下にぐるりと周囲を囲むように円環状に霜が積もり出す。
「この冷気の壁を越えられるかい? 電撃だって、この渦巻く冷気の中では狙いないだろ?」
「く……」
「僕にはもうどんな攻撃もきかないよ! どんな攻撃も凍りつかせてあげるよ!」
「何を……」
雪野が両手をだらりと下げながらそれでも立ち上がると、
「確かに、どんな物でも凍りつかせるのかどうか興味あるわね」
ジョーを脇に抱えた花応がその横に並んだ。歩いて近づいて来たらしい花応は、後ろに心配げについてくる宗次郎を余所にゆっくりと立ち止まる。
「花応!」
「桐山さん!」
二人が驚き振り返る。
その視線を軽々と受け止め花応はジョーの嘴に己の右手を無造作に突っ込んだ。
「でも、あなたの言う絶対零度とやらは――」
そしておもむろにその包帯の巻かれた右手をジョーの嘴から抜き出すと、
「コレも凍りつかせられるかしら?」
手に持ったスプレー缶からガスを噴き出させた。