五、招かれざる者 23
「てめえ!」
宗次郎は声の限り叫び上げると己の右手をはね上げた。白煙を上げ己に向かって真っ直ぐ飛んでくる液体。それは瞬きする間も与えず眼前に向かって来た。
「キャッ!」
はね上げられた宗次郎の右手は後ろに居た花応の肩を突き飛ばしていた。ろくに確かめもせずに突き出させたその腕に花応は後ろに弾ける飛ばされる。
遠慮なく後ろに弾き跳ばされ花応は腰から公園の地面に倒れ込んだ。
「――ッ!」
そして倒れながら見たのは弾け飛ぶ白煙に一瞬で包まれる宗次郎の姿だった。
「河中!」
雪野が慌てて振り返る。宗次郎の上半身から上は完全に白煙に包まれてしまっていた。どれ程の液体窒素が炸裂したのかはその向こうがまったく見通せない白煙が容易に物語っていた。その状況に雪野の額から冷や汗が一つ筋を引いて落ちていく。
「はは! 僕のムカつく相手は河中くんだよ! 皆して、何油断してのさ!」
氷室が歯をむき出して笑う。同じ様子を目に収めながらこちらは冷や汗どころかツバを飛ばして笑い声を上げる。
「河中!」
花応が上半身を慌てて起き上がらせる。だが自分を守ったクラスメートは白煙の向こうだ。花応がその様子に地面に手を着いたまま息を呑んだ。
「……」
宗次郎は動かない。
「河中!」
花応はもう一度相手の名を呼んで立ち上げる。己が倒れていた場所の一歩手前に広がっている黒いシミ。それひ宗次郎が花応を突き飛ばしたお陰で、花応が液体窒素の飛沫を浴びずに澄んだ証拠だ。
そのシミは花応が踏みつけ乗り越えるとあっという間に蒸発していく。液体窒素のそのもの冷気のせいか、それとも最悪の状況を想像してか花応の額から冷や汗が滴り落ちた。
「……」
「河中ってば!」
花応が白煙の向こうの宗次郎の肩を両手で掴んだ。
「無事なの? 何とか言ってよ!」
花応がすがりつくように掴んだ肩を引いて宗次郎を己に振り返させると、
「ペリ……」
その宗次郎の代わりに花応のの目に飛び込んで来たのは黄色い嘴だった。
「へ? 『ペリ』?」
花応が目を白黒させてその黄色い嘴を呆然と見つめる。
「お、おう……ペリカンが……」
その花応のうなじ辺りを見下ろしながら、宗次郎がやや声をふるわせながら答える。その手中には白目を剥いたジョーが抱きかかえられていた。
薄まっていく白煙の中にジョーを抱えた宗次郎の姿が浮かび上がる。
「ジョー!」
花応がジョーの体を宗次郎から奪うように引き寄せた。花応と背丈は変わらないジョーの体。その体重を持て余し花応が思わずヒザをついてしまう。それでもジョーの体を抱えてやり地面に倒れ落ちないようにし抱きとめた。
「ペリ……」
花応の腕の中で長い首をがっくりと垂れジョーは息も絶え絶えに応える。
「とにかく、河中は無事ね……」
その様子を確かめた雪野は魔法の杖を構えあらためて花応達と氷室の間に立つ。
「ち……」
氷室が音高く舌打ちをした。
「『ペリ』――じゃないわよ! どうしたの? まさかあんたが河中を守ったの?」
花応がジョーの体を前後左右上下に揺する。ジョーの長い首がだらりと垂れたままなすがままに揺れた。
「お、おう! ペリカンの野郎! いきなり飛び込んで来て、俺を攻撃から守りやがった! すげえぜ!」
「でかしたわ! でも何、らしくないことしてんのよ! よく飛んで来たわね!」
「飛んで来たというペリか……風に巻き込まれて来たというペリか……」
「気圧差が生み出す乱気流に呑まれたのね! それでうまいこと河中の前に飛んで来たの? でもよくやったわ!」
「ペリ……一応最後は羽を拡げて宗次郎殿を守ったペリよ……」
「おお! 見てたぜ!」
「余計なことしてくれるよね!」
氷室が不意に口を開いて割って入る。不快感もあらわに眉を痙攣させ、不愉快げに唇を歪めていた。
「氷室! てめえ!」
「はん! 河中くんは黙ってなよ! 僕の攻撃をそんな体で防ぐだなんてペリカンに無理をさせて! 野鳥に身を守ってもらってもらうような弱いヤツは、口を挟む資格なんてないね!」
「何を!」
「ペリ! 無理じゃないペリよ! 科学的ペリよ! 花応殿に殴られる前に言われてたペリ! ジョーはお前なんか怖くないペリ!」
「ああん!」
「怖くないベリよ! ジョーだって時には科学的ペリ! 花応殿に言われたら知ってるペリ! ジョーの羽毛なら――」
息巻く氷室の声も聞き流し花応の腕の中で長い首をいきり立てると、
「ドライアイス――ぐらい何ともないペリよ!」
ジョーは自慢げに胸を張って捲し立てる。
「はい?」
花応がジョーの最後の言葉に思わずか素っ頓狂な声を漏らした。雪野に宗次郎、氷室も思わずかその場で固まる。
「ジョーは立派な羽毛持ってるペリ! でもペリカンじゃないペリよ! お前の攻撃はこの自慢の羽毛が防いでくれたペリ! 今度も――」
「ジョー……」
「何ペリか、花応殿? ジョーは今ヒーローペリよ! あのドライアイスの攻撃! ジョーには効かないところを見せてやるペリよ!」
「だから、ジョー……今はもうドライアイスどころか、液体窒素だから……」
「ペリ? 『液体窒素』?」
ジョーが長い首を曲げて花応の方を見る。その目がぱちぱちとしばたたかされる。
「そう、液体窒素。ドライアイスとは比べ物にならないぐらい低温の物質よ。空気そのものが凍ってるのも同然の冷気をぶつけられたのよ」
「それを食らったペリか?」
「それを食らったのよ」
「ジョーがペリか?」
「あんたがよ」
「大丈夫――ペリか?」
「私が訊きたいわよ。あんたね、大丈夫なの?」
「――ッ! ペリッ!」
黄色い嘴の端から突如泡を吹き、ジョーは気を失うようにがっくりと長い首を垂れた。
「ああ、もう! 結局間抜けなんだから!」
「ふん。とんだ邪魔が入ったね。でももう終わりにしてあげる――」
黙って二人のやり取りを効いていた氷室が鼻を一つ鳴らすと右手を顔の前まで持ってきて掌を天に向けた。
「今の僕なら、絶対零度だって作り出せる自信があるからね!」
氷室の言葉通りなのかその防寒具に守られた手の中に、今までを上回る勢いで空気が渦を巻いて巻き込まれていく。
「『絶対零度』?」
その言葉に花応がピクリと一つ眉を動かした。気を失ったジョーを横にするとすっと立ち上がる。
だがその顔の表情はよく見えない。何か己の内を見るように花応は額を陰らせてうつむきながら立ち上がる。
「そうだよ、桐山さん! 科学好きな君の為に、僕が滅多に見られない極寒の世界を見せてあげるよ!」
「ふん……私こそ見せてあげるわ……」
花応はそう呟くと足ともで気を失いだらしく弛緩しているジョーを見下ろす。
「『絶対零度』なんて言葉……軽々しく口にするような人に――」
そして荒れ狂う風に千々にみだれる髪もそのままにぐっと顔を上げるや、
「科学の娘の力をね……」
花応はその自慢の吊り目で氷室零士を全身を射抜いた。