五、招かれざる者 22
「そうよ、液体窒素……実際は空気の成分が全部混じった……混合状態だろうけど……」
宗次郎の下で身をかがめる花応の額を冷や汗がつうと滴り落ちる。その汗が公園の地面に黒いシミを残した。同じく花応達の周囲に黒い点をつけてまき散らされた液体窒素のシミは、その沸点の低さ故にこちらは直ぐに消えていく。
「そうだよ! これが僕の力! どんな物も冷却する自信があるよ! ドライアイスなんて、オモチャに思える程にね!」
氷室は花応の視線を受けてその全身防寒具の体を震わせて笑い出す。
「なる程な……それであの格好か……て、自分も寒いんじゃねえか? バカじゃね?」
宗次郎が花応を己の体の下にかばったまま氷室に振り返る。
「聞こえてるよ、河中くん」
「そりゃ、どうも。まさか、本当にお寒いヤツだとは思わなかったよ」
「うるさい。てか、いつまで桐山さんに抱きついてるの?」
「おっと、失礼。でもお前にゃ、関係ねえよ」
宗次郎はゆっくりと花応を離しながら呟いた。
「そ、それは……そうよ……」
花応も顔を赤らめながら宗次郎の側を半歩離れる。
「何処までも、挑発的だよね。河中くんは。さっき逃げてたみたいに、無様に駆けずり回ってるのがお似合いだと思うよ」
「何?」
「もっとも、僕が足下に作り出した氷で、また直ぐに転ばせさてあげるけどね」
「あれもお前か? 道理で何もないところで転んだと思ったよ。お陰で電話掛け間違ったじゃねえか」
「知らないね」
氷室は宗次郎に向かって歪んだ笑みを浮かべる。そしてその笑みを更に満足げに拡げて花応に目を向けた。
「どう? 桐山さん。僕の力。凄いでしょ?」
「……」
花応はその笑みを向けられ眉間に皺を寄せて神経質に細かくふるわせた。まるでその振幅で相手の笑みを弾き返そうとでもしたかのようだ。花応は緊張と不快感もあらわに無言で相対する。
「何の取り柄もない僕が。こんな力を手に入れたんだ。ぜひ桐山さんに見てもらいたくって、張り切ったよ」
「何を……言ってるの……」
「まだ分からない? じゃあ、もっと頑張ってみようかな!」
「氷室! もう止めとけ!」
「うるさい! まだそんな口をきくんだ? 確かに僕は『お寒いヤツ』だけど、今の僕は沸点が低いヤツでもあるんだよ!」
目を剥いて叫び上げる氷室の周囲に更なる風が唸る。それは初夏の温暖な陽気を一瞬で巻き込み空に舞い上げた。氷室の防寒着のふちにつけられた羽毛がその防寒着の端々ごと派手に揺れた。
「――ッ! 花応! 河中! 下がっていて!」
雪野が氷室の作り出し空気に長い髪を巻き上げられながら、魔法の杖を前に突き出し構え直した。その杖の先に小さな炎が宿る。魔力に全神経を集中する為か雪野は千々に乱れて舞い上がる己の髪を暴れるがままに任せて氷室を睨みつけた。
「ペリペリッ!」
遠巻きに物理的煙幕を作っていたジョー。ようやく作り終わりそうになっていたところを、氷室が作り出した局地的な暴風に襲われる。その水鳥然とした体が飛ばされそうにり、ジョーは煙を吐き出しながらも慌てたように羽を羽ばたかせて体のバランスを取った。
「おわ! 風まで操るのか?」
「はぁ? 何言ってんのよ。急激な温度差と気圧差が、空気の対流を作り出してんでしょ? もっと科学的に考えなさいよ!」
宗次郎と花応は氷室が作り出した風に各々に両手で顔を覆う。
「はいはい! 悪うござんした!」
「ホント、バカ――」
「何処までも――見せつけて!」
氷室が不意に己の右手をふるう。伸ばし切られた腕の先から白煙を上げる液体が放たれた。
「――ッ!」
雪野が新たに打ち出された液体窒素を魔法の杖で打ち払う。白煙は杖の先の炎と激突の衝撃で左右に大きく割れて飛び散った。その一部が防ぎ切れずに雪野の服に飛び散りかかる。
「こりゃ、本格的にヤバいぞ!」
宗次郎がとっさに花応を背中にかばうように立つ。
「河中! 花応をお願い! 接近戦に持ち込むわ!」
飛び散った液体窒素は雪野の肌にも襲いかかっていた。雪野は一瞬だけ顔をしかめると、両手についた白煙を吐き出す液体を払い落としながら前に飛び出た。直ぐに払い落としたにもかかわらず、液体窒素を被ってしまった雪野の肌はその部分だけ真っ赤になっていた。
「雪野、ダメよ! あんたも防ぎ切れてないじゃない!」
「だぁ!」
花応の制止の声を振り払うかのように、雪野は魔法の杖を頭上から氷室に叩き付けるように振り下ろす。
「ふん……」
氷室が鼻で笑うとその杖を右手を上げて迎えた。
「なっ……」
雪野が氷室の右手の中の物に目を剥く。そこには新たに作り出された液体窒素が浮いていた。このまま叩きつければ間違いなく周囲に液体窒素が飛び散るだろう。
雪野が状況を察し振り下ろした杖を止めようとする。だが勢いのついていた杖は幾分威力を弱めつつも氷室の手の中の液体窒素を叩きつけてしまう。
「く……この!」
飛び散る液体窒素が雪野の頬を幾つもかすめた。
「残念! もっと派手にやってくれてよかったのに!」
「厄介な!」
雪野が顔を振りながら後ろに飛び退く。今度も直ぐに液体窒素そのものは剥がれたが、雪野の白い頬に赤い痕が残ってしまう。
「千早さんが、僕の相手してくれるんだ! いいよ! 最初はそのつもりだったし!」
飛び退いた雪野の足下に氷室は連続して液体窒素を放ち出す。
「く……この……」
「はは! 力の使い方にも慣れて来たよ! 益々そっちに勝ち目はないね!」
雪野の足下に次々と打ち込まれる白煙を上げる液体。杖で打ち払うには向かない位置に打ち込まれるそれを、雪野はその場で飛び跳ねるようにかわす。
「雪野!」
「千早!」
花応と宗次郎の声を後ろに聞きながら、
「大丈夫よ!」
雪野は最後は大きく真横に飛んで氷室の攻撃をようやくやり過ごす。
「いいの? そんな位置に飛んで!」
氷室が大きく右手を振りかぶった。
「しまった!」
雪野が慌てて後ろを振り返る。
「河中くんが、がら空きだよ!」
氷室がせせら笑いを浮かべながら右手を振り下ろした。
「届かない! 避けて!」
必死に杖を伸ばす雪野の横をすり抜け白煙を上げながら、
「おわ!」
「きゃあ!」
雄叫びと悲鳴をそれぞれに上げる宗次郎と花応に向かって液体窒素が一直線に飛んで行った。