一、科学の娘1
一、科学の娘
少女は悲鳴を上げた。
「キャーッ!」
全身を襲った衝撃。宙に浮く体。瞬時に明暗が入れ替わる己の視界。
その衝撃に堪らず上がった悲鳴が夜の街路をつんざく。
「く……」
すべての不利を内に押し殺し、少女は薄やみの中、街灯を頼りに身構える。
叩きつけられた民家のブロック塀が、引きはがした身体の分だけ僅かにへこんでいる。まるでお尻をどけた後の座布団だ。
だが何とかそれだけで済んだ。
十年ぶりの魔法。障壁を展開するのは、辛うじて間に合ったようだ。
だが――
「……」
そう、だが少女は次の手が浮かばない。
本来なら障壁を展開するのは、敵の攻撃に対してなのだ。それが間に合わない。相手の速度についていけない。相手の攻撃に合わせることができない。
結果触手に叩きつけられ、ブロック塀と我が身の間に魔力を向けるのが精一杯だった。
少女は長くしなやかな髪を左右に振る。だが視界は戻らない。
「く……」
視界がぼやけるのは、夜目と髪のせいかと思った。しかし違うようだ。たった一発の敵の攻撃に、体が悲鳴を上げているらしい。
十年前なら魔法の杖の一振りで蹴散らしていた。その程度の相手に今の少女は歯が立たない。
十年ぶりに手にした、魔法の杖。子供の頃は大きく感じた。今は少し小さく感じる。杖の大きさはもちろん変わってなどいない。おそらく内に秘めた力も変わってはいない。
そう――
「もう……魔法少女って年じゃないしね……」
そう、変わったのは少女だ。長ずるにつれて、魔法の力がその身から零れ落ちた少女だ。
新芽が種子の殻を自然と落として成長するように、少女の身からはらりと魔力は落ちてしまっている。
自分が魔法少女だったことすら、忘れかけていた少女だ。高校に入学する年になり、机に奥に隠してあった魔法の杖を、自分でも忘れかけた少女だ。
「それでも!」
それでも少女は魔法の杖を構える。
たとえ自分の力が十年前より劣っているとしても。たとえ変身すらできなくとも。たとえ勝てなくとも。
今この敵に立ち向かえるのは、この世界で少女だけだ。少女はそう覚悟する。
家を飛び出す際、とっさに着替えた高校の制服。その長い――校則通りの長さの――スカートの裾を、少女は翻す。
正面より相対する、小山のようなスライム状の敵も身構えたように少女には見えた。
「お母さんには、すぐ戻るって言っちゃってるのよね……」
少女は渾身の魔力を魔法の杖に送る。素材不明の金属と思しき柄に、先端にこれまた材質不詳の宝石と飾りがついた杖だ。
柄の金属が『キン――』と静かに鳴り、先端の宝石が『ボッ』と内から淡く光る。
少女はその切れかけのガス灯のような、淡い光に目を凝らす。
「頼りないけど……食らいなさい!」
その身より多数の触手をくねらす、スライム状の敵。十年前なら捨て駒のように扱われていた敵だ。
その敵を全力をもって倒すべく、少女は魔法の杖を振りかざして前に駆け出した。
新高校一年生――桐山花応は朝の通学路で固まっていた。
やっと着慣れてきた制服の裾と、短い髪が風に揺れる。
そこには何かがいた。
「ぺ……ペリカン?」
そう、ペリカンだ。
ペリカンの死体が、路上に放置されていた。
花応は自慢のつり目を大きく見開いた。少々きつく見える目じりの吊り上った鋭いまなざしだ。その視線でまじまじと路上に放置された水鳥の死体を見つめるが、花応にはどうしていいのか分からない。
「えっと……保健所……警察……市役所……」
高校の通学途中にペリカンの死体を見つけてしまった。どうしたらいいのかなど、一介の女子高生である花応にはとっさに分からない。
花応はこの春高校に入学した。ここはわざと通学路に選んだ、大通りを一筋外れた寂しい道。人ごみが苦手なので、いつもはお気に入りの通り道だ。
だがこの道を通学路に選んだことを、今日だけは後悔した。
そう広くはない住宅路を、塞ぐようにその身を伸ばして転がっている水鳥の死体。第一発見者は、どうも花応らしい。
「ごめんなさい、だけど……」
花応は民家の塀に身を寄せる。水量が割に多い側溝の上だ。ここだけが雪解け水でも流れてきているのかと、錯覚を覚えそうになる水流を見せている。歩きながらでも、水の流れる音がよく聞こえる。
花応は側溝の上に慎重に足を乗せた。壁ににじり寄るように背を向け、花応は血まみれのペリカンの足先を回る。
「私携帯苦手なの……保健所も、警察も、市役所も、番号だって分からないし……」
花応はそう独り言を呟くと、恐る恐るペリカンの足をまたごうとする。なるべく見まいと目までつむった。
思わず鞄の中に忍ばせた、ガラスの小ビンを布越しに握りしめる。それはお守り代わりに、いつも持ち歩いているものだ。
「ペリ……」
「――ッ! ペリ?」
不意に上がった声に、花応は思わず立ちすくむ。
「ほ、保健所の前に……動物……びょ、病院を……ペリ……」
「えっ?」
花応は驚いて目を開ける。辺りを見回すが、人の気配などない。弱々しい声が、途切れ途切れに近くで聞こえたはずのに、どこにも人影はない。
「何? 誰?」
「こっち……ペリ……」
「えっ?」
花応は声のした方――自分の足下に視線を落とす。そこで目にしたのは、血まみれの水鳥の死体――ではなく、瀕死のペリカンのふるふると持ち上げられた首だった。
「なっ?」
「いや。どうもペリ……驚かせて申し訳ないペリ。できれば、近くの動物病院につれていってもらえると、嬉しいペリが……」
横たわっていたペリカンは、首だけもたげて花応を見上げていた。
「なっ! 何?」
「何と言われましても……見ての通り瀕死の重傷を追った、可哀想な不思議生命体ペリ」
「ふ? 不思議生命体!」
「そうペリ。こちらの世界のペリカンによく似てるペリが、私はこう見えて、そんじょそこらの水鳥ではありませんペリ」
そう言ってペリカンは血まみれの体を起こした。乾いて黒くなりだした血が、ペリカンの全身の白い羽毛にこびりついていた。
「ぺ、ペリカンにしか見えないけど……」
「語尾にペリがつくので、よく誤解されるペリ」
「誤解って……」
今や立ち上がり自分の背丈の程ある水鳥を、この少々釣り目の少女はまじまじと見る。
花応は背が高くない。背は一五〇に届かない。
ならばこの水鳥もその前後の体長だろう。
大きさといい、姿形といい、ペリカンにしか見えない。
「羽毛は?」
「白いペリ」
「くちばしは?」
「黄色いペリ」
「水かきは?」
「自慢の一品ペリ」
花応の矢継ぎ早の質問に、不思議生命体とやらは羽を広げ、くちばしを突き出し、水かきを上げて見せる。
怪我をしている割には、それは元気な仕草だった。
「えっと――」
答える度に自慢げにその部位をさらす水鳥に、花応は結論を言ってやった。
「ペリカンよ!」
2015.11.12 誤字脱字などを修正しました。