第4話 庭を潰した翌月、水の味が変わった
馬車の窓から見える景色が、少しずつ変わっていく。
ヴァイスフェルトの肥沃な平原が遠ざかり、丘陵地帯が始まった。春の日差しの中、街道沿いの畑では農夫たちが種まきをしている。彼らが使う水も、元を辿ればあの庭が浄化したものだ。
もう、私が考えることではない。
隣の御者台で、アルヴィンが黙って手綱を握っている。六十年の人生で初めて領地を出る老庭師は、景色を見る余裕もないのか、ただ前を向いていた。
馬車の中は狭くて揺れる。腰が痛い。貴族の馬車ではなく、商人向けの乗合馬車に乗り換えたのは二日目のことだ。手持ちの銀貨を数えると、贅沢はできない。へそくりの八十枚は、グリューネヴァルト領に着くまでの路銀と最低限の生活費でほとんど消える。
宿場の干し葡萄のスコーンを齧りながら、旅の食事の味気なさに思いを馳せる。ヴァイスフェルトの料理人が焼くパンは美味しかった。焼きたての黒パンに蜂蜜を垂らして、熱い麦茶で流し込む朝食。あの味を、もう食べることはないのだろう。
なんというか、離縁の寂しさよりも、朝食の黒パンの方がよほど惜しい。我ながら変な人間だ。
◇◇◇
私が去って二週間後。
ヴァイスフェルト公爵領では、庭が消えようとしていた。
ヴィクトルの命令は迅速だった。魔法工兵が三日で庭の樹木を伐採し、花壇の石を撤去し、深根樹の根を掘り起こした。地面を均し、砂利を敷き、馬場の基礎が作られていく。
アルヴィンの弟子で二十代の若い庭師、トビアスが、作業を監督する工兵の前に立ちはだかった。
「お待ちください。この庭を潰してはなりません」
工兵の隊長が書類を見せた。公爵の署名と印章。「庭園の撤去及び馬場の造成を命ずる」。
「でも、この庭は」
「公爵殿の署名がある。これ以上の権限はこの領地にはない。退け」
トビアスは家令のハンスのもとへ走った。息を切らせて、アルヴィンから託された言葉を伝える。「この庭を潰してはいけない。奥様の日誌にすべて書いてある」と。
ハンスは眉根を寄せた。有能な家令だ。フローラの言葉に根拠がないとは思わなかった。だが旦那様の命令は絶対だ。
「旦那様に申し上げるには、具体的な根拠が要る。日誌を探してみよう」
フローラの書斎に向かったハンスだが、ヴィクトルの命令はそれより速かった。午後には伐採が完了し、深根樹の根が大地から引き抜かれていた。
地下三十メートルまで伸びていた根が、断ち切られる。太さは人の腕ほど。十三年かけて水脈に届いた根が、鉄の斧で数時間のうちに切断された。
根の断面から樹液が滲み出して、土を黒く染めた。工兵たちはそれを踏みつけて作業を続けた。
その瞬間、領地の地下で何が起きたかを知る者は、もうこの場にはいなかった。水脈の浄化サイクルが止まった。目に見える変化はすぐには現れない。水は地下をゆっくり流れる。汚れた水が井戸に届くまでに、数週間はかかる。しかし、時計の針は確実に動き始めていた。
◇◇◇
一ヶ月後。
厨房のメイド、リーナが首を傾げた。
「ねえ、この水。なんだか味が変わっていない?」
隣にいたメイドのカリンが、コップの水を口に含んだ。
「言われてみれば……前はもっと、甘みがあったような」
「気のせいよ。井戸の水なんて、季節で変わるものでしょう」
二人はそれ以上気にしなかった。誰も気にしなかった。春から夏への季節の変わり目。水の味が少し変わるくらい、珍しいことではないと、彼女たちは思った。
しかし、かつてこの水が甘かったのは、浄化蘭の根が地下のミネラルを適切に調整していたからだ。その根が死に絶えた今、水は「味が変わった」のではなく、「本来の味に戻った」にすぎない。
厨房の片隅で、カリンが水差しの水をもう一度口に含んだ。
「やっぱり、前の方が美味しかったわ」
「奥様がいらした頃は、井戸の水もまろやかだった気がするの。朝一番に汲んだ水が甘くて、あれでお茶を淹れると美味しかったのよ」
「それは気のせいよ。奥様はお庭のことしかしてなかったんだもの」
二人は笑って、水差しを棚に戻した。
◇◇◇
ハンスがヴィクトルの執務室を訪ねたのは、馬場の造成が完了した翌日だった。
「旦那様。失礼を承知で申し上げます。奥様が残された書類がございます。庭園の管理に関する日誌と設計図です。十三年分、全十三巻。念のため、ご確認いただけませんでしょうか」
ヴィクトルは書面から目を上げずに答えた。
「今更何を言う。庭はもうない。あれは妻の趣味だ。趣味の記録を読む暇はない」
「しかし」
「ハンス。馬場の完成報告を優先しろ。来月の騎馬試合に間に合わせなければならん」
家令は頭を下げて退室した。廊下を歩きながら、手元のフローラの日誌を見下ろす。厚さ三センチほどの革装丁。表紙には「庭園管理日誌 第十三巻」とだけ書かれている。
十三巻。一年に一冊。
ハンスは日誌をフローラの書斎の引き出しに戻した。鍵はかけなかった。いつか誰かが読むかもしれないと思ったのか、それとも、読まれないだろうと諦めたのか。家令として三十年仕えてきたハンスにも、この日誌が何を意味するのかは分からなかった。ただ、十三年間一日も欠かさず記録を続けた奥様の仕事を「趣味」の一言で片付けてはならない、と感じてはいた。感じていて、何もできなかった。それが、この家の空気だった。
◇◇◇
馬車は丘陵地帯を越え、国境が近づいていた。
空気が変わる。乾いている。土の匂いが薄い。植物が少ない証拠だ。ここから先がグリューネヴァルト伯領。荒野と呼ばれる土地だ。
ポケットの中の銀木犀の種に触れる。三粒の小さな種。母がくれたもの。十三年育てた木から採った種。
この種が次に芽を出す場所が、私の新しい庭になる。
ヴァイスフェルトの水はどうなるだろう。三ヶ月か、半年か。根が死に、浄化が止まり、水質が変わり、井戸が枯れ始める。私にはその過程が手に取るように見える。
止めることはもうできない。止める立場にもいない。
あの庭が何をしていたか、いつか誰かが気づくだろう。でもその頃には、手遅れだ。深根樹は十年かけなければ育たない。浄化蘭は適切な土壌がなければ根づかない。壊すのは一日で済む。作り直すのは、一生かかる。
振り返らない。もう、振り返る場所はない。




