第15話 根は続く
三年後の春。
グリューネヴァルト領の荒野は、もう荒野とは呼べなくなりつつあった。
本格区画の深根樹が、地平線に並んでいる。三十本。まだ若い木だが、幹は私の腰ほどの太さに育ち、根は地下五十メートルに達している。浄化蘭の白い花が区画全体を覆い、月光草が夜になると淡く発光する。昼は緑、夜は青白い光。初めて見た商人が「幽霊の畑だ」と言って逃げた、というのはクラウスの与太話だが、半分は本当だろう。
試験区画は完成した。水質は王都の基準を上回っている。本格区画も七割が稼働中。残り三割は、来年までに整備する。
まだ荒野の半分は褐色のままだ。でもそれでいい。庭は、急いで作るものではない。
◇◇◇
朝、リーゼの授業をする。
十歳になったリーゼは、植物魔法の初歩を学んでいる。指先から緑の光を出せるようになった。微弱だが、安定している。亡き母から受け継いだ素養が、少しずつ花開いている。
「お姉さま。この苗、元気ないです」
リーゼが浄化蘭の幼苗を指差す。葉が少し垂れている。水不足ではない。根付きの問題だ。
「触ってごらん」
リーゼが苗に手をかざす。目を閉じる。指先が発光する。
「……ねっこが、まがってる」
「そう。根が曲がって、水脈に届いていない。真っ直ぐに導いてあげて」
リーゼが集中する。発光が少し強くなる。苗の葉先が、ゆっくりと持ち上がった。根が矯正されたのだ。
「できた」
リーゼが笑った。歯が生え替わって、前歯が少し大きい。六歳のときの「おはなのひと」と呼んでくれた女の子が、十歳の植物魔法師の卵になっている。
「上手にできましたね」
「お姉さまみたいになれるかな」
「なれますよ。あなたは才能がある」
才能。祖母が私に言った言葉と同じだ。「あなたには才能があるよ」。でも私はこの子に、「誰にも教えるな」とは言わない。技術は渡すためにある。
◇◇◇
昼前にルートヴィヒからの手紙が届いた。封が相変わらず歪んでいる。もう二十一歳なのに蝋印が上達しない。でも字は上手くなった。筆圧が安定している。
「母上。ヴァイスフェルトの庭は、七割の機能を回復しました」
七割。三年で七割。私が十三年かけて作ったものの七割を、ルートヴィヒとトビアスが三年で取り戻した。早い。私の論文と、ゲルトルートが派遣した王宮の若手植物魔法師二名の協力が大きい。属人化を脱した技術は、複数の手で加速する。
「井戸の水質が改善し、流出した領民の一部が戻り始めています。東部三村のうち、二村が再開しました」
戻ってきてくれた。水があれば、人は帰ってくる。当たり前のことだ。水は命の根だから。
「母上の論文は、王宮の植物魔法教育の教科書に採用されるそうです。ゲルトルート様からお聞きしました。ゲルトルート様は『私が最初の生徒になる』と仰っていました」
口元が緩んだ。五十八歳の筆頭植物魔法師が「最初の生徒」になる。三十年越しの弟子入り。遅い。遅いが、根は遅くても確実に伸びる。
「追伸。父上は相変わらずです。辺境伯として静かに暮らしています。庭のことには口を出しません。出さなくなりました。たまに、遠くから庭を見ています」
遠くから、見ている。
ヴィクトルにとっての「庭」は、もう私の庭ではない。息子の庭だ。息子が作り直している庭を、かつて「趣味」と呼んで潰した男が、遠くから見ている。
その景色を、私は想像しなかった。想像する必要がない。あの人はもう、私の物語の登場人物ではない。
◇◇◇
午後、エーリヒと庭を歩いた。
銀木犀が大きくなっていた。私の肩を超え、頭を超え、今は見上げるほどになっている。銀色の花が満開だ。百は超えている。数える気にはならない。
エーリヒが隣を歩いている。歩幅が合っている。三年前、散歩で歩幅が合わなかった二人が、今は自然に並んでいる。
「花が多い」
「ええ。去年より増えました」
「……いい匂いだ」
エーリヒが花の匂いに言及するのは珍しい。この人は匂いにあまり反応しない。土の色は見るが、花の匂いは嗅がない。でも今日は、嗅いだ。
「この匂い、リーゼが『お母さまの匂い』と言いましたね」
「覚えているのか」
「覚えています。リーゼにとって、銀木犀は母の匂い。私にとっても、母の匂い。不思議ですね」
不思議ではないのかもしれない。庭を守る女の匂いは、時代を超えて似通う。祖母の手も、母の手も、私の手も、同じ土の匂いがした。リーゼの手も、いつか。
「お姉さまー」
リーゼが走ってきた。手に何か持っている。
「おなかすいた」
朝の授業で集中しすぎて、昼食を忘れたらしい。エーリヒが懐からパンを取り出した。いつ用意したのだろう。この人は、リーゼが腹を空かせるタイミングを正確に予測できる。
三人で銀木犀の下に座って、パンを齧った。チーズと蜂蜜。エーリヒが蜂蜜をパンに塗って、私に渡した。匙ではなくナイフで。外での食事だから。でも甘さは同じ。毎朝の茶碗の蜂蜜と、同じ甘さ。
リーゼが「おにくもほしい」と言い、エーリヒが「パンで我慢しろ」と言い、リーゼが「けちー」と笑った。猫が足元に来て、パンの屑を舐めた。
日常だ。繰り返される、穏やかな日常。
◇◇◇
夕方、作業場で一人になった。
テーブルの上に、論文の写しがある。「ブルーメンタール式水脈浄化術」。いいえ。この名前は仮のものだ。いつか、もっと正しい名前をつける。家の名前ではなく、技術の本質を表す名前を。
でも今はまだ、仮のままでいい。名前は急がない。根が張ってから決めるものだ。
窓の外を見た。荒野が夕日に染まっている。赤い。でも「荒野」ではない。点在する緑が面になり、面が地図になりつつある。五年後、十年後。ここは緑の大地になる。
その日を、ここで見届ける。この人たちと。
根は続く。
私から、リーゼへ。私から、ルートヴィヒへ。ルートヴィヒから、ヴァイスフェルトの新しい庭師たちへ。ゲルトルートから、王宮の若い魔法師たちへ。根は地上からは見えない。でも、すべてを支えている。
銀木犀の花びらが一枚、窓から入ってきた。銀色の小さな花弁。指で摘んだ。甘い匂い。母の匂い。祖母の匂い。そしてたぶん、私の匂い。
いつか、この匂いを知る誰かが、また新しい土地で庭を作るだろう。その人に、私は会えないかもしれない。会えなくてもいい。根は、術者がいなくなった後も伸びる。ヴァイスフェルトの主根がそうだったように。
手のひらが温かい。指先が温かい。足の裏が、この土地を掴んでいる。
ここが、私の庭だ。




