第3話 『私が十年かけた施策の成果だ』——それは、あなたの施策ではありません
水の匂いが変わった、と気づいたのは私だけだった。
離縁の二年前のこと。庭の浄化蘭が微かに色を変え始めた。葉先が普段より白い。地下水脈の汚染度が上がっている証拠だ。私は朝の巡回を一時間早め、蘭の根元に追加の魔力を注いだ。誰も気づかない変化。誰にも気づかれない仕事。
十一年間、ずっとそうだった。
毎朝四時に起き、庭に出る。露の冷たさで目が覚める。深根樹に手を触れ、水脈の状態を確認する。浄化蘭の色を見て、汚染度を測る。月光草の発光量で夜間の蒸散量を推定する。すべて記録する。日誌に、一行ずつ。
誰にも見せない記録。誰にも求められない仕事。でも、これを止めた日に、領地の水は濁り始める。
◇◇◇
その日、社交の席から戻った侍女のマルタが、声を潜めて教えてくれた。
「王宮の報告会で、旦那様が領地の緑化について語られたそうです。『私が十年をかけて取り組んだ施策が実り、領地の水質は王国随一の清浄さを誇る』と」
私は、手元の浄化蘭の葉を見つめたまま動けなかった。
私が十年をかけて。
私、と。
こめかみが脈打つ。冬でもないのに、肩甲骨の間を冷たいものが走る。土を握りしめた。湿った土の感触が、かろうじて私をここに繋ぎ止めている。
ヴィクトルの報告は、嘘ではない。というより、嘘をついている自覚すらないのだろう。あの人にとって、領地の水質が良いのは「自分の領地運営がうまくいっている」からであって、妻が毎朝四時に庭で魔力を注いでいるからではない。見えないものは、存在しない。あの人の世界はそういう仕組みになっている。
怒っている。怒っていた。怒っていたのだと思う。あの頃の私はそれを怒りと呼ぶことを避けていた。認めたら、次に何をするかわからなかったから。
◇◇◇
ベアトリーチェ・ローゼンハインと初めて顔を合わせたのは、夏の夜会だった。
ヴィクトルの隣にいた。若い。私より八つは年下だろう。亜麻色の髪に碧い目。男爵家の令嬢だと聞いていた。没落した家の娘が、公爵の寵愛を受けている。使用人の間ではとうに知れ渡っていた噂を、私はずいぶん遅くに知った。庭にいると、屋敷の中の噂は届きにくい。
「まあ、公爵夫人さま。お庭いじりがお好きだとか。素敵なご趣味ですこと」
ベアトリーチェが微笑んだ。敵意を持った笑顔ではなかった。もっと残酷なものだ。本気でそう思っている顔。庭いじりが好きな地味な夫人。もっと華やかなことに興味を持てばいいのに、とでも言いたげな目。善意の形をした無関心。
悪意なら、まだ対処の仕方がある。でも善意の皮を被った無関心には、怒りの向けどころがない。
私は何と答えただろう。「ええ、おかげさまで」くらいは言ったと思う。記憶が曖昧だ。覚えているのは、自分の舌の付け根がひどく苦かったことだけ。夏だというのに。覚えているのは、帰り道に嗅いだ夜風の匂いだけ。廊下の窓が開いていて、庭から銀木犀の甘い香りが流れ込んでいた。夏の夜風に乗って、静かに、確実に。あの匂いだけが私を庭に引き戻してくれた。あの匂いだけが「あなたはここにいていい」と言ってくれた。
◇◇◇
翌週、ヴィクトルの署名入りの書簡が届いた。庭園予算の三割削減。
理由は「不要な支出の見直し」。不要。この庭の予算を「不要」と判断したのはヴィクトルだが、吹き込んだのは誰だろう。想像はつく。「奥様のお庭にあんなにお金をかけて、もったいないですわ」。あの甘い声が聞こえるようだった。
予算が減れば、浄化蘭の補充が遅れる。深根樹の剪定に必要な道具の更新もできない。
机の上に削減通知を置いて、考えた。何を優先するか。浄化蘭の苗は自分で育てれば費用は抑えられるが、時間がかかる。深根樹の剪定は延期できるが、半年が限度だ。月光草の肥料は削れない。あれが止まると夜間の水蒸気放出が滞り、朝露が減る。
銀貨の数を数えながら、手首の内側が冷たかったのは、寒さのせいにした。窓の外で、銀木犀が風に揺れている。あの木だけは、予算がなくても育つ。私の魔力だけで十分だから。母の形見だけは、誰にも奪えない。
削減通知の裏に、新しい予算配分を書き込んだ。浄化蘭の苗は自家栽培に切り替え。深根樹の剪定道具は来年に延期。月光草の肥料は死守。これで何とか回る。回すしかない。
◇◇◇
「奥様、もう少し声を上げなさいませ」
アルヴィンが箒を握りしめて言った。眉間の皺がいつもより深い。
「旦那様は庭のことを何もご存じない。誰かが教えなければ」
「声を上げたところで」
言いかけて、止めた。この人に愚痴を言うのは筋が違う。
「……声を上げたところで、聞く耳をお持ちの方がいらっしゃれば、とうの昔に気づいているはずです」
アルヴィンは黙った。反論できないからではなく、その通りだと知っているから。
浄化蘭の根元に水をやる。根に手を当てると、地下の水脈が脈打っている。この脈動を感じられるのは私だけ。この庭が何をしているか知っているのは私だけ。その孤独が、十一年分の重さで横隔膜の上に載っている。
でも、庭は私を必要としている。根に触れればわかる。水脈の脈動が、私の掌を通じて語りかけてくる。「ここにいてくれ」と。植物にそんな意志はないと、理屈ではわかっている。でも、根の温もりは嘘をつかない。
水は毎日清められなければならない。井戸の水を飲む領民たちは、蛇口をひねるように当然のこととして清浄な水を使っている。その水が私の手から生まれていることを、誰も知らない。知らなくていい。知らなくていいと思いたかった。でも、知ってほしかった、と認めるには、もう遅すぎた。
日誌を開く。今日の記録を書く。水脈の状態、浄化蘭の色、深根樹の成長記録。万年筆のインクが紙に沁みる小さな音だけが、書斎に響いていた。
書き終えて、ページをめくる。今日で第十一巻の半分を超えた。一年に一冊。もう十一冊。積み上げれば膝の高さほどになる日誌を、誰が読むのだろう。
誰も読まない。
わかっている。それでも書き続けるのは、記録が残れば、いつか誰かが気づくかもしれないと思うからだ。私がいなくなった後でも、この日誌があれば、庭の仕組みは理解できる。引き継げる。
それは保険だったのかもしれない。残れば、いつかは。ただ、書くことだけが、今の私にできる唯一の抵抗だった。




