第14話 荒野の誓い
グリューネヴァルト領に帰ったのは、桜月の末だった。
馬車が荒野の道に入った瞬間、空気が変わった。王都の乾いた石の匂いから、土と風と草の匂いに。車輪の下の感触が、石畳から砂利に変わる。窓を開けた。風が入る。ここの風だ。
アルヴィンとリーゼが館の前に立っていた。リーゼが走ってきた。馬車が止まる前に飛びついてきた。
「お姉さまおかえり」
小さな体を受け止める。腕の中で、土と汗と草の匂いがする。この子は私がいない間も庭にいたのだろう。爪の間が茶色い。
「ただいま」
アルヴィンが深く頭を下げた。「おかえりなさいませ、奥様」。いつもの言葉。でも今日は、「奥様」の響きが少し違う。近く、正式にそう呼ばれることになるのだと、老庭師は知っている。
◇◇◇
結婚式は、一ヶ月後にした。
準備と言っても、大したことはない。招待状は出さない。来るのは領地の使用人と、村の数人だけだ。ルートヴィヒには手紙を出した。来られるかどうかはわからない。ヴァイスフェルトの庭の復元を止めるわけにはいかないから。
ゲルトルートにも手紙を出した。学術委員会の後、私たちは何通か手紙を交わしていた。技術的な質問が主だったが、末尾に「お元気で」とか「良い春を」とか、ぎこちない挨拶が添えられるようになっていた。三十年の因縁が解けるのは、まだ先だろう。でも、糸口はある。
式の場所は庭にした。試験区画の端、銀木犀の下。去年咲いた花は散ったが、今年の蕾が膨らんでいる。式の日には咲くかもしれない。咲かなくてもいい。蕾のままでも、そこにあることが大事だ。
衣装は、リネンのワンピースにした。白い布。飾りはない。髪に銀木犀の小枝を一本挿した。これがアルヴィンの提案だった。「奥様の花は、これが一番でございます」。
鏡を見た。三十四歳の女が映っている。目の下に薄い隈。手は荒れている。爪の間に土がある。二十歳で嫁入りしたときとは、全く違う姿。あのときは、白い手袋をして、爪を磨いていた。
今の方がいい。
◇◇◇
式は午後に始まった。
銀木犀の下に、小さな台が置かれている。台の上に、婚姻届の羊皮紙。証人欄にアルヴィンの名前が先に書かれている。
エーリヒが来た。
紺色の上着。ボタンが一つ、掛け違えている。たぶん緊張して間違えた。指摘しようか迷って、やめた。この人の掛け違いは、この人らしい。
リーゼが花を撒いている。野花。庭に咲いている、名もない白い花。リーゼが自分で摘んできた。花弁が風に乗って、荒野に散っていく。
「始めます」
アルヴィンが言った。証人兼司会。老庭師は、かつてヴァイスフェルトで私の嫁入りにも立ち会った。あのときは使用人の一人として、端に立っていただけだ。今日は、中央にいる。
「エーリヒ・フォン・グリューネヴァルト伯爵。誓いの言葉を」
エーリヒが私に向き直った。口が開いて、閉じた。もう一度開いた。
長い沈黙。
風が吹いた。銀木犀の蕾が揺れた。
「俺は」
止まった。喉仏が動いている。飲み込んだ。もう一度。
「俺は、言葉が足りない。ずっと足りなかった。椅子を増やして、蜂蜜を入れて、外套をかけて。それが俺の、その。言葉の代わりで」
文が壊れている。この人が人前でこれほど言葉に詰まるのを見たことがない。武官の前では「家族だ」と言い切れたのに、私の前では文を繋げない。
エーリヒの手が、私の手を取った。大きな手。荒れていて、硬くて、温かい。手が先に動いた。言葉より先に。
「ここにいてほしい」
あの日と同じ言葉。でも、声の温度が違う。あの日は「仕事としてではなく」が付いた。今日は、それさえ要らない。
「こ���に、いてほしい。それだけだ」
首筋が赤い。声が掠れている。
「フローラ・ブルーメンタール。誓いの言葉を」
アルヴィンに促されて、口を開いた。
何を言えばいいか考えていた。一ヶ月間。夜、眠れないときに。朝、土に触れるときに。言葉を探して、見つからなくて、結局——。
「ここにいます」
それだけ出た。用意していた言葉が全部飛んだ。一ヶ月考えて、出てきたのがこれだけ。
「あなたの隣で、この土地で。根を」
詰まった。目の奥が熱い。鼻の奥がつんとする。
「……根を張ります」
やっと出た。声が情けないほど小さかった。でも、これが私の言語だ。根を張る。それ以上に正確な言葉を、三十四年間、見つけられなかった。
リーゼが拍手した。一人で。パチパチパチと、小さな手のひらが鳴る。それにつられてアルヴィンが拍手し、使用人たちが続いた。
婚姻届に署名した。
フローラ・ブルーメンタール。
いや。
フローラ・フォン・グリューネヴァルト。
新しい名前。三つ目の名前。ブルーメンタール、ヴァイスフェルト、そしてグリューネヴァルト。でも今度は、選んだ名前だ。
◇◇◇
夕方、商人のクラウスが届けてくれたヴァイスフェルトの噂を、ルートヴィヒの手紙と重ね合わせた。
ヴィクトルは辺境伯として、縮小した領地で暮らしているという。社交界には顔を出さなくなった。領民の流出は続いているが、ルートヴィヒが庭の復元を進めていることで、「若様に期待する」という声も出始めているらしい。
ヴィクトルの独白が、商人の噂として断片的に届いた。
「あの庭は本当にただの趣味だと思っていたそうですよ。今でも。ただ、『妻がいなくなって初めて、自分に何が見えていなかったかがわかった』とは言ったとか」
見えていなかった。
十三年間、すぐそばにあったものが見えていなかった。
恨みはない。もう、ない。許しも、許しとは少し違う。ただ、もう関係がない。あの人は私の過去で、私はあの人の過去だ。過去は変えられない。変えなくていい。
銀木犀の蕾を見上げた。まだ咲いていない。でもあと数日で開く。蕾の先端が、わずかに銀色に色づいている。
「ただいま」
誰に言ったのでもない。でも、風が返事をした。荒野の風。乾いていて、でも、去年よりも少し湿り気がある。




