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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第2話 荒れた庭と、目を合わせない夫


あの日の私は、まだ土の匂いに希望を見つけられる人間だった。


十三年前、嫁入りの馬車の窓から見えたのは、どこまでも続く緑の平原と、その中央にそびえるヴァイスフェルトの屋敷だった。白壁の堂々たる建物。手入れの行き届いた並木道。そして、荒れ果てた庭。


馬車を降りて最初に目が行ったのは、庭の土だった。


靴を脱ぎたかった。素足で踏んで、土壌の状態を確かめたかった。花壇の縁石が崩れ、雑草が好き勝手に伸びている。だが土の色は悪くない。黒みがかった茶色。有機物は十分に含まれている。


「ここを変えられる」


口に出して初めて、自分がどれほどこの婚姻に期待していたか気づいた。ブルーメンタール家の、傾いた家計の、父の病床の、そんな暗い場所からここへ来た。新しい土地。新しい土。というより、私は単に、植物魔法を存分に使える場所が欲しかっただけなのかもしれない。


◇◇◇


ヴィクトルとの初対面は、応接間だった。


美しい人だった。いや、美しいかどうかより、この人の目が私を見ていないことの方が気になった。視線は合っている。言葉も丁寧だ。でも、目の奥に私という人間への関心がない。事務手続きの一環として、新しい家具の受け入れをしているような、そういう目。


「庭のことは好きにしろ。先代がそう決めた」


先代公爵、ヴィクトルの父の名を出すとき、ほんの一瞬だけ口元が硬くなった。父の決定に従っているが、納得はしていない。そういう顔だった。


「ありがとうございます。大切に致します」


「ああ」


それだけだった。


婚姻の挨拶が、これで終わった。侍女長が用意してくれた蜂蜜水にも、この人は手をつけなかった。陶器のカップに光が反射して、琥珀色の液面が揺れている。甘い匂いだけが応接間に残った。


他に何か言うべきことがあった気もする。でも、この人が何を言えば満足するのか見当がつかなかったし、この人もまた、私に何を言えばいいのか知らないようだった。知ろうとしていないようだった。


◇◇◇


先代公爵の遺言を知ったのは、翌日のことだ。


家令のハンスが、黄ばんだ羊皮紙を恭しく差し出した。先代の筆跡は角張っていて読みやすかった。


「この庭を、ブルーメンタールの娘に任せる。この土地の水は、庭が守っている。それを忘れるな」


先代は知っていたのだ。植物魔法が何をしているか。庭が領地にとって何を意味するか。だからこそ、わざわざ植物魔法の名門から嫁を迎えた。この人だけが、理解していた。もう亡い人だけが。


私は遺言を何度も読み返した。「忘れるな」。先代はおそらく、息子が忘れることを予見していた。


◇◇◇


庭の調査に丸三日かけた。


地下水脈の位置を探るために、地泉苔を探す。水脈の上に自生する苔だ。庭の北東の隅に、僅かに残っていた。膝をつき、苔の表面に指を這わせる。湿り気は十分。水脈は生きている。ただし浄化が追いつかず、そのまま飲めば腹を下す程度には汚れている。


「ここに浄化蘭を植えて、この辺りに深根樹を配置すれば……」


一人で呟きながら、設計図を描いた。母に教わった方法。祖母が開発し、母が受け継ぎ、私に伝えた技術。学術書には載っていない。ブルーメンタール家の女たちだけが知る、水を守る庭の作り方。


完成までに八年はかかる。根を張らせ、水脈と接続し、浄化の循環系を確立するまで。気の長い仕事だ。


でも、気の長さなら自信がある。祖母は三十年かけて実家の庭を完成させた。母はその庭を維持しながら、私に全てを教えてくれた。植物魔法は派手な結果を出さない。火の魔法のように一瞬で敵を焼くことはできないし、治癒魔法のように目に見える奇跡も起こさない。ただ、根を張り、水を通し、十年後の土壌を変える。


地味だ。華がない。だから「農業魔法」と呼ばれて軽んじられる。


でも、水がなければ人は死ぬ。それだけは確かだ。


私にはこれしかできない。それだけが、ここにいる理由だ。


◇◇◇


庭の隅に、銀木犀の種を植えた。


三粒。母の形見。嫁入り荷物の底に、布に包んで忍ばせてきた。持参金の目録には載っていない、私だけの持ち物。


穴を掘り、種を置き、土をかけて、水をやる。指先に残る土の湿り気が、少しだけ実家の庭に似ていた。


「母さま。ここで咲いてね」


誰もいない庭で、二十歳の私はそう呟いた。種は答えない。でも、土の中で確かに生きている。来年か再来年か、あるいはもっと先に、銀色の花を咲かせるだろう。それまで、私がここにいればいい。


◇◇◇


最初の夜。


夫人の寝室は広かった。天蓋つきの寝台、刺繍の施された寝具、磨き上げられた鏡台。手入れは行き届いているのに、誰も使った形跡のない部屋。先代夫人が亡くなってから十年以上、空き部屋だったのだろう。


鏡台の前に座って、長い髪を梳いた。母が毎晩してくれたように。でも鏡の中の自分は、母ほど穏やかな顔をしていなかった。鏡の中の顔は強張っていた。頬の筋肉が硬い。こめかみの奥で血が脈打っている。


蝋燭の灯を消して、暗闇の中で横になる。リネンのシーツは冷たかった。踵が冷たい。靴の中で指を丸める。春だというのに、この部屋だけが冬のようだ。


ヴィクトルは来なかった。


来ないだろうとは、思っていた。あの目を見れば分かる。この結婚は先代の遺志であって、彼の意志ではない。私は庭のために来た道具であって、妻として迎えられたわけではない。


分かっていたのに、暗闇の中で天蓋を見上げていると、何かが喉の奥に詰まった。悲しいのとは違う。もっと手前の、飲み込めないもの。ただ、暗かった。広い部屋が、ひどく暗かった。


寝返りを打つと、枕から前の住人の匂いがした。石鹸と、かすかに、花の香り。先代夫人もここで一人の夜を過ごしたのだろうか。


でも、私には庭がある。


明日の朝、あの土に触れれば、この暗さは薄れるだろう。植物は嘘をつかない。水をやれば育ち、手をかければ応える。人間とは、違う。


そう言い聞かせるのは、もう何度目だろう。実家にいた頃から、辛いことがあるたびに庭に逃げてきた。土に手を突っ込んで、根の感触を確かめて、ようやく息ができた。


これから十三年、ここでもそうするのだろう。


目を閉じた。指先に、まだ土の感触が残っていた。

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