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『あの庭は妻の趣味だから潰せ』と仰ったそうですね。  作者: 秋月 もみじ
第1章

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第15話 銀木犀が咲いた


銀木犀が咲いた。


グリューネヴァルト領に来て一年。荒野の試験区画の端に植えた種が、ようやく花をつけた。背丈はまだ膝ほど。銀色の小花が五つ。朝露に濡れて、光を弾いている。


あの日、ヴァイスフェルトの庭から持ち出した三粒の種のうち、芽を出したのは一粒だけ。それがここまで育った。母がくれた種。祖母が育てた品種。曾祖母が発見した原種から始まる、ブルーメンタール家の女たちの系譜が、この一本の木に繋がっている。


しゃがんで花に顔を近づけた。甘い香り。かすかに苦味のある、銀木犀だけの匂い。リーゼが「お母さまの匂い」と言った香り。私にとっては、母の匂い。


鼻の奥が熱くなった。でも泣かなかった。今日は泣く日ではない。今日は、笑う日だ。


◇◇◇


朝食の席に三人がいた。


エーリヒ、リーゼ、そして私。アルヴィンは厨房で山羊乳のチーズを切っている。パン粥の湯気が食卓に立ち上る。リーゼがスプーンを握って待ちきれない顔をしている。


「いただきます」


リーゼが真っ先に食べ始める。頬にパン粥がつく。エーリヒが無言で布を差し出す。リーゼは無視してもう一口。日常だ。繰り返される、穏やかな日常。


「お姉さま、今日もお庭にいくの?」


「行くよ。今日は銀木犀が咲いたの。見に来る?」


「いく」


リーゼが椅子から飛び降りようとして、エーリヒが襟首を掴んだ。


「……食べてから」


「はーい」


この食卓に、私の席がある。一年前にはなかった席。消耗品として補充されたのではなく、「ここにいてほしい」と言われて座っている席。


エーリヒと目が合った。一瞬。すぐに逸らされた。耳の後ろが赤い。朝から赤い。パン粥を作るのに集中しすぎて焦がしたのも、たぶんそのせいだ。リーゼは「おこげおいしい」と言ったが、焦げたパン粥が美味しいわけがない。この人は、一緒に食卓を囲むことにまだ慣れていないらしい。三年間、娘と二人きりだった食卓に、もう一人増えた。それだけのことに、まだ緊張している。


不器用だ。救いようがないほど不器用だ。でも、その不器用さが嫌ではない。嫌ではないどころか、温かい。


◇◇◇


食後、手紙が届いた。


ルートヴィヒからだ。封蝋を割って、中を読む。


「母上。馬場を壊し、庭を作り直しています。庭師のトビアスと二人で、日誌を見ながら。浄化蘭の種を土の中から見つけました。まだ生きていました。植え替えて、水をやっています。うまくいきません。芽が出ません。でも、やめません。トビアスが『種は辛抱強い。待てば出る』と言っています。母上もそう思いますか」


手紙の端が少し滲んでいた。汗か、あるいは涙か。


そう思うか。種は辛抱強いか。


「ええ。思いますよ」


声に出して答えた。手紙に向かって。届きはしないけれど。返事を書こう。今日中に。種の発芽条件を詳しく書いた手紙を。温度と湿度と日照時間。それから、焦らなくていいということ。私が八年かかったことを、あの子は知っている。知っていて、やめないと言っている。それだけで十分だ。


便箋を裏返す。追伸があった。


「日誌の第五巻に、銀木犀の成長記録がありました。母上が毎年、花の数を数えていたのですね。第一年は花がつかず、第二年は一つ、第三年は三つ。十三年目は百二十四。母上の庭は、こんなにも豊かだったのですね」


百二十四。最後の年の銀木犀の花の数。数えていた。毎年、数えていた。そのことを息子が見つけてくれた。


ポケットの中の種に触れた。もう、触れる必要はない。種はもう、この土地で花になった。


◇◇◇


午後、リーゼを連れて銀木犀を見に行った。


「おはな。ぎんいろ」


リーゼが花びらに指を伸ばす。触らないように、すれすれで止める。花を壊してはいけないと、教えたことを覚えている。


「匂ってみて」


リーゼが鼻を近づけた。大きく息を吸って、目を閉じる。


「お母さまの匂い」


二度目。リーゼがこの花に同じ言葉を使うのは。エーリヒの亡き妻が好きだった花。偶然にも、ブルーメンタール家の銀木犀と同じ花だったのか。それとも、銀木犀そのものではなく、「手を入れた庭から香る匂い」が、どちらの母にも共通していたのか。


どちらでもいい。この匂いが、リーゼにとって「母の匂い」であることに変わりはない。


エーリヒが後ろから来て、立ち止まった。花を見ている。リーゼを見ている。私を見ている。何も言わない。でも、その視線の温度が分かる。


「きれいですね」


「……ああ」


それだけ。でも、この人の「ああ」には、いつも言葉以上のものが詰まっている。


◇◇◇


夕方、アルヴィンが作業場に来た。


「奥様。一年が経ちましたね」


「そうですね。早かったような、長かったような」


「奥様の庭は、ここにございます」


老庭師が微笑んだ。皺の深い顔に、穏やかな光が差す。この人は二十年、私の庭を見てきた。ヴァイスフェルトの庭も、ここの庭も。


「奥様の庭は、どこにあっても奥様の庭です」


エーリヒと同じことを言った。言い方は違う。でも、意味は同じだ。


私の庭は、ここにある。


ヴァイスフェルトの庭は失われた。深根樹は伐採され、浄化蘭は枯れ、月光草は消えた。でも日誌は残った。技術は息子に伝わった。種は土の中で眠っている。


そしてここに、新しい庭が育っている。荒野だった土地に泉が湧き、深根樹が根を張り、浄化蘭が花を咲かせ、銀木犀が銀色の小花をつけている。


窓の外を見た。夕日が荒野を照らしている。でも「荒野」と呼ぶのは、もう正確ではない。点在する緑が、少しずつ面になりつつある。五年後、十年後、ここは緑の大地になるだろう。


その日を見届けたい。この場所で。この人たちと。


「ただいま」


誰に言ったわけでもなかった。でもアルヴィンが答えた。


「おかえりなさいませ、奥様」


窓の外で、銀木犀が風に揺れた。銀色の花びらが一枚、風に乗って飛んでいく。荒野の上を漂い、やがて土の上に落ちる。花びらは土に還り、やがて養分になり、新しい根を育てる。循環する。すべては循環する。


十三年前、母から受け取った種が、ここで花になった。いつかこの花の種を、ルートヴィヒに渡す日が来る。その種がヴァイスフェルトの新しい庭で花を咲かせる日が来る。そのとき、ブルーメンタール家の女たちの系譜は、息子に繋がる。


私の庭は、ここにある。

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― 新着の感想 ―
主人公は後妻として息子(4歳)のいる公爵家に嫁ぎ、白い結婚と庭の管理を13年続けた後に離婚されたと解釈いたしました。 息子さんの庭が少しずつでも上手くいく未来であってほしいし、庭の水浄化システムの技…
息子さんは血縁関係なしでしょうか? 息子さんが17歳、結婚期間が13年、ずっと違和感が残ったまま読み終わりました。 血縁関係あれば魔法引き継げたのかしら?
息子の齢と、結婚生活期間と、日誌の冊数の見直しをなされるよう、お勧め致します。
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