第14話 この土地にいてほしい。仕事としてではなく
ヴィクトルの権限の一部が王家に返上された。
商人からその知らせが届いたのは、荒野の試験区画で深根樹の根に魔力を注いでいるときだった。領地統治における水利管理と農政の権限を、王家が直接監督することになったという。実質的な領主権の縮小。社交界の華と呼ばれた男が、近隣の領主に頭を下げて水を融通してもらう日々が始まったとも。
「ベアトリーチェ様は逃げたそうです」
商人が何気なく付け加えた。
「公爵夫人として正式に迎えられたはずが、三日で屋敷を出たとか。先の奥様が管理していた業務の目録を見せられて、三十八項目あったそうで。社交界の根回し、同盟五家との書簡、王妃への季節の挨拶、領内二十三村からの陳情窓口……」
三十八項目。私がしていたことの数を、数えたことはなかった。でも目録にすれば、そのくらいにはなるのだろう。日常の中に埋もれた業務を、一つひとつ拾い上げれば。
ベアトリーチェが逃げたことに、怒りは感じなかった。ざまあみろ、とも思わなかった。溜飲が下がるとも思わなかった。ただ、少しだけ可哀想だと思った。
いや、可哀想なんて言葉は傲慢だ。あの人はあの人なりに、没落した実家を支えるために必死だった。使える武器が美貌と話術だけだった人に、三十八項目の実務を押し付けるのは酷だ。あの人が悪いのではない。あの人の存在が悪いのでもない。ただ、私の仕事を「趣味」と呼び続けた行動が悪かった。あの人は「公爵夫人」の座が欲しかったのであって、三十八項目の業務が欲しかったわけではない。華やかな肩書きの裏にある地味な実務を、初めて目にしたのだろう。
「たった一人でこれを?」
きっとそう思ったに違いない。そして、その問いの先にある事実、「これを十三年間、たった一人でやっていた女がいた」という現実に気づいたとき、自分がその代わりにはなれないと悟ったのだ。
◇◇◇
その日の夕方、試験区画の最深部で、深根樹の根が地下水脈に触れた。
指先を幹に当てた瞬間、わかった。根の先端が水に届いた。ヴァイスフェルトでは八年かかった接続が、ここでは七ヶ月で起きた。水脈までの距離がヴァイスフェルトの半分以下で、土壌の透水性も高い。それに今回は、十三年分の経験がある。根への魔力の注ぎ方を、私は身体で覚えている。フローラの庭が機能し始めた証拠。
手のひらから、微かな脈動が伝わってくる。水の流れ。地下を行く、静かで確かな流れ。ヴァイスフェルトの庭で初めて水脈に触れたときと同じ感覚。でも今回は、誰かに「趣味」と呼ばれることはない。ここでは、この仕事は「仕事」と呼ばれる。
指先が震えた。手のひらが熱い。膝の裏が緩む。
膝をついた。地面に近づきたかった。手のひらを土に押し当てて、水脈の脈動を全身で受け止める。泣くかもしれないと思ったが、涙は出なかった。代わりに、手のひらが熱くなった。掌から肘へ、肘から肩へ、温もりが伝わっていく。
「できた」
誰に言うでもなく、呟いた。できた。この荒野で、もう一度。八年かかったものが七ヶ月で繋がった。条件が違うからだが、それだけではない。今回は焦っていなかった。急がされてもいなかった。誰にも「趣味」と呼ばれなかった。ただ黙々と根に魔力を注ぎ、土壌を整え、苗を育てた。その時間が、根の成長を助けたのだと思いたい。
◇◇◇
夜、作業場でデータを整理していると、エーリヒが来た。
手にした書類は次年度の予算計画だった。グリューネヴァルト領の財政は厳しい。荒野再生にかけられる予算は限られている。でもエーリヒは削れる場所をすべて削って、再生プロジェクトの継続を確保していた。
「来年も同じ予算を確保した。足りなければ言え」
「ありがとうございます。十分です」
書類に目を通す。数字の並びに、エーリヒの苦心が見える。自分の生活費すら削っているのではないか。伯爵の年収は金貨四百枚。そのうち二百枚が私の報酬と再生プロジェクトに充てられている。半分だ。
「エーリヒ様」
「……何だ」
「これでは、あなたの暮らしが」
「問題ない」
嘘だ。嘘が下手な人だ。耳の後ろを掻いている。嘘をつくときの癖。
「フローラ殿」
「はい」
「この土地にいてほしい」
予算の話をしていたはずだった。突然、話が飛んだ。エーリヒの目がこちらを見ている。いつもは逸らす目が、今日は逸れない。
「仕事としてではなく」
四文字が追加された。仕事として、ではなく。つまり、植物魔法師としてではなく。雇い主と被雇用者としてではなく。
「……エーリヒ様」
「エーリヒでいい。今は、伯爵としてではなく言っている」
この人が名前を呼んでほしいと言うのを、初めて聞いた。不器用にもほどがある。告白なのか許可なのか判別がつかない。でも、耳の後ろが真っ赤だから、たぶん告白だ。
胸の底で何かが外れた。もう戻せない。戻す気もない。
嬉しい、と思った。同時に怖い、とも。でも今度は、怖いままでいい、と思えた。十三年間、何も感じないふりをしてきた。怖かったから。でもここでは、怖いまま、嬉しいまま、矛盾したまま、ここにいていいと言ってくれる人がいる。
「私も、ここにいたい」
声が小さかった。聞こえたかどうかわからない。でもエーリヒの耳の後ろの赤が、さらに濃くなった。聞こえたのだ。
「……ああ」
それだけ言って、エーリヒは出て行った。早足で。逃げるように。足音が遠ざかる。荒野の夜の静寂が戻る。
一人になった作業場で、テーブルに突っ伏した。顔が熱い。耳まで熱い。三十三歳にもなって、告白されたくらいで顔を赤くしている自分が可笑しい。でも、十三年間、誰にも「いてほしい」と言われなかったのだ。「いなくなっても何も変わらない」と言われた人間にとって、「いてほしい」の五文字は、泉が湧くのと同じくらいの奇跡に等しい。
窓から外を見た。月が出ている。荒野を青白く照らしている。この荒野が、いつか緑の大地に変わる日。その日を、この人の隣で見届けたい。
翌朝、作業場に新しい椅子が一脚増えていた。エーリヒの仕事だ。言葉より先に行動が来る人。「いてほしい」の次の行動が「椅子を増やす」なのが、この人らしい。笑った。声に出して、笑った。




