第1話 最後に、庭に水をやらせてください
「最後に、庭に水をやらせてください」
それが私の、十三年の別れの言葉だった。
十三年。正確には十三年と四ヶ月。数えたところで何が変わるわけでもないけれど、植物魔法師というのは厄介な生き物で、数字を曖昧にしておくことが、どうにも落ち着かない。
離縁届は今朝、家令のハンスに預けた。羊皮紙の端がほんの少し歪んでいたのは、私の手が震えていたからではなく、昨夜の湿気のせいだ。たぶん。
庭に出ると、朝露がまだ残っていた。靴の底が湿った土を踏む感触。十三年間、毎朝同じ感触で始まる一日だった。
今日で終わる。
深根樹の幹に手を触れる。地下三十メートルまで伸びた根を通じて、水脈の流れが伝わってくる。いつもと同じ、穏やかな脈動。この脈動を感じ取れるのは、この領地では私だけだった。
今日が、最後になる。
浄化蘭の葉先に溜まった露を指で弾く。この蘭が地下水を濾過し、井戸水を清浄に保っている。深根樹の根が水を汲み上げ、浄化蘭が不純物を吸着し、月光草が夜の間に余分な水分を空気中に放出する。十三年かけて作り上げた循環系。目には見えないが、この庭の下には領地全体の飲み水を支える仕組みが、根のように張り巡らされている。
「奥様」
アルヴィンが如雨露を持って立っていた。六十を過ぎた庭師の手は節くれ立ち、爪の間に土が入り込んでいる。私と同じ手だ。
「最後の水やり、お手伝いいたします」
私は頷いた。何か言おうとして、言葉が喉の手前で止まる。代わりに如雨露を受け取り、浄化蘭の根元に水をやった。
水が土に染み込んでいく音。
ざ、と低く、ざ、と静かに。土が水を受け入れる音は、飲み込むのではなく迎え入れるような響きがする。この音を何千回聞いただろう。朝の静けさの中で、水と土だけが会話をしている。
いつもは心地よかったはずの音が、今日は少し遠い。世界に薄い膜が一枚かかったように、すべてが僅かに隔たっている。
◇◇◇
庭の東端に、壊れたベンチがある。
ルートヴィヒが五歳のとき、ここに座って絵を描いていた。虫の絵だったか、花の絵だったか。いいえ、土の絵だった。茶色い丸をいくつも重ねて、「おかあさまのつち」と笑った。
あの子が最後に庭に来たのは、いつだったろう。十年は前になる。ヴィクトルに「男が庭で遊ぶものではない」と叱られてから、あの子はもう来なかった。
ベンチの脚が一本、朽ちかけている。直そうと思って、十年が過ぎた。結局、直さないまま出て行くことになる。
庭の植物は手を入れ続ければ応えてくれる。でもベンチは、座る人がいなければただの木だ。
◇◇◇
銀木犀の前で足を止める。
母がくれた種から育てた木。十三年前、嫁入りの荷物に紛れ込ませた三粒の種のうち、芽を出したのは一本だけ。背丈は私の肩ほど。銀色の小花が控えめに咲いて、甘い香りを漂わせている。
種を採る。
枝から三粒、熟した実をもいで掌に載せる。小さくて、硬くて、指の腹に押し当てると微かに温かい。この温もりは種が生きている証拠だ。
ポケットに入れた。
「奥様の庭は、きっと大丈夫です」
アルヴィンがそう言って、深く頭を下げた。大丈夫。大丈夫とは、何が。この庭が無くなっても、という意味か。それとも、奥様の次の庭は、という意味か。
どちらでもいいか。この人はいつも、言葉の少ない人だった。でもその少なさが、今はありがたい。
「アルヴィン。あなたにお願いがあります」
「何なりと」
「この庭を潰してはいけない、と。それだけを、誰かに伝えてください。理由は私の日誌に全て書いてあります。書斎の二段目の引き出しに、十三年分」
老庭師の目が僅かに揺れた。意味を理解している顔だった。この人は魔力を持たないけれど、庭が何をしているかは知っている。根の張り方、水の流れ方、土の匂いの変化。言葉にはできなくとも、身体で知っている人だ。
「必ず」
一言だけ返して、アルヴィンは深く頭を下げた。
◇◇◇
屋敷の裏手を通りかかったとき、声が聞こえた。
「あの庭は妻の趣味だから潰せ。馬場にする。来月には着工だ」
ヴィクトルの声だった。家令のハンスに指示を出しているらしい。明瞭で、よく通る、人を惹きつける声。王宮の社交の場でも、夜会の広間でも、この声は変わらない。穏やかに、確信を持って、十三年分の庭を「趣味」と呼んだ。
趣味。
私はその言葉を口の中で転がした。十三年間、毎朝四時に起きて根に魔力を注ぎ続けた日々の呼び名が、それだった。
奥歯の裏側が痺れた。
花の匂いが――消えた。ついさっきまで感じていた銀木犀の甘い香りが、鼻の奥から抜け落ちる。代わりに、ただ冷たい空気だけがあった。
足を止めかけて、やめた。
止めたところで何が変わるだろう。十三年間、私が庭で何をしていたか、あの人は一度も聞かなかった。聞く気もなかった。聞いても理解する気がなかった。今更「あの庭は水源です」と言ったところで、「何を馬鹿なことを」と笑われて終わりだ。
解放されたはずなのに、足が重い。
いや、重いのは足ではなく、ポケットの中の種かもしれない。三粒の、小さな種。百年は生きるだろう種。
◇◇◇
門を出た。
門扉の蝶番が軋む音。入るときには気づかなかった音だ。出て行くときにだけ鳴る、そういう蝶番なのかもしれない。
振り返らなかった。振り返れば、きっと庭が見える。深根樹の梢が、浄化蘭の白い花が、銀木犀の銀色の葉が見える。見えてしまったら、足が止まる。
馬車に乗った。アルヴィンが御者台の隣に座っている。彼も来ると決めたのは昨夜のことで、私は止めなかった。止める理由がなかった。
馬車が動き出す。車輪が砂利を踏む音。それだけの音が、妙に大きく響いた。窓の外をヴァイスフェルトの平原が流れていく。春麦の穂が風に揺れている。この麦を育てる水も、庭が守っていたのだと知る者は、もういない。
ポケットの中の種に触れた。硬くて、小さくて、温かい。
あの庭が、この領地の水源でした。
水脈を浄化する根が死ねば、三ヶ月で井戸の水質が変わる。半年で枯渇する井戸が出始める。一年後には、領民が水を求めて他所へ流れるだろう。
知っていた。知っていて、止めなかった。
止めたかった。でも、止める権利を、あの家で私は持っていなかった。




