海辺の花【短編】人魚喰い1【夏のホラー2025】
崖を降りた岩場で、七海は見つかった。
白いシャツは裂け、ちぎれたスカートは、半分になっていた。
はだけた制服のリボンだけが、無傷。
その胸の上には、きらきらと光る小さな貝殻と、小さな花が一輪、ポツンと乗っていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
「むかしむかし、この村の海での出来事じゃ・・・」
古びた村の小さな小学校。
あいにく天気は、小雨まじり。
旧校舎の畳床の上に、子どもたちが、輪になって座る。
その真ん中に背中を丸めて座るのは、語り部の爺さま・・・鈴木治郎。
この年寄りが、静かに語り始めたのは、古くから伝わる「昔話」であった。
子どもたちは、配られた駄菓子をボリボリと音を立ててかじりながらも、いつしか手を止め、話に耳を傾ける。
「その頃、村では、あるときから魚がまったく獲れんようになった。どんだけ沖へ出ても網の中に食べられる魚は、居らん。魚の代わりに藻や腐った貝殻ばかりがかかってのう・・・海の神さまが怒っとるに違いないと、困り果てて、領主様に、納める租税の免除を訴え出たんじゃ。」
鈴木治郎の語り口は、抑揚こそ淡々としていたが、奇妙な熱が籠っていた。
「ところが、村の領主はこう言ったんじゃ。『ほう・・・海神の怒りとな。ならば、神に捧げる供物が要る。海の神に近しい者がおったであろう。かの巫女を海に捧げるべし!』・・・んでな、村の神事を務めておった若い娘が選ばれたわけさ。少女は、海神の巫女と呼ばれておって、海の神さまに舞を捧げる役目を担っておった。」
「その子、殺されちゃうの?」
輪のすみに居た子どものひとりがポツリと聞いた。
語り部・鈴木治郎は、ゆっくり頷き、つぶやくように告げた。
「海の声を聞く巫女は・・・海に還ることになったのじゃよ。」
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
放課後の教室に、夕陽が差し込み、淡い海の匂いが、ふわりと漂う。
「ねぇ、本当に行くの?やめた方がいいって・・・大人だって近づこうとしないじゃん、あそこ」
「行くよ。気になるじゃない?あの話って、本当に、ただの昔話なのかどうか・・・」
七海と一緒にいるのは、幼なじみの優子。
優子は、友情に厚い。
七海が、『巫女の大岩』に行くつもりだと話したとき、彼女だけが反対せず、むしろ心配そうに付き合ってくれる姿勢を見せてくれた。
『巫女の大岩』は、今は使われることのなくなった明治期の旧道の先・・・海辺の岩場を越えなければ辿り着けない。
もちろん、観光案内の地図や、インターネットで見られるマップなどには載っておらず、地元の口伝だけが、その場所の存在を語り継いでいた。
陽が落ちる寸前の薄明。
七海と優子は、懐中電灯を片手に、雑木林を抜け、旧道へと向かった。
「本当に気味が悪い・・・七海、この空気、なんか嫌だよ。」
「確かに、ちょっと静かすぎるね。鳥の鳴き声も聞こえないし・・・」
怖がって、帰りたそうな雰囲気を出しながら、今来た道を振り返る優子と、それを気にせズンズンと前に進む七海。
先日の大雨で倒れたのであろうか?
崩れた木の柵と、それを押しつぶす倒木。
その倒木を越えた先が、旧道であった。
湿った空気がぬるく、岩壁の所々には、不自然なほどの暗い緑苔。
途中、岩から滴り落ちる水の音が、ポッ、ポッ、ポツリ・・・とやけに大きく響く。
言葉を交わさなくなったふたりは、慎重に足を進めた。
そして、旧道の出口・・・木々が開けたその先に、岩場は、広がっていた。
遠くに見える大岩と、近くのごつごつした岩場。
その真ん中を隔てるように、『砂浜』が、広がる。
だがそれは、ふたりが思い描いていた『砂浜』の光景とは違っていた。
砂が黒く湿り、ところどころ小さな岩が斜めに傾き、遠く磐座と思しきそびえる巨大な大岩の周りだけ、潮が、異様に引いている。
打ち寄せる波は、ほとんど見えず、ただ低く呻くような波音が、足元を這っていた。
「なに?ここ・・・海が、全部死んでるみたい。」
そうつぶやいた優子の横で、七海がスッと、足を前に出す。
「危ないよっ!七海っ。」
しかし、彼女の足は止まらない。
「誰かが、見てる。ずっと前から・・・ここで。」
気づいたときには、七海は、不気味な砂浜に降り立ち、磐座の大岩の方へと足を進めていた。
優子が慌てて呼び止めようと手を伸ばすが、彼女は、まるで糸に引かれるようにゆらゆらと足を止めない。
その時だった。
「七海っ!」
優子の叫び声に、七海が我に返ったかのように後ろを振り返った。
しかし、すでに時は、遅かったのであろう。
ぐにゃりと黒く湿った砂浜がゆがんだ。
さきほどまでは、ひとかけらも見えなかった波が、この岩場と、七海の立つ砂浜を襲ったのだ。
大波の中、優子は、必死に岩場の隅に生えた木の枝にしがみつきながら、七海の名前を呼び、手を伸ばす。
波が、世界を埋め尽くし、砂が崩れるような音をたてる。
そうして、優子が咄嗟に伸ばした手は、何もない空を掴み、七海の姿は、波の闇の裂け目に呑まれたまま二度と現れなかった。
「七海・・・?七海っ!」
その大波がおさまった時、辺りには、彼女の返事も砂を踏みしめる足音もなかった。
ただ、潮が、湿った風が、かすかに笑っているように音を立てるだけ。
波が去ったあと、その黒い砂浜は、元の穏やかで不気味な色彩を取り戻した。
風が吹き、磐座の背後から何か白い影が、ぬるりと現れて消えたような気がして、優子は、一歩、また一歩と後ずさった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
その夜、村の消防団が、旧道近くの林道から現場へと出動した。
帰らぬふたりを、旧道へ向かう雑木林で見かけたと、同級生が証言したためだ。
途中、倒木の下で優子が発見された。
右足を骨折していたが、命に別状はなかった。
彼女は、うわごとのように「七海が・・・磐座に。あの子・・・『巫女の大岩』に・・・」と繰り返していた。
そうして、『巫女の大岩』、磐座の足元で、七海は見つかった。
七海の遺体は、仰向けに倒れ、左の脇腹から大きく裂かれていた。
腹部の肉は食いちぎられたように欠け、胸の皮膚はまるで何本もの爪で引き裂かれたかのようだった。
顔は波に洗われ、唇の血が赤く岩肌を染める。
白いシャツは裂け、制服のリボンだけが無傷のまま残っていた。
胸元には、小さな貝殻がひとつ、小さな花が一輪、静かに置かれ、煌々と光る満月がそれを白く輝かせていた。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
捜査関係者は、野犬の仕業と見なしたが、現場には、犬の足跡も、引きずられた痕跡もなかった。
まるで彼女は、誰かに置かれたように、穏やかに、無惨に横たわっていたのだ。
『巫女の大岩』へ続く旧道は、厳重に封鎖された。
村の関係者の立ち入りも禁じられ、次の日の新聞には小さく「小学生、野犬に襲われる。」とだけ記された。
優子は、誰にも何も語らなかった。
警察関係者どころか、両親に何を言われても、口を閉ざしたまま。
ただ、病室の暗い窓から、海の方角をじぃぃっと見つめながら、ぽつりと呟いた。
「七海、私も・・・海の声が聞こえた気がする・・・」
翌朝、病室に、優子の姿は無かった。
大騒ぎする両親の隣で、若い看護師は、ベッドの下に小さな水たまりができていることに気づいた。
その水たまりは、病室の窓へと続き、外壁を伝って海の方角へとその痕跡を点々と残す。
やがてその水の痕跡が乾いて途切れた場所に、きらきらと光る小さな貝殻がひとつ、小さな花が一輪、静かに置かれていた。
しかし、優子の姿は、いつまでたっても見つかることは無かった。
◇◇◇ ◇◇◇ ◇◇◇
村の者は知っている。
磐座に・・・『巫女の大岩』に・・・そこに、何かが居ることを。
黒い海の底で、白い波と共に、誰かがじぃっと見つめ続けていることを・・・