54:初めては血みどろ味
どうにか出血を止められたファリエだったが、そこで急激に治癒魔術の稼働率が下がった。体に刺さったままの氷柱も引き抜きたいのに、相変わらず四肢が――いや、体全体が思うように動かない。それどころか、体温もどんどん下がっていく。
あちこちに氷が埋め込まれているため、と思ったが、どうやら大量の血と一緒に魔力も外に流れ出たためのようだ。
(もったいないこと、しちゃった……それに魔力ないと、傷が……)
ファリエの思考もまとまらなくなる。既に痛みも曖昧だった。
吸血鬼は運動能力に乏しいが、有り余る魔力のお陰で自然治癒能力だけは恐ろしく高いのだ。少々の擦り傷程度なら、瞬く間に治るほどに。
つまり魔力=生命力であるため、それが垂れ流し状態の今、事態は深刻だ。しかしティーゲルと約束を交わした手前、倒れるわけにはいかない。
せめて腰のポーチに入れてある疑似血液を飲めたら――そう思うのに、指すら動かなかった。
彼女を支えるカーシュ議員も、ファリエがどんどん虚ろな表情になっていることに気付いた。ハッと顔を強張らせ、冷たくなった彼女の手を何度もさする。
「シュタイアさん、しっかりしてください。もう少しで、治療院から魔術師が来られますからね」
「はい、ありがとうございます」
と、ファリエは答えたかったのだが。実際に出た返事は「ふぁい」の情けない二文字半だったため、議員仲間からは鉄面皮と呼ばれている議員も涙目だ。
そこでようやく、男性魔術師の首根っこを掴んだティーゲルが戻って来た。恐らく治療院の到着を待てない、と判断したのだろう。
「ファリエ嬢! まだ起きているかっ?」
彼は先ほどまでの悪鬼ぶりから遠く離れ、親と離れた迷子のような顔でファリエを覗き込む。
ティーゲルなら、ファリエが疑似血液を常備していると知っている。だから彼女は、動かない舌を懸命に動かし
「たいちょ、血……」
それだけ、どうにか伝えた。
ファリエが唇を動かしてすぐ、ティーゲルは彼女の口元へ耳を傾けていた。かそけき声もしっかり聞き取り、すぐに焦点がぼやけ始めた青い瞳を見据える。
「血だな、分かった!」
そして雄々しくうなずくと、ファリエでなく自分の腰に吊るしたポーチへ手を伸ばす。取り出したのは、非常時用の小さなナイフだ。
(え、ナイフ?)
ファリエは意識が途切れつつある脳内で、首をかしげた。ナイフなどなくても、疑似血液のパックは開封できるのに――とぼんやり考えていると、ティーゲルは自身の手の平にナイフを突き立てた。そのまま豪快に皮膚をかっさばく。
ギャアッと、カーシュ議員と先輩魔術師が悲鳴を上げた。ファリエだって元気があれば、絶叫したかったものだ。
外見上はぐったりと、しかし内心は恐慌状態のファリエの眼前で、ティーゲルはかっさばいた手の平に躊躇なく口を当てる。そしてドクドクと流れる、自分の血を口に含んだ。
これはもう、駄目だ。彼は絶対に、何か大いなる勘違いをしている。
(違うのティーゲルさん、そうじゃないの!)
薄れつつあったファリエの意識がガッツで息を吹き返し、脳内で絶叫した。同時にせめて手足を動かそう、と歯を食いしばる。
が、逃げ出そうとするファリエの見えざる奮闘もむなしく、一ミリも動けぬままティーゲルに顎を掴まれた。そのまま唇に、彼のものを押し付けられる。慌てて口を閉じようとしても、半開きだったそこに舌もねじ込まれてしまった。
そのまま口移しで、彼の温かい血がゆっくりと流し込まれる。瞬間、ファリエの思考は真っ白になった。
だってキス (名目上、これもキスに分類しよう)など初めてなのだ。
突然の自傷行為からの熱烈な口づけに、唖然となるカーシュ議員と魔術師だったが、先に議員が我に返る。ほんのり染めた頬に手を添え、
「まあ、情熱的」
と、呑気に呟いた。先ほどまでの乱闘事件を全く意に介していない姿に、傍らの魔術師は口元を引くつかせた。
ファリエがいつも通り自由に体が動かせたところで硬直待ったなしの状況だが、そんな時でも彼の血液は美味しかった。生活リズムが改善したことで極上の逸品となってはいるが、しかし今日は奇妙な隠し味がある。甘さと共にピリリとした刺激も、わずかに感じたのだ。
おそらく今回の襲撃事件によって、精神状態が不安定になったためだろう。感情が荒れてしまったことで、辛味が混じったらしい。
味覚以外はポンコツと化したファリエだが、ギリギリ維持していた治癒魔術が再び、燃料である魔力を供給され始めたことで正しく動き始めた。
ファリエ自身の持つ治癒能力も合わさって、みるみるうちに傷が癒えていく。傷口が塞がることで体にねじ込まれた氷柱も押し返され、ゴトリと鈍い音を立てて地面に落ちた。
氷柱が落ちる音を耳にして、ティーゲルはようやく顔を離す。自分の口周りに残る血を、ジャケットの袖で乱雑に拭った。
「ファリエ嬢、もう大丈夫か? もしまだ足りないなら、いくらでも――」
彼は不安そうに、まだ固まったままのファリエに声をかける。目を見開いたままだった彼女がここで、ギロリとティーゲルを見上げた。同時に、地を這うような声も発する。
「……初めて、なのに」
「む?」
「キス、初めてなのに……なんで、こんなっ」
ここからはもう、言葉が出て来なかった。代わりに涙が目尻から溢れ、そのまま吐血と輸血で汚れた頬に流れ落ちる。
ファリエは血の味のファーストキスだけは、何があっても避けたかった。恋した相手が人間ならば、当然の願望である。
にも関わらず、まさか相手の生き血まで流し込まれるだなんて。理想と見事に真逆な上、最悪のオプションまで盛り込まれている。
ティーゲルもしゃくりあげる彼女ににらまれたまま、全身を強張らせた。
「すまない! その点については、本当に申し訳ない! ただ人命救助として、今回はどうか大目に――」
「だっ、だったら、疑似血液、飲ませてっ……くれても、いいじゃない! ポーチに、入れっ、入れてる、のに!」
喉の奥をヒクヒクと痙攣せながら、ファリエはがなった。
「あ……」
それだけ呟いたティーゲルの青ざめた顔から、疑似血液の存在をすっかり忘れていたことが察せられた。
(好きって言ってくれたのに、そんなことも覚えてくれないなんて、ひどいひどいひどいっ)
冷静に考えれば覚えていなかったわけではなく、焦りのあまりうっかり忘れただけだろう、と思えたはずなのに。
あいにくファリエの脳内もしっちゃかめっちゃかなため、ますます泣いた。
「ティーゲルさんの、ばかっ!」
「全くもってその通りだ、すまない!」
涙声でののしると、ティーゲルは中棒が見事に折れ曲がった日傘を右手 (左手は相変わらず、血まみれのためだろう)だけで捧げ持ちつつ、深々と頭を下げる。
が、すぐにハッとなってファリエを一度見、慌てた様子で視線を反らしつつ、自分のジャケットを脱いだ。片手だけで器用に。
ファリエは歴戦の老兵と化した日傘を抱きしめながら、不審げにティーゲルを見つめていた。やがて彼は、脱いだジャケットをそっとファリエの膝にかけた。
「……これ、なんです」
ティーゲルは斜め後方へ顔を向けたまま、ジト目のファリエと視線を合わせようともせずにボソボソと
「氷柱で破けたスカートから、パンツ……らしきものが見えていたから……」
とだけ、呟いた。
成り行きを見守っていた警護班の面々が、あちゃーと言いたげに頭を抱える。
ここで例えば
「怪我をしたばかりなのだから、体は温めた方がいい」
など彼女を気遣うような、優しい嘘でごまかしていたならば、ファリエも不貞腐れつつもジャケットを受け取っていただろう。
だが、この直球過ぎる一言は完全に藪蛇である。
ファリエはティーゲルの横っ面に、わざわざ広げてくれたジャケットを丸め、投げつけた。
「ティーゲルさん、嫌い!」
次いで子供のように駄々をこね、ちゃっかり自分のジャケットでスカートの大穴を隠した。
非常にレベルの低いやり取りを間近で眺めていたカーシュ議員は、相変わらず生暖かい目で二人を見守っている。痴話げんかの鑑賞が趣味なのかもしれない。
そしてその隣に立つ男性魔術師は
「……ティーゲルの好きな相手って、ファリエちゃんだったのかぁ」
と、二人にも聞こえないような小さな声でそれだけ呟いた。その声音は少しだけ、残念そうである。




