08:お誘い
「ただいま。」
仕事を終えた奏が明かりのついているリビングに入ると、凛子がニュースを見ながらくつろいでいた。手にはハーブティーを持っている。
これまで自分の家に多かった凛子だが、奏が夜帰ってくるようになってからはリビングで過ごす時間が増えた。両親は早めの夕食を終えすでに寝室で眠っている。
「おかえりなさい。夕食は食べますか?」
奏の姿を見た凛子がカップを置いて立ち上がろうとする。
「大丈夫だよ、自分で温めるから。」
奏は凛子を制すといつものようにテーブルに置いてある食事の皿を自分で持つ。今日の晩御飯のメインはハンバーグのようだ。凛子の作る食事はどれも美味しいが、その中でも特にハンバーグは絶品だ。流石調理師免許を持っているだけある。
奏は温めたハンバーグと炊飯器からついだ白飯を持つと席についた。
凛子は静かにテレビを見ている。
会話もなく静かな空間だが、二人ともこの時間が嫌いではない。
「あのさ、明後日午後は休みだって言ってたよね?」
奏が顔を上げて凛子を見る。
「はい。午前にランチの仕込みだけしたら後はお休みですよ。」
凛子は飲食店の厨房で働いている。シフトの関係で仕事時間はまちまちだ。
「この前凛子ちゃんが次は俺の好きな場所に行きたいって言ってくれたじゃん?でも俺あんま好きな場所って思いつかなくて、良かったら俺の行ってみたい場所に一緒に行ってくれない?」
以前は流れで凛子をナイトクラブに連れて行ってしまったが、今度は違う場所に連れて行きたいのだ。
「いいですね。どこに行きますか?」
「花火大会なんだけど…」
「そう言えばそんな時期ですね。私あまり行ったことないので嬉しいです。」
凛子の返答にホッとする奏。
「良かった。じゃあ、仕事終わった頃に職場に迎えに行こうか?」
「うーん…現地集合でもいいですか?」
少し考えてからそう答える凛子。
何か予定でもあるのだろうか。花火大会の前にも凛子と遊びたかったが仕方ない。
二人は待ち合わせ場所と時間を決めるとそれぞれ自室に戻って行った。
少し暗くなってきた夕暮れ時、凛子が待ち合わせ場所に着くとすぐに奏を見つけることができた。
何故なら奏の周りには多くの女性がおり、奏にいつ声を掛けるのかタイミングを伺っている。
すでに奏に声を掛けている猛者もいるが、奏は目も合わせず返事をすることもなくスマートフォンを見ている。完全に無視を決め込んでいるらしい。
今からあのピラニアの群れの中にいる奏のところに行くのか…。
奏はお洒落だし周りの女性達も綺麗な格好をしている。お洒落がわからない自分が行ったら浮いてしまう気がする。
凛子は改めて自分の姿を見返す。
凛子は紺色に白と淡い水色の市松模様に黄色の花が描かれた浴衣を着ていた。髪も結いあげ、メイクもしている。花火大会に誘われ、仕事後に美容院で着付けとヘアメイクをしてもらったのだ。
「お姉さん、一人で来たの?」
凛子が浴衣を見返していると、一人の男性が声を掛けてきた。
気付けば凛子の周りにも奏と同じ現象が起きている。凛子に声を掛けようとする男性で溢れているのだ。
「凛子ちゃん‼」
そのとき、奏が人込みをかき分けて駆けつけてくれた。
「兄さん…」
ホッとした表情を見せる凛子。
奏と凛子が合流したのを見ると、逆ナンやナンパを試みようとしていた群れが一斉に引いて行く。
「もしかして、浴衣着るために待ち合わせを現地にしたの?」
「はい。母の浴衣なんですけど、着付けが出来ないから着たことがなくて…大人になって初めて夏祭りに行くので着てみました。」
「そうなんだ。凄く似合ってるよ。」
奏が微笑む。
凛子は幼少期でも父親に遠慮して浴衣を着たいと言ったことがなかったのだろう。それに家にいることが多いので夏祭りにもあまり縁がないのかったのかもしれない。
「ありがとうございます。でも、兄さんが夏祭りに行ったことがないなんて意外でした。」
兄さんは自分の知らない若者の遊びをたくさん知っていて花火大会や祭りに慣れ親しんでそうなのに。
「実は小さい頃に家族と一度行ったことがあるんだ。でも…」
「でも?」
「そのとき祭り会場に一人取り残されちゃって、不安の中一人で大きな花火の音を聞いたときは本当怖かったよ。それ以来花火とか浴衣の人たちの群れが怖くなって来なくなっちゃった。」
「そんな辛いことがあったんですね。」
凛子は雷が怖い自分と奏を重ねてしまう。
「うん、でも凛子ちゃんと一緒なら来れる気がして。」
奏がニコリと笑った。
「わかりました‼では私の手を離さないでくださいね。」
凛子は気合を入れてそう言うと勢いよく奏の手を握った。自分が怖い時も奏が手を繋いでいてくれたおかげで安心したので、同じことを自分もして奏を勇気づけたいのだ。
「うん、ありがとう。」
奏は頬を赤く染め一瞬驚いた表情をしたが、優しく凛子の手を握り返した。
二人は手を繋いだまま人込みを歩き、出店を見て回る。
凛子の予想以上に祭り会場に不安を感じていた奏だが、今回は凛子がいるので怖さはない。凛子の手から伝わる温もりがさらに安心を加速させる。
「何か食べます?それともゲームみたいなのをしますか?」
相変わらず無表情ではあるが、テンションは高いようで少し早口になっている。
「うーん、食べるのは花火見ながらでも出来るし、何か遊ぼうか。」
「いいですね。じゃあ…」
凛子が周りを見渡す。目を止めたのは”カタヌキ”と書かれた看板のお店だ。
「カタヌキって何でしょう…?」
「何だろうね。ちょっと覗いてみようか。」
二人は目についた出店に近づいて様子を見てみる。ちょうど客が多くなく、子どもたちが遊んでいるのを見ることができる。
「ラムネ菓子みたいな薄いお菓子のプレートに彫ってある絵を割らずにくり抜けばOKみたいなゲームかな。」
「あ、兄さん見てください。型抜き成功の景品の中にペン太君のキーホルダーがあります。」
「本当だ。これは挑戦してみるしかないね。」
二人はペン太君をゲットするべく型抜きに挑戦することにした。
それぞれお菓子を受け取ると早速遊び始める。
「よし…‼」
奏が隣の凛子をチラリと見ると、気合十分なようで浴衣の袖を巻くっている。
バキッ
しかし、初めてすぐに隣から不穏な音が鳴った。
まだ開始から5秒も経っていないのだが、凛子の手元を見ると型を抜くべき絵が真っ二つに割れている。
無残な姿になったお菓子を見て固まる凛子。
「…もう1回する?」
奏がそう声を掛けると、凛子は小さく頷きお金を払って新しいお菓子を受け取る。
きっと初めてで勝手がわからなかったのだろう…奏はそう思いつつも自分も型を抜く作業を進める。
バキッ
「もう一度お願いします。」
バキッ
「もう一度です。
バキッ
「も、もう一度…」
気付くと凛子の手元には無残に割れた型が抜かれることのなかったお菓子が積みあがっている。
「そ、そろそろやめたらどうだい?お、兄ちゃんの方は綺麗に型が抜けてるね。好きなキーホルダー1つ持っていきな。」
最終的には商売をしている側の店主でさえ、成功の見込みのない凛子にストップを掛けていた。
一方、奏は最初の1枚だけで成功し無事ペン太君のキーホルダーを手にしている。
出店を離れると、がっくりと項垂れる凛子。
「はい、このペン太君は凛子ちゃんがもらって。」
見かねた奏が声を掛ける。
「え、いいんですか?」
凛子がパッと顔を上げて奏を見る。
「うん、俺は水筒のペン太君がいるし、このキーホルダーは凛子ちゃんがもらって?」
「ありがとうございます‼」
凛子は受け取ったペン太君キーホルダーを嬉しそうに握りしめる。
「ふふ…それにしても凛子ちゃんがあんなに型抜きが苦手だなんて意外だったな。」
凛子は料理も上手に熟すので手先が器用な方だと思っていた。
「わ、笑わないでください。」
少しむくれたような表情をする凛子。最近の凛子は奏の前では様々な表情を見せるようになっている。それが奏にとっては嬉しくてたまらない。
「ごめんごめん、でも料理も上手だから本当意外でさ。」
「私実は昔から凄く不器用なんです。だから包丁を使うのとかも凄く下手で…」
「でも今は凄く綺麗に切ったりしてるよね?」
「どうしても調理師専門学校に行きたかったので家でたくさん練習しました。」
凛子の言葉に奏は素直に感心する。奏自身は苦手なことを避けることが多いので、自分の目的のために苦手を克服するのは本当に凄い。感心すると同時に努力が出来る凛子を羨ましく思う。
「あ、スーパーボールすくいがありますよ。一度やってみたかったんです。」
「よし、やってみようか。」
二人はその後も気になった出店を片っ端から立ち寄って行った。花火が始まる時刻が近づく頃には細々とした景品や花火を見ながら食べる食べ物で二人の手は埋め尽くされていた。
二人は花火が見える土手に到着すると、人込みの中から隙間を見つけて場所を確保する。
「はい、これ使おう。調べたら地面に座って見るってかいてたからさ。」
奏は小さなレジャーシートを取り出し地面に敷く。
「ありがとうございます。」
流石兄さんだ、本当にどこまで気が利いてスマートな振る舞いをしてくれる。
二人は狭いレジャーシートの上に腰を掛けると、予め買っておいた焼きそばや焼き鳥を頬張る。
「兄さん、人混みとか大丈夫ですか?」
花火大会や祭り会場に嫌な思い出があると言っていた奏、これまでしんどそうな素振りは見せていないが無理はしていないだろうか。
「うん、最初は不安だったけど、それを忘れるくらい楽しんじゃった。ありがとう。」
その返答に安心する凛子。自分もこんなにもお祭りを楽しめると思っていなかったので同じ気持ちで嬉しい。
「私は友達も少なくて、場を白けさせてしまうことも多いので…兄さんを退屈させてないか心配でした。」
凛子はコミュニケーションが苦手で緊張をすればするほど無表情になり口数少なくなる。周りに誤解されることも多く、気付けば一人でいることが多かった。それなのに奏はいつも優しく話しかけてくれる。いつ奏に愛想を尽かされるかと不安なのだ。
「…俺は凛子ちゃんが思ってるような人間じゃないよ。」
少し落ち込んだ声で遠くを見つめる奏。
隠しているだけで本来の自分は楽なことに逃げる自堕落な人間だ。
「兄さん…?」
凛子が奏の顔を覗き込んだときだった。
ヒュルルルルルル…
ドッパァアアン‼
空に色とりどりの光が灯り花火が咲く。
息をつく暇もなく花火が上がり続ける。
「わぁ…」
奏が凛子の横顔を見ると、光を浴びるその表情はとても穏やかで瞳がキラキラとしている。
「…綺麗だね。」
奏はぽつりと呟いた。しかしその声は花火の音や歓声で凛子に届くことはない。
俺はろくでもない人間だけど、凛子ちゃんの隣にいると少しマシな人間になったかのように思える。凛子ちゃんはいつも俺に感謝してくれるけど、俺の方が凛子ちゃんにたくさん助けられてるよ。