07:長い一日
「いらっしゃいませー。」
店のドアが開く音がして反射的に声を出す男性店員。彼のネームタグには山本と書かれている。
「あれ、珍しいタイプの子が来たな。」
山本が呟く。
その言葉で隣で服を畳んでいた奏も入口の方を見る。
そこにはいつものように無地のシャツとカーディガン、スキニージンズというシンプルな格好をした凛子がキョロキョロと周りを見回している姿があった。
ここは奏が働くアパレルショップで主にストリート系の服を扱っている。そんな場所で凛子のようなファッションの子は確かに浮いた存在だ。
「女の子だし、裏にいる咲奈に接客してもらうか…っておい‼」
山本がそう言った時にはすでに隣に奏の姿はなく、凛子に駆け寄っていた。
奏はそのルックスから客の方から近づいて来ることが多いため自分から客の方に行くことは基本的にない。そんな奏が一目散に女性客の方へ向かったのだ。山本が驚くのも無理はない。
「大きな声出してどうしたのー?」
裏で在庫の整理をしていた咲奈が表に顔を出す。
「いや、あれ見ろよ。」
山本が奏と凛子を指差す。
「えー、珍しいタイプのお客さんだね。イメチェンしたいのかな?」
「そうじゃなくて、奏が自分であのお客さんに声掛けに言ったんだよ。」
「えっ!?奏君が!?」
山本の言葉に咲奈も驚き、前のめりに二人を見る。
奏は自分で声を掛けなくてもイケメンフェイスとファッションセンスの高さ、接客の良さで常に売上はトップだ。そんな奏が客にさらに言えば女性客に声を掛けに行くなんて初めて見る光景である。
「凛子ちゃん、どうしたの?俺また何か忘れものしたっけ?」
奏は背中に山本と咲奈の視線を痛いほど感じながら凛子に声を掛ける。
「すみません、仕事中に…」
申し訳なさそうな声を出す凛子。
「いや、それは全然良いんだけど。今はお客さんもいないし。」
何か急用でもあったのだろうか…。
「実はこれを差し入れしたくて持ってきてしまいました。」
凛子はそう言うと鞄からスモーキーブルー色にペンギンのイラストが入った魔法瓶を取り出す。
「水筒?」
首を傾げる奏。
この魔法瓶は自分のものでもなければ見覚えすらない。
「兄さんが最近疲れやすいと言ってたのでハーブティー持ってきたんです。」
「えっ、わざわざありがとう。嬉しいよ。えっと、どんなブレンドなの?」
そう言って魔法瓶を受け取る奏。
忘れものをしたときもそうだが、自分のためにわざわざ差し入れを持ってきてくれるのは素直に嬉しい。
「オートムギ、シベリアンジンセン、マテです。特にマテは南米で愛飲されてて、元気をもらえるものなんです。滋養強壮作用のあるハーブが入っているので、少しでも兄さんの助けになったらなって。」
嬉しそうにハーブの話をする凛子。奏はそんな凛子を見てすでに癒された気分になる。
近頃家で一緒にご飯を食べるときにはいつもハーブティーを淹れてくれる凛子。ここ数日は残業で忙しくて一緒にご飯を食べれていないのでわざわざハーブティーを持ってきてくれたのかもしれない。
「今の俺にぴったりのお茶だね、ありがとう。今日はお休みなのに、ここまで来てもらちゃって申し訳ないよ。」
「実は今日この近くで期間限定のハーブのお店が出店されてるんです。それに…」
凛子が珍しく歯切れの悪い話し方をする。
「それに?」
「……その水筒、いつもお世話になっている兄さんにプレゼントとして買ったんです。早くこの水筒を見せたくて来てしまったというか…」
恥ずかしそうに目を泳がせる凛子。これもかなり珍しい光景だ。
「そ、そうなんだ、それはさらに嬉しいなぁ。ペンギンの絵にしてくれたの?」
嬉しさで声が上擦りそうなところだが平常心を装って答える。
水筒には眉毛が黄色くトゲトゲしたリーゼント姿のペンギンが描いてある。しかもそのペンギンは何故か傷跡だらけだ。
…このヤクザのようなペンギンは何かのキャラクターなのだろうか。
奏はペンギンのイラストをまじまじと見る。
「はい、イワトビペンギンのペン太君です。兄さんに似てると思って。」
「えっ!俺に!?」
思わずギョッとしてしまう。
凛子にはこの裏社会の住人のような怖いペンギンが自分に見えるとはかなりショックだ。
周りからは見た目は可愛い系で人畜無害だと言われることが多いのに、凛子には俺がこう見えているとは…。
凛子が帰ったらこのペン太君について調べてみよう。見た目以上に怖いキャラ設定がないと良いのだが…。
「お仕事中にお邪魔してすみませんでした。私はこれで失礼しますね。」
凛子が丁寧にお辞儀をして店を出ようとする。
「あ、待って。」
思わず凛子を引き留める奏。
しかし奏は何故凛子を引き留めたのか自分でもわからず焦ってしまう。
引き留めたわりに何も言わない奏に凛子は首を傾げる。
「あの、えっと…」
歯切れの悪い奏。
「あ、そうだ。俺後30分もしたら仕事終わりなんだ。良かったらそのハーブのお店一緒に行っても良いかな?」
「兄さん、今日も残業って言ってませんでしたっけ?」
近頃は帰宅の有無や帰宅時間を凛子に連絡するようになった奏だが、ここ数日は金欠なこともあり残業を引き受けることが多く帰宅は夜遅い。
「えっと、今日は他の人が引き受けてくれることになったんだ。」
「そうなんですね。最近忙しくしてたので心配してたんです。兄さんがしんどくないのであれば一緒にお店に行きましょう。」
「全然大丈夫だよ!俺も凛子ちゃんの影響でハーブに興味あるし。」
実際はハーブというよりも凛子が気になっているのだが…。
「じゃあ私はこの辺を散歩してますね。またお仕事終わったら連絡ください。」
凛子はそう言うと今度は本当に店を出て行った。
後ろ姿を見送った奏は振り返って痛いほどの視線を送ってきていた山本と咲奈のところへ歩いて来る。
「あの子誰!?なんで水筒なんて受け取ったの!?」
興味津々に質問をぶつける咲奈。山本も知りたいようでニヤニヤと奏を見ている。
「…同居人。忘れもの届けにきてくれただけだから。」
無表情な奏。凛子の前での態度が異常なだけで、知人の前ではいつもこんな感じだ。
「同居人!?いつも自分の家には絶対人をあげない奏君が!?」
「えっ、特定の彼女作らない主義じゃなかったっけ?」
間髪入れずに咲奈と山本が声をあげる。
「いや、彼女じゃない。」
奏はこれ以上聞くなと言わんばかりに素っ気ない返事しかしない。
厳密に言うと母が再婚した相手の娘なのだが、説明をするとさらに質問をされるだけなので断片的な事実を答える。
「じゃあルームシェアってことかよ?最近お前適当な女の子に家に行かなくなったって言ってたけ…」
「そのキャラってペン太君だよね!?可愛い~!」
山本の言葉を咲奈が遮る。
「このキャラのこと知ってんの?」
奏が言う。凛子の話をするよりはペン太の話をする方が楽だ。
「うん、結構マイナーだからあまりグッズないんだよね~。私も彼氏がペン太君好きだから知ってるだけだし。」
「へー。コイツってどんなキャラ設定なの?」
「えーっとね、見た目は怖いけど本当は家族想いのお父さんペンギンだよ。ペン太君はその格好もお洒落だと思ってしてるんだよ。」
「え、いっぱい傷跡あんのに?」
「その傷は奥さんを守るためにホッキョクグマと戦ったときに出来た傷なんだって~。」
「ホッキョクグマと戦うって…」
凛子はこのペン太君が自分に似ていると言っていたが、一体どの部分を言っているのだろうか…。ペン太のキャラ設定を聞いたことでさらにわからなくなる奏。
「ちなみにその鞄はお散歩大好きなペン太君が家族にお土産を入れるためのものなんだって~。」
咲奈が説明を続ける。
「ってか、奏がこんなキャラクター1つに興味持つっておかしくね?」
「それと、俺今日残業しないから。在庫整理して上がるわ。」
山本の言葉を無視する奏。
「はぁ!?おまえ今日残業出来るって言ってたじゃねーか‼俺、この後友達と飲みに行く約束してんだけど‼」
「いつも俺が残業してんだから良いだろ。」
奏はそう言うとそれ以上文句を言われないように足早に裏へと入って行った。
「おいっ‼」
山本がまだわめいているがもちろん無視だ。
「あ、私も今日はすでに彼氏とデートの約束あるから残業しないからね。やもっちゃんはいつも定時上がりなんだから今日くらい頑張って~。」
追い打ちを掛けるように咲奈もそう言うとその場を離れてしまった。
無慈悲な2人の同僚に山本は肩を落とすしかない。
早々に裏に戻った奏は魔法瓶を見つめる。
ペン太君のどこが自分に似ているかわからなかったが、見た目ほど悪いキャラクターでなかったことに安堵を覚える。
その後、奏は上の空で仕事を終えると退社時間きっかりに店を出た。
店を出る前に凛子に連絡をしたが、通知に気付いていないのか返事は来ていない。ここら辺の店を見とくと言っていたので近場にいるはずだが…。
奏は凛子からの返事を待っている間に近辺をキョロキョロと見回し歩きながら凛子の姿を探す。すると、”Leaf Garden”という看板が見えた。
凛子がこの看板を見たらハーブ関連のお店だと勘違いしそうだななんて考えると自然と笑みが零れてしまう。実際は海外ブランドの若者向け化粧品店だ。メイクをしない凛子が知る由もないとは思うが…。
店の前を通り過ぎるときにチラリと店内を見るとそこに探している人物の背中が見えた。
まさかハーブ店だと勘違いして入ってしまい、店員のセールストークに捕まって逃げれないのだろうか…いや、凛子がセールストークごときを断れないなんてことはないはずだ。
凛子はこちらに背を向けているのでどんな表情かはわからず、2人の店員に囲まれて何か話をしているようだ。
……とにかく入るか。
「凛子ちゃん?」
奏は店に入るとすぐに見慣れた背中に声を掛ける。
店員は突然店に入ってきた奏のイケメン顔に目がハートだ。
「え?」
凛子は少し驚いた声を出すと、声のした方向に振り返った。
振り返った凛子を見た奏も少し目を見開き驚く。
凛子は店員にヘアメイクをしてもらっていたようで、元の顔の良さに相まってさらに綺麗な姿になっていた。
透き通るような白い肌、長く伸びたまつ毛、目鼻立ちも若干くっきりしている。頬に薄桃色のチークや赤みがかったグロスもつけている。それに髪も少し内に巻いてもらったようで、いつもより艶やかに見えた。
凛子から目が離せない奏、言葉をかけることも忘れてしまっている。
やはり自分に化粧等似合わなかったのだろうか…そんなことを考えた凛子は手で髪を触ってしまう。
そこで会話の助け船を出したのが店員だ。
「彼女さん、他のお店と間違ってこちらに入店したみたいなんですけど、あまりにも綺麗なお顔でダイヤの原石だったのでこちらからお願いしてメイクをさせてもらったんです‼」
「そうなんですよー、こっちがテンション上がっちゃっていつもはしないヘアセットまでさせてもらっちゃいました‼」
二人の店員が興奮気味に言う。
確かに凛子はスタイルも良く顔も整っているが、お洒落に全く興味がない。ヘアメイクやアパレルに関わっている人間だと大変身させたくなるのも頷ける。
「すみません、通知気付いてなかったみたいで。」
タイミングを見計らって凛子が言う。
「いやいや、全然大丈夫だよ。あまりに似合ってるからびっくりしちゃった。」
「お化粧したことないから自分ではよくわからなくて…変じゃないですか?」
凛子は人の見た目を重視していないために自分が綺麗に映っているのかもわからないらしい。
「変じゃないです‼」
「めっちゃ綺麗ですよ‼」
凛子の問いに即座に答えたのは奏ではなく店員だった。
「化粧してなくても綺麗だけど、メイクした姿もまた雰囲気が変わっていいと思うよ。」
奏は化粧に慣れず珍しく不安そうにしている凛子に微笑ましく思った。
奏と凛子は店員に御礼を言うと店を出た。
「何も商品を買っていないだけでも申し訳ないのに、たくさんの試供品をもらってしまいました。」
凛子は店員から貰った試供品の山が入ったショップバックを見ながら言う。
「あはは、店員も凛子ちゃんにメイクして凄く喜んでたし気にしなくて大丈夫だよ。」
奏は隣に歩く凛子を横目で見ながら笑った。
……しかし違和感はあるのも本音だ。
確かに首から上は美女というのにふさわしい姿なのだが、凛子の私服は若者ではなくおばちゃんが着る服のようだ。ヘアメイクをしたことで顔と服装のミスマッチ感が際立っている。
確か今着ているカーディガンは奏の母がサイズが小さくなり捨てようとしたものを凛子が譲り受けたはず。母も他の新しい服を買ってあげると言っていたのだが、凛子がそれを断っていた。
「凛子ちゃん、ハーブショップ行く前に付き合ってほしい場所あるんだけど良いかな?」
奏はそう言うと凛子を近くのアパレルショップに連れて行ったのだった。
全身の服をプレゼントするのはさすがに凛子にも自身の財布にも負担だったので、奏が選んだトップスをプレゼントすることにした。凛子は最初断っていたが、ペン太君の魔法瓶の御礼だと言って奏が押し切った。
奏が選んだのはガーリーなオフホワイトの七分袖ブラウスで袖の部分には葉がモチーフのレースが付いている。
「こんな可愛い服をありがとうございます。自分じゃ何を選んで良いかわからなくて…」
奏に買ってもらった服をまじまじと見る。奏の勧めで買ってもらった服をそのまま着て出てきた。今日は顔も服もいつもと違うので少しドキドキしてしまう。
「こちらこそペン太君嬉しかったからさ。また服に困ったら俺に相談してね。」
二人はそんな会話をしながら次の目的地であるハーブショップに向かう。
「いつも兄さんには私の好きな場所ばかり付き合ってもらってますね。」
今日のハーブショップはもちろんのこと、コスメショップや服屋さんも凛子のためだ。以前はハーブティーの店にも連れて行ったこともある。
「俺も行きたくて行ってるんだから気にしなくて良いよ。」
「次は兄さんの好きな場所にも行ってみたいです。」
「俺の好きな…場所…?」
奏が思いもよらないリクエストに言葉を詰まらせる。
俺の好きな場所…よく行く場所……パチンコ店、居酒屋、バー、ナイトクラブ、ラブホ、声を掛けてきた女の家……死んでも凛子をそんな場所に連れていけるわけがない。
「すみません、困らせちゃいましたか?」
凛子がフリーズした奏の顔を覗き込む。
「えっ、いや、そんなことないよ。どこが良いかなーって考えてただけ‼」
奏が急いで否定する。
これは早急に健全な好きな場所を作らなければ…。
「それなら良かったです。また誘ってくださいね。」
「う、うん。また時間出来たときに声掛けるね。」
ハーブショップを出ると外はすっかり暗くなっていた。たくさんのハーブにテンションの上がった凛子がフィーバーしたためだ。奏の手には今日凛子が買ったハーブのショップバックが数袋握られている。
「すごく楽しかったです‼」
目を輝かせる凛子。奏もそんな凛子の姿を見て満足気だ。
「俺も凄く楽しかったよ。たくさん買ったからこれからハーブティー作るのも楽しみだね。」
「はい!兄さんも是非飲んでくださいね。ペン太君にも入れます。」
「ありがとう。…あ、今日の晩御飯どうしようか?」
スマホを見ると時刻は午後8時すぎだ。帰宅後晩御飯を食べても良いが、そうすると食べる時間が遅くなってしまう。
「今日はここら辺で食べますか?」
「そうしよっか。何か食べたいものとかある?」
「うーん、私喫茶店とか以外で外食したことがあまりなくて…兄さんのお勧めが良いです。」
「そうだなぁ…それならこの近くに飲茶のビュッフェがあるんだけどどうかな?中国茶の種類も多かったし凛子ちゃんも気に入ると思うよ。」
もちろん奏は飲茶のビュッフェに自分からすすんで行ったことはない。いつもは適当な安いチェーン店や居酒屋だ。以前逆ナンしてきた女性に連れられて一度行ったことがある店である。
「今日は初めて行くお店ばっかりで楽しかったです。私全然何も知らなかったんですね。」
夕食を終え最寄り駅へと向かう二人。
お腹も気持ちも満たされ幸せ気分だ。
後は帰って寝るだけ…というところで予想外のことが起きた。
「おっ、奏じゃん‼」
二人が歩く前方に手を上げて声を掛けて来る人物がいる。
男性二人組で奏のようにお洒落な格好をした若者だ。
「ちっ…」
奏は凛子に聞こえないように小さく舌打ちをした。
奏は顔が広いので誰かに声を掛けられるのではないかと煩わしく思っていたが、あと少しで駅という時点で見つかってしまうとは。凛子が隣にいる今面倒なことになりそうだ…。
友人たちは絶対凛子に興味を持つし、普段の奏のことを喋ってしまうかもしれない。何よりこんなにおめかしした凛子を見せたくない。
奏は一歩踏み出し凛子を自分の背に隠すようにする。
「最近見かけないと思ったらまた女の子と一緒かよ。」
「ってか何で隠すわけ?」
二人の名前は龍之介と一真、奏とはよくお酒を飲んだりして遊ぶ中だ。悪い奴らではないが凛子にあまり自分の交友関係は知られたくない。
奏はこれ以上何も話すなという殺意を込めて二人を睨む。
凛子は人と接することに慣れていないのでどうして良いのかわからず大人しく奏の背中に隠れたままだ。
「もういいだろ。俺帰るから。」
奏は強引に会話を切り凛子の手を引いて立ち去ろうとする。
しかし、奏の思惑通りそんなに上手くいくわけもない。
「もう帰るっていつもだったらこれからが本番だろ。久々に遊ぼうぜ。」
「そっちの女の子も一緒にさ。」
二人は奏の殺気に気付いてないのか会話を続ける。
おかげで奏のイライラボルテージもうなぎ上りだ。どう切り抜けようかと考えていると、凛子が先に奏の背中からひょっこりと二人の前に現れてしまった。
案の定凛子を見て言葉を失う二人。奏は家に泊まらせてくれるなら顔等気にせず女性を連れていたので、まさかこんな美人を隠してるとは思わなかったのだ。
「これから用事があるなら私は先帰りましょうか?」
「えっ、いやいや俺も帰るから‼」
慌てて答える奏。
とにかくこれ以上こいつらと凛子が会話をする前にこの場を離れなければ。
「お前マジなんなの⁉こんな美人とどこで知り合ったんだよ!?」
「え、最近付き合い悪かったのってこの子とデートしてたから!?」
奏が何か返事をしようとしたとき
ピルルルッ
奏のスマホの着信音が鳴った。画面を見ると母親からだ。しかし、電話に出ることはなく目の前の二人に対処しようとする奏。
「お母さんからなので出たほうが良いですよ。」
凛子は少し心配そうな声色で言った。
その姿に何かを諦めたかのように肩を落とす奏。
「絶対この子に何も言うなよ。」
奏は凄い剣幕で二人に言うと少し離れた場所で電話に出たのだった。
取り残された三人、もちろん二人が黙っているわけがない。
「ねぇ、名前は?」
龍之介が鼻の下を伸ばして言う。
「山根凛子です。」
「凛子ちゃんか、可愛い名前だね。俺は龍之介、こっちが一真。」
龍之介はニカッと笑い、一真は手をひらひらと振る。
「龍之介さんと一真さん、よろしくお願いします。」
凛子は深々とお辞儀した。
「ねぇねぇ、奏の彼女なの?」
一真が尋ねる。
「え?違いますよ。」
凛子は不思議そうに首を傾げた。
(また夜だけのお相手か…)
(でもそのわりには奏の様子おかしくね?)
心の中で会話する龍之介と一真。
「今日は奏と何してたの?」
さらに情報を得るために質問をする龍之介。
「今日は服屋さんで服を買ってもらったり、中華料理屋さん行ったりしてました。」
何故そんな質問をするのだろう…疑問に思う凛子だが正直に答える。
そしてまたもや二人は心の中で会話を始めるのだった。
(あの奏が女の子と寝るんじゃなくて普通のデート!?こんなこと今まであったか!?)
(しかも誰かにプレゼントを買うなんて‼)
((ありえない‼))
完全に感想が一致する二人。
奏との付き合いはそこそこ長いと思っていたが、こんなクズっぽくない奏の一面は初めて見る。驚きの連続だ。
凛子ちゃんのことも気になるけど、それ以上にいつもと違う奏のことが気になる!
凛子ちゃんの前だと奏が何か変だ。
「凛子ちゃんはこの後予定とかある?明日朝早いとかない?」
「今日も明日もお休みで何もないですよ」
「じゃあ、この後一緒に遊ぼうよ。」
「最近奏が遊んでくれなくて寂しくてさ。だから、凛子ちゃんも一緒にどう?」
確かにこれまで奏は夜中に帰ってきたり何日か帰ってこないということが多かったが、最近は夕飯時には家にいることが多い。帰宅が遅くなっても夕食は家で食べている。以前凛子が作った夕飯を食べていなかったことを奏はとても気にしていたので、そのために無理して帰宅を早めていたのだろうか…友人との時間を奪ってしまったようで申し訳ない。
そして何より色々物知りの奏がどこでよく遊ぶのか気になる。
「この後どこに行くんですか」
「クラブ行こうと思っててさ。」
「クラブ…?」
「あれ?凛子ちゃんはクラブ行ったことない?」
「はい。すみません、私色々疎くて。」
「クラブはねー、お酒飲みながら音楽に合わせて踊ったりする場所だよ。」
「色々な人がいるから知り合いとか友達増えて楽しいよ。」
そんなエキサイティングな場所があったのか…内心驚く凛子。説明を聞いてもどんな場所なのか全く想像がつかないが、あのコミュニケーション能力の高い奏が行く場所に興味はある。
「じゃあ、ご一緒しても良いですか?」
「やった!」
「大歓迎だよ〜!」
龍之介と一真は嬉しそうにハイタッチをした。
ちょうど話がまとまったとき、奏が小走りで3人の元に戻ってきた。
「ごめん、お待たせ。変なこと言ってないだろうな。」
前者を凛子に、後者を龍之介と一真に言う奏。
「言ってねーよ。」
奏の感じの悪い言葉にも、龍之介が笑いながら答える。奏のこのような態度はいつものことだ。
「お母さんは何て言ってましたか?」
「あぁ、なんか必要な書類があって、その場所を聞かれただけだったよ。」
「そうなんですね、何か問題がなかったようで良かったです。」
両親は朝が早いためにもう寝る時間だ。そんなときに電話がきたので何かあったのかと心配したが、何もなかったようで安心した。
「じゃあ、帰ろうか。」
奏が微笑む。友人二人のことは完全に無視だ。
「いや、凛子ちゃんは俺たちと一緒に遊びに行ってくれるって。」
龍之介が立ち去ろうとする奏の腕をガシリと掴み、一真が進路に立ち塞がる。
大きく舌打ちをしたい気持ちを抑える奏。
「彼女も今日は疲れてるし、帰らせてもらうよ。」
「今から皆でクラブに行くらしいので私もご一緒しようかと。」
凛子が口を挟む。
「ええぇぇえっ!?」
奏は予想外の言葉に大きな声を出し凛子を見る。
「いやいやいや、よりにもよってそんなとこ行くの!?クラブってどんな場所かわかってる!?」
「はい、お酒飲んだり踊ったりするところですよね?龍之介さんと一真さんがよく一緒に行ってるって聞きました。」
奏は凛子の言葉を聞き、目の前にいる友人二人を睨みつける。余計なことを吹き込みやがって、絶対凛子は何か勘違いしてるし。
「もしかして私行ったら邪魔しちゃいますか?」
いつもと様子の違う奏を見つめる凛子。眉毛が心なしか下がっている。
「そういうわけじゃないけど…」
どうしよう、どうやってクラブへ行くことを阻止したらいいんだ。あんなあまり治安の良くない場所に凛子を連れて行くのは心配しかない。それにクラブには知り合いがたくさんいるので、そんな奴らと関わっているところを見られたくない。本来の俺の姿を見たら凛子は幻滅するに違いないからだ。
「じゃあ、行こうぜ!」
もし言って合わなかったらすぐ帰れば良いだけだろ?
友人二人の余計な援護と凛子の視線に奏は折れてしまった。
クラブには少しだけ顔を出して適当に理由をつけてすぐに凛子と帰ろう…。
龍之介と一真の後ろを歩く奏と凛子、凛子の顔は心なしか楽しそうだ。凛子は知っていることに偏りがあるが、新しいことにも興味津々らしい。コミュニケーションが苦手と言っていたので、友達が少ないこともあり行ったことない場所が多いのだろう。
そんな凛子に小声で声を掛ける。
「凛子ちゃん、龍之介たちに俺たちの両親が再婚したとかそっちの話した?」
「いえ、話してませんよ。」
奏の彼女か聞かれたのでそれを否定しただけだ。
「それなら良かった。両親の再婚とか血は繋がってないけど一緒に住んでるとか説明するとややこしくなるから言わないでおこう。」
こんな込み入った話をしたら、また龍之介と一真が根掘り葉掘り聞いてくるなか決まってる。これ以上の詮索はされたくない。
「わかりました。確かにややこしいですもんね。」
「うん、じゃあ俺と凛子は恋び…っじゃなくて友達ってことにしよっか。」
危ない、恋人を演じようとぺろっと言ってしまうところだった。
「はい、わかりました。兄さんじゃなくて奏さんって呼びますね。」
「う、うん…よろしく。」
いつも兄さんと呼ばれてるために名前で呼ばれるとドキドキしてしまう。
駅前のロッカーにショップバッグ等を預けると、以前奏がよく通っていたクラブに到着した。
店の前に立っているだけで入店もしていないのにすでに中からの音が洩れ聞こえる。凛子はこんな爆音を聞いたことないだろうに大丈夫だろうか。凛子をチラリと見ると、興味津々に目を輝かせている。
クラブハウスに入るとテンポの早い英語の曲が爆音で鳴り、暗い室内にカラフルなライトがチカチカと入り乱れる。
店内は明日が日曜日なこともあって多くの人で大混雑だ。奏は自然と凛子の手をきつく握って引く。とにかく椅子とテーブルがある比較的安全な場所に移動しなければ。
このクラブハウスは広く若者に人気のスポットだ。
円形のフロアの中心にDJなどのためのパフォーマンスフロアがありその周りを囲むようにドーナツ型のダンスフロア、さらにまたそれを囲うようにテーブルチェアやバーカウンターが設置されていた。
DJはアメリカの人気曲を中心にリミックスし、若者たちは男女入り乱れて身体を揺らし弾ける。よく見ると抱き合ったりキスをしているペアもいる。
やっぱりこんな光景を凛子に見せない方が良かったのでは…そんなことを思いながら恐る恐る凛子の方を振り返ると、凛子は見たことのない光景に胸踊っているようで周りをキョロキョロ見回している。
…意外と受け入れるのが早いんだな。そんなことを思う奏。
ほとんどのテーブルは埋まっていたが、手際良く一真が奇跡的に空いていたテーブルと椅子を確保してくれる。
ちなみに龍之介は好みの女性を見つけたらしく、足早に奏たちから離れて姿を消してしまった。きっと振られてすぐにこちらに戻ってくるだろう。
凛子をソファ席に座らせ、奏もその隣に座る。一真は奏の向いの椅子だ。
凛子は何か奏に話しかけるが、周りの音がうるさく奏には聞こえない。ちなみに奏は面倒な知り合いがいないか確認するためにキョロキョロ見渡すのに忙しい。
凛子は奏の肩に手を置き顔を近づける。急なことに驚いた奏はビクッと身体を揺らし心なしか頬もピンク色に染まる。
「奏さん、ここ凄く面白いですね。」
奏の耳元に顔を近づけ話しかける凛子。
奏も遠慮がちに凛子の耳に近付いて会話をした。
「り、凛子ちゃんが楽しんでるなら良かったよ。俺、ちょっと飲み物買ってくるよ。何が良い?」
なんとなく気まずく感じた奏は一旦その場を離れるためにそう言う。
自分から質問をした奏だが、ふと疑問に思う。
凛子は酒を飲むのだろうか?確かソフトドリンクもいくつかあるにはあったはずだが…。
「じゃあ、カンパリオレンジをお願いします。」
あ、カクテルのこととかは知っているのか。
奏は返事をするとその場を離れバーカウンターに向かった。同じテーブルに一真もいたのだが、一真には何が飲みたいかは聞かず、代わりに凛子に変な虫が近づかないように釘を刺しておいた。
友人であるはずの奏の背中を見送る一真は思う。
今日の奏は見たことない行動ばかりして変だ。それもこの目の前にいる美女が原因なんだろう。凛子ちゃんは俺らがいつもつるむ女の子達とは違って物静かで真面目な感じがする。一体こんな子とどこで知り合ったのだろうか。
奏は特に女性に対して不信感があり信じていないようだった。女性に対する態度は素っ気ないし誰か一人の人を愛するというようなこともなかった。
しかし凛子ちゃんの前の奏は明らかに猫を被っており、普段の自分を知られたくないのか俺らに対する警戒心も強い。いつもの奏なら人からどう見られているかなんて全く気にしていないのに。それだけ凛子ちゃんを特別に思っているのだろう。
兎にも角にも奏に凛子ちゃんのような女性が出来たのは嬉しい。
これまでのような女遊びに近い軽率な行動を取っているといつか刺されてしまうだろうと思っていた。最近はそんな行動も減っているようだし、このまま落ち着いてくれると良いのだが…。
「凛子ちゃんはさ、奏の友達なんだよね?凛子ちゃんの前での奏ってどんな奴なの?」
興味本位で質問をする一真。
荒んで自堕落な生活をしている奏しか知らないので、凛子の前ではどんな感じなのか知りたい。
「奏さんは凄く優しいですよ。それにたくさん私の話を聞いてくれますし、私が知らないこともたくさん教えてくれます。」
誰だそれは…これが一真の率直な感想だ。奏は特に女性の前では無口で人にも興味がないパチンカス、それに度の越えた飲酒と喫煙をするダメな男だ。そんな奴が優しい男だと認識されているなんて…。
「そ、そうなんだ。仲良しなんだね。二人はカップルなんだと間違えちゃったくらいだよ。」
「彼女だなんて…私には兄のような存在です。」
きっぱりと言う凛子、そんな姿を見た一真は奏に同情してしまった。
本人が気付いているのかは定かではないが、奏は凛子ちゃんに好意を持っているのだろう。しかし、せっかく更生のチャンスもある恋なのに相手には全く気付かれていないとは…面白すぎるから後で龍之介にも教えてやろう。
凛子と一真が会話をしている一方、奏は混雑の中バーカウンターで凛子と自分のカクテルを受け取り席に戻ろうとしていた。
しかし、グラスを持っている両腕に女性の胸と手がぴったりとくっついてくる。甘ったるい香水のおまけつきで。
「奏じゃーん、久しぶり‼」
と金髪のショートボブの女性が胸を押しつけてくる。
「奏君、久しぶりにうちの家に来てよ~」
甘ったるい声を出すもう一方の女性は黒髪のロングヘアで毛先をベビーピンクに染めている。可愛い顔のわりに奏を離すまいと強い力で握ってくる。
両脇を固められた奏は大きなため息を吐く。
2人とも奏と身体の関係を持ったことのある女性だ。と言っても顔は知っているが名前すら覚えていない。
特にロングヘアの方は会うといつもしつこく絡んでくるので苦手だ。奏は後腐れのなさそうな女性のみを選んで相手しているつもりなのだが、時々ずっと執着してくる奴がいる。
自業自得なのはわかっているが勘弁してほしい。こんなところを凛子に見られたくないのだ。
凛子達のいる席を見ると、凛子は一真と話しているようで此方の状況については気付いていない。早めに対処しなければ。
「どけ、待たせてる奴いるから。」
素っ気なく言う奏。腕を振り払いたいが両手にカクテルを持っているのでそれも出来ない。
「えーっ、いつも素っけなさすぎっ‼」
「今日は私と一緒に居てよ~」
奏は本気で拒否をしているのだが、平素より女性に対する態度が雑なので女性達は奏が本気で嫌がっているのに気付かない。
「ね、私と行こ?」
するとロングヘアの女性が奏の頬にキスをした。おかげで頬にはべっとりと口紅がついてしまう。
「どけっつったよな!?」
奏はかなり低い声で怒鳴った。
普段声を荒げずローテンションな奏が怒鳴ったので女性達は驚き奏から手を離す。
奏はその隙に袖で頬を拭いながら足早に歩き始めた。
「奏君っ‼」
それでも諦めずにロングヘアの女性が奏にすがろうとする。しかし、奏はそれを許さなかった。
「消えろ。」
殺気のこもった目でその女性を睨みつけると低い声でそう言いその場を離れてしまった。
奏の後ろ姿を呆然と見つめる女性達。金髪の女性は諦めたように去ったが、ロングヘアの女性は悔しそうに奏の行く先を見つめていた。
奏が席に戻ると、いつも一緒にいる男友達とこの場にそぐわない格好をしている女が一人。その女はナチュラルなメイクをしているのにとても美しく清楚で、周りの男性たちもチラチラと見ている。
誰あの女!?
見たこともない強力なライバルの出現に怒りがこみ上げるロングヘアガール。睨みつける眼光が勢いを増す。
奏はその女性の隣に座ると、何かを話しながら持っていたグラスを差し出した。
そして次の瞬間、ロングヘアガールの怒りが爆発した。
奏が見たこともない優しい目でその女を見つめているのだ。
奏は女の子と接するときはいつも無表情で目が合うことすらほとんどない。もちろんロングヘアガールもこれまで様々なアピールをしてきたが、いつも素っ気ない態度を取られるだけだ。
それなのに‼私が奏君の笑顔を作りたかったのにっ、なんでぽっと出の女が奏君に優しくされてんのよ‼
今にも席に乱入したい気持ちを抑えながら奏の方を見ていると、一緒に居た男友達が席を立ちバーカウンターの方へ歩いて行く。
二人きりになった光景を見てさらにロングヘアガールの怒りに油を注いだ。
無理やり奏に話しかけたらまた怒らせてしまう、どうしよう…そんなことを考えていると、一人の男性が肩に手を置いてきた。
「きららちゃん、こんなとこで突っ立ってどしたの?」
ロングヘアガールの名前はきららと言い、顔なじみの男性が声をかけた。
長身にたれ目で少し長い毛をハーフアップしている男性の名前は連、クラブでよく会う女好きのチャラ男だ。
そして、きららは名案を思いつく。
「あそこ見てよ。奏君の方。」
きららが奏のいる席を指差す。
「えっ、何あの超絶美女‼」
すぐに身を乗り出して反応する連。女大好きの連は凛子を見て目を輝かした。
きららの思惑通り連は凛子に夢中だ。
「私、奏君と二人になりたいから、あの女どうにかしてよ。」
「おう、任せろ‼絶対お近づきになりてーわ。」
そうして二人の作戦が始まった。
連は女性の扱いが上手だし顔も悪くないからあの女も釣られるに違いない。とにかく奏君からあの女を引き離さなければ。その間に私が奏君を奪ってやる‼
先程奏のテーブルにいた友人を見ると、他の友人と話し込んでいる。
連は手に持ってたグラスを揺らしながら二人の方へ歩いて行く。連が凛子の隣を通り過ぎようとしたとき、事故を装ってグラスを凛子の足元に落とした。
バシャッ
狙い通り凛子の足元にグラスが落ち靴やズボンが濡れてしまう。
「わっ、ごめんなさい!」
連が慌てた様子で謝る。
「凛子ちゃん、大丈夫!?」
奏はすぐに連と凛子の間に入って言う。クラブの常連であり女好きと有名な連のことも奏は知っており警戒心バリバリだ。
「はい、少し濡れただけなので大丈夫ですよ。」
凛子は平然と言うが、ジーンズの裾ががっつり変色しており結構濡れてしまっている。
「こっちで対処するからどっか行ってくれて良いよ。」
凛子の手前笑顔で連を見上げる奏だが、内心は怒り心頭だ。
そんな奏の様子を見た連はもう一度2人に謝りあっさりと去って行った。そして、ダンスホールに消えて行った連を確認する奏は凛子の方へ向き直る。
「俺、おしぼりもらってくるね。知らない人に話しかけられても相手しちゃ駄目だよ?」
「ふふっ、私も子どもじゃないし心配しないでください。」
珍しく声を出して笑う凛子だが、きっと凛子の想像する心配と奏の言う心配は違うのだろう。凛子を一人にするのは心配だが、濡れたままも良くない。奏は足早におしぼりをもらいにカウンターへ向かう。
慣れない空間に位置人になってしまった凛子。
「ごめん、やっぱり申し訳なくて戻ってきちゃった。」
すると先程の男性の声がまた聞こえる。
声の方を振り向くと、連が申し訳無さそうな顔をしている。
「大丈夫ですよ?」
濡れたのは使い古しているジーンズだし、兄さんから買ってもらったブラウスは無事だ。だから凛子としても本当に気にしていない。
わざわざ戻ってきて謝罪をしてくるなんて律儀な人だ。
「でもシミになったら困るし…あ、トイレの水で少し洗うのはどうかな?」
確かにこのままだとベタベタするし、夕食で中国茶を飲みすぎたのでトイレにも行きたい。
でも、今は兄さんがおしぼり取りに行ってくれてるし…
そんなことを考えていると、連さスマートに凛子の手を取り立ち上がらせた。
「ほら、せめて俺に案内させて?」
下がり眉で連が言う。
兄さんにはスマホで離席のメッセージを残しとけば良いか…凛子はそう考えると、連に御礼を言いトイレに案内してもらうことにした。
一方、混み合うバーカウンターでようやくおしぼりと水の入ったグラスを受け取った奏は急いで席に戻ろうとする。
が、振り向いたと同時にきららが立ち塞がった。そして間髪入れずに奏に抱きつく。
「おい、離せよ。消えろっつったよな?」
明らかにイライラする奏。凛子に目をやるとまた連が近づいているのが見えた。
あのクソ野郎…!
早く戻らないと凛子が危ない。
「やだっ!私の方見てよ!」
きららは力いっぱい奏を抱きしめるがいっこうにこちらを見てはもらえず、奏の視線は常に凛子の方向だ。
「おい、俺がキレないうちに離せ。」
相変わらず低い声の奏。額に血管が浮かんでいらる。
「なんでよっ!あんな顔だけのビッチじゃなくて私と居てよ!奏君は女1人だけに夢中になる人じゃないじゃん!私は奏君のこと全部理解してあげられるもん!」
バシャッ
「キャァッ」
その言葉を聞いた奏は容赦なく持っていたグラスの水をきららの頭にかけた。流石の事態に周りも固唾を飲んで見守る。
「なっ、奏君は女の子に手を出すような人じゃないのに!あの女のせいでおかしくなったんだ!」
それでもなお諦めないきらら。
奏はそんなきららを睨みつけると、今日一番の低音ボイスで言葉を放った。
「お前が俺の何を知ってるって?勘違いすんじゃねーよ。」
「わ、私っ…」
「それ以上口開いたら一生喋れねーようにしてやる。次あの子に何かしたら殺すぞ。」
奏はきららが連を仕向けたことに気付いたようで、床におしぼりを捨てると走り出した。
もうすでにテーブルには凛子と連の姿はない。きららに邪魔されて一部始終しか見れなかったが、恐らく連が、もっともらしい理由をつけてトイレにでも連れて行ったのだろう。
心臓が激しく脈を打ち冷や汗が出てくる。早く凛子の元に行かなければ!
強引に人混みを掻き分けトイレの前に辿りついた頃には奏の髪や服は乱れていた。
急いでトイレの入り口に入ろうとしたときだった。
ガッ
ダァアンッ
女子トイレの方から激しい音が聞こえる。
「凛子!!」
奏は女子トイレに躊躇いなく入った。
「…へ?」
目の前に広がる光景は予想外のもので、奏からは間抜けな声が出た。
ズボンのチャックを下ろした連は無様な姿で床にのびていたのである。凛子はちょうど連の胸ぐらから手を離していたところで、ちょうど顔を上げた際に奏と目が合う。
「兄さん、服乱れてますがどうかしましたか?」
ケロッとした様子で凛子が尋ねる。
「それより凛子ちゃんがどうしたの?何でコイツが床で寝てるの?」
奏が連を指差す。
「さっきカクテル溢した人がトイレに案内してくれたんですけど、相当酔ってたみたいで…」
「何かされたの!?」
凛子の言葉を聞いて奏はすぐに凛子の元に行き連から距離を取らせる。
「いえ、間違えて女子トイレに入ってることを指摘しても帰ってくれないし、女子トイレでトイレをしようとズボンのチャックjを下げてきちゃって…。しかも、誰かと間違えたみたいでお尻を触られたので念の為制圧しようとしたんですけど…床が濡れて滑ってしまい、うっかりこの人に技をかけてしまいました。」
「わ、技?」
「はい、昔から父が時間があるときには格闘技や護身術を教えてくれるので。」
そういえば凛子の父は元格闘家だった。かなり有名な悪役プロレスラーだったのだが、前妻が凛子を妊娠してからすぐに格闘家を引退したらしい。父は今でも大きな身体に筋肉隆々の姿であり、温厚ではあるが怒らせたくない相手だ。父親としても凛子を守るために凛子に護身術を教えていたようだ。
「す、滑ったわりには綺麗に技が入ったみたいだね。」
インドアなイメージの凛子がこんなにも強かったとは。
「…」
珍ししく凛子は奏から目を逸らしあさっての方向を見ている。
「え、どうしたの?」
いつもはっきりと受け答えをする凛子なのだが何故か答えないのが不自然だ。
「嘘…ついちゃいました。」
奏の方に向き直る凛子。
「嘘?」
嘘が凛子に気まずい思いをさせているのか?
「この人が兄さんのこと悪く言ってきたんです…自己中なクソ野郎だって。それにムカついてつい感情に任せて引き倒してしまいました。」
「…。」
奏は言葉が出ない。何故なら自分がそう言われても否定できないからだ。確かに凛子の前では気遣いを心がけている。しかし友人や特に女性に対しては適当でその場限りの言動を繰り返してきた。セクハラを受けたので反撃するのは妥当だと思うが、自分は凛子に庇ってもらえる立場ではない。しかもその事実を伝えるのも怖くて黙ってしまう最低野郎だ。
「俺なんかのために怒ってくれてありがとう。それに凛子ちゃんのしたことは正当防衛だし気にする必要ないよ。」
奏は少し暗い表情を見せる。
「でもさすがに誰かスタッフを呼んで来た方が良いですね…警察に自首もしなきゃ…」
「あ、待って。俺が呼ぶから大丈夫だよ。酔ってたみたいだし警察沙汰はコイツも嬉しくないと思うな。」
そう言うと凛子の背を押しトイレから出るよう促す。その際、奏は強めの力で凛子のお尻を触ったであろう連の手を強く踏みつけた。
もちろんスタッフも警察も呼ぶつもりもない。すぐに女子トイレでズボンのチャックを開け気絶している連の姿は発見され騒動になるだろう。連も女性に気絶させられたなんてプライドが許さないはずだから凛子に手を出してくることはないだろうが…念のため後で手を打っておくか。
トイレを出て先程のテーブルに戻ろうとすると、そのテーブルにはすでに他の人たちが座っていた。グラスは置いてきたのだが、人がいなかったので他の人たちが座ってしまったのだろう。辺りを見回しても他に空いている席は無さそうだし、どうしようか…というか、龍之介と一真はどこに行ったんだ、自分達から誘ってきたくせに。
「奏さん、あそこ行ってみたいです」
凛子がダンスホールを指差す。
「えっ、踊るの!?」
「はい、せっかく来たので郷に従ってみたくて。」
順応性が高すぎる!奏もあまりダンスホールに行ったことはないし、曲に合わせて身体を揺らすのも苦手だ。でも凛子を1人でホールに向かわせると、十中八九ナンパの嵐に合う。
「…じゃあ、一緒に行こうか。」
奏はそう答えるしかなかった。
ダンスホールの端に来ると、凛子は周りを見回している。そもそも凛子がダンスをする姿が全く想像できないのだが、ここからどうするつもりだろう。
「奏さん、一緒に踊りましょう!」
凛子はそう言うと奏の正面に立ち、奏の両手をそれぞれ握る。
突然のことに奏は顔が赤くなり、どう反応して良いのかわからない。
すると凛子は両腕を上下にブンブンと振り始めた。しかも、くるくると回り始める。奏と2人でくるくる回りながら腕を振るという斬新なダンス。
「ぶはっ、あはははは!」
奏は思わず声を出して爆笑してしまった。
さっきまで周りの人達のダンスをじっと観ていたのに、何をどう理解して今のダンスをしているのだろう。周囲と全く違う不格好な踊りだ。
凛子はハーブティーを淹れるときのような真剣な顔なのだが、それでさらに笑いが止まらなくなってしまう。
「ふふふっ」
すると、爆笑している奏を見た凛子も目を細めて大きな声で笑い出した。
ヘンテコダンスを踊る2人だが、容姿が良いのが相まってか美男美女のダンスに見惚れる者も少なくなかった。