第三話
地上調整機関アースガルズ————この場所は神々が住んでいる天上に存在し、人間達が生活している地上を管理している。
その場所で、アースガルズに所属する神様達は、地上における生物や資源のバランス・国や企業、個人などが適切な状態になるように、日ごと、システムを用いて調整していた。
その中で、タソガレをリーダーとするチーム「ライジングフォーチュン」は、地上で困っている人間を、幸せに導く任務を請け負っていた。
この話は、サクラ・ハヤテ・キラボシ・ミナモ・タソガレの五人が、地上のシステムを駆使して、水谷耕一を本当の幸せに導くストーリーである。
果たして、水谷耕一は自分の本心に気づき、幸せを掴むことはできるのだろうか?
設定
天上:神々が住んでいる世界。人間が住んでいる地上と、お互いの行き来はできない。
アースガルズ:天上に存在する場所で、神々が地上に対して影響を与えることができる機関。
システム:神々が地上に影響を与える場合に使用するもの。地上で言うところのコンピューターである。
神様:天上に住んでいて、人間と同じ姿をしている。
上級神:アースガルズで大きな権力を持つ神様。
最高神:アースガルズで一番大きな権力を持つ神様。
管理項目:上級神以上でないと使用できない調整。地上のコンピューターや機械を操作することができる。
その他:上級神以上は、地上で発生した過去の映像を自由に視聴することができる。また、上級神の許可を得られれば、一般の神様も視聴することができる。
1 寿命
木製の高級そうなデスクで、一人モニターを見ている男性がいる。彼は、三十代半ば位に見えるが、落ち着いた茶色いショートヘアをして、整った顔立ちをしている。また、スタイリッシュなデザインの制服を着用しているが、長身なのでモデルのように見える。アースガルズ最高神のシキである。
「今回、手助けする人間は、水谷耕一という四十歳の男性で、妻と娘がいるのか。」
シキは書類に書かれた情報を見ながら、難しい顔をした。
「家族のために、とても熱心に働いているようだけど––––残念なことに、このままでは長くないようだな。」
シキが手にしている資料には、水谷耕一の、おおよその寿命が書かれていた。アースガルズのシステムは、人間の余命に関して知ることができるらしい。シキが渋い顔をしていた理由は、まだ四十歳という若さで先が短い男を、憐れむ気持ちからだった。
「特に悪い人間でもないみたいだから、救済することは問題ないが––––体だけ回復させても解決しないところが難しいなあ。」
シキが、そう考える理由は、水谷耕一の寿命が伸びるように手助けしたとしても、本人の生活スタイルが改善されなければ解決しないからである。一時的に良くなっても、しばらくして再び悪化したら意味がない。また、善人であっても、そう何度も救済したら、他の人間との公平性に欠けてしまう。
「今回のポイントは、どうやって水谷耕一の意識を変えるかだな––––もっとも、彼の本心に沿わせる必要はあるけどな。」
そう話すと、シキは手元の書類をデスクに置いた。
2 水谷耕一
俺の名前は水谷耕一。都内のIT企業に勤めている。ITベンダーといって、取引先企業が要望するプログラムを受注生産している会社である。作成しているプログラムは様々だが、例えば、スーパーマーケットなどで使用されているレジスターのプログラムも作っている。俺自身も、ある程度プログラミングをすることができる。しかし、社内には俺より詳しい技術者がいるので、俺は外部企業から仕事を取ってくることが仕事だ。つまり、営業職である。
家庭環境については、五つ下の妻と、五歳になる娘がいる。妻とは、娘が生まれる一年前に結婚したが、彼女もまたオフィス街で働いていた。結婚して娘が生まれる前に退職して、現在は専業主婦をしている。娘に関しては、現在、幼稚園に通っているが、とても活発な性格をしているらしい。「活発な性格をしているらしい」というのは、幼稚園で男の子に負けないくらい活動的だと妻から聞いたからだ。自分の娘なので関心はあるのだが、仕事が忙しいため、なかなか関わることができない。しかし、元気に過ごしているのなら、それでいいと思っている。なぜなら、家族が金銭的に不自由しないようにすることが、最も大事だと思っているからだ。幸い、今の仕事は、収入に関しては申し分ない水準なので、家族も余裕のある生活ができている。しかし、もっと良い生活をさせてあげたいので、俺は出世するために頑張らないといけない。
「水谷主任、先方に提示する資料を作成したんですけど、確認してもらえますか?」
部下である小杉が、取引先に見せる資料を、俺に差し出してきた。俺は、彼の作成した資料を確認してから、助言する。
「これだと、通らないと思うなあ––––あそこの企業は、財布の紐が堅いからな––––この資料は、俺が作っておくから、休憩でもしてきたらどうだ?」
小杉は仕事のできない男ではないが、自分で進めた方が速いので、俺が代わる方向へ促した。
「でも、水谷主任は、全然休まずに仕事しているじゃないですか。俺の仕事だから、自分でやりますよ。」
「え?ああ、気にするなよ。いいから、行ってこいよ。」
小杉は彼の仕事に対する責任感を示してきたが、俺は彼の申し出を断った。
しばらくして、別の部下から声をかけられた。
「水谷主任、お時間よろしいですか?」
「ああ、森さん。どうかした?」
「この企業の業績が思わしくないみたいですが、おそらく使用しているシステムが、競合他社より遅れているからだと思うんですよ––––私、営業かけようと思っているんですけど、どうでしょうか?」
「うん。俺も同じこと考えてたよ––––でも、案件が大きいから、俺の方で進めるよ––––あんまりプレッシャー大きいことしたくないだろ?」
「え?まあ、それはありますけど––––でも、主任ばかりに負担をかけるわけには‥。」
「大丈夫だよ。任せておけよ––––森さんは、代わりに、こっちの簡単な案件でもやっておいてよ。」
「あ、はい––––わかりました。」
小杉同様、森さんも俺の部下だが、彼女も仕事ができない女性ではない。しかし、案件が大きいものを失敗した場合、チームの業績に与える影響が大きくなる。だから、彼女が相談してきた案件は、俺が担当しようと思った。
仕事は定時であれば十八時頃に終えるが、俺は遅くまで残っていたため、二十三時過ぎに自宅マンションへ帰宅した。疲れてはいるが、ほとんど毎日、このくらいの時間になってしまうので、正直慣れてしまった。
ダイニングに入る扉を開けると、妻である紀子は、まだ起きていた。帰るのを待っていてくれたみたいだ。
「ただいま。」
「お帰りなさい––––今日も遅かったわね。今、ご飯温めるから、待っててね。」
「ああ、ありがとう。でも、少しでいいから。」
「うん。わかった。」
また明日も仕事なので、俺は、食事やシャワーをさっさと済ませてしまいたかった。紀子も俺の気持ちは分かってくれているだろう。
妻が食事の準備をしている間、俺は寝室の扉を静かに開けて、内部を確認した。娘である日菜の寝顔を見るためだ。起こさないように、俺は、そっとベッドに近づいた。
「ただいま。」
俺は、寝息を立てて眠っている娘に、小声で話しかけた。日菜は、安らかな寝顔をしていた。それを確認してから、そっとダイニングへ戻った。
ダイニングに戻ると、食事の準備が終わっていた。
「いただきます。」
俺は、席に着き、食事の挨拶をした。食べ進めていると、紀子が話しかけてきた。
「仕事は順調?」
「ああ。今日も案件一つ決まったし、上手くいってるよ。」
「それは良かったわね––––ところでね、今度、日菜の幼稚園で運動会があるみたいなの。来週の土曜日なんだけど。」
「え、そうなんだ。でも、出れないなあ。社内研修が入ってて。」
「また土曜日なのに、仕事なのね。」
「まあ、仕方ないからな。会社の決定事項だし––––でも、残念だな。日菜の運動会、見れなくて。」
「そうね。じゃあ、私だけで行ってくるわ。ビデオカメラで、日菜のことを、しっかり撮ってくるわね。」
「ああ、頼むよ。」
娘の晴れ姿を見れないことは非常に残念だったが、それでも、仕事を優先しなければいけない。出世して収入が増えれば、もっと家族に良い思いをさせられるからだ。とりあえず、紀子が動画を撮ってきてくれるみたいなので、それで我慢することにした。
食事を終えて、俺は、すぐに浴室へ向かう。さっさと眠って、明日の仕事に備えなければいけないからだ。疲れていたため、正直、シャワーを浴びるのも面倒に思っていた。
3 異変(水谷耕一の視点)
本日も、俺は社内でバリバリと仕事に精を出していた。
「水谷君、うちの部署、非常に成績が良いよ––––それも、君の仕事ぶりによるところが大きいね。頼りにしてるよ!」
上司である中田課長が、俺の仕事ぶりを絶賛してきた。日々の努力が実を結んだのか、俺のチームは業績が非常に良かったようだ。それは、非常に誇らしいことだったし、俺のことを褒めてくれるのも嬉しかった。しかし、昼休憩に入る前に、小杉から気になることを言われた。
「水谷主任、何だか今日は、顔色が悪いですよ。」
と、言ってきたのだ。仕事で疲れていることは自覚していたが、そう言われると、いつもより血の気が引いている感じがした。気のせいだといいが。
昼ご飯を終えてから、俺は洗面所へ向かった。そのときに、小杉から言われたことを思い出し、俺は洗面台の鏡で顔を眺めてみた。そうすると、いつもより青白い感じがした。
「小杉の言ってた通り、顔色が悪いな––––まあ、ちょっと疲れてるだけだろう。」
俺は、そう思いながら、オフィスへ戻った。
午後の仕事を開始する。十五時から取引先とアポイントを取っているが、それまでの間で別の資料を作成することにした。そんなとき、小杉が話しかけてきた。
「水谷主任、もう少し休憩されたらどうですか?」
「ああ。さっき鏡を見たんだけど、お前の言ってる通り、俺の顔色、なんか悪くなってるな––––でも、大丈夫だって。明日は休みだから、今日だけでも頑張るよ。」
「ですが‥。」
小杉は、相変わらず、俺を心配してくれているようだった。しかし、アポイントまで余裕があるとはいえ、無駄な時間を過ごしたくはない。
取引先に、そろそろ向かった方が良い時間になり、俺は荷物の準備を始めた。そうしていると、ときどき目の前が真っ白になった。なんだか、午前中よりも血の気が引いている感じがする。それでも、荷物を肩に掛けて現地へ向かおうとしたが、俺に異変が起きた。周りの様子が歪み、俺の意識が遠のいていく。
「水谷主任!大丈夫ですか!」
意識が消えゆく中、小杉の声がうっすら聞こえてきた。
4 後悔(水谷紀子の視点)
夫の職場から連絡を受け、私は娘を連れて、都内の病院を訪れた。耕一が疲れていることは理解していたが、こんな事態になるとは考えていなかったので、私は考えの甘さを後悔した。
病院に到着してからは、耕一の病室に入る前に、担当医が居る診察室へ向かうことになった。
「日菜は、ここで待っててね。」
看護士から促されたので、娘には診察室の入口横にあるベンチで、待っててもらうことにした。
「うん。分かった。」
日菜から返答されると、私は診察室へ入った。
診察室に入り、勧められた椅子に座ると、医者は真剣な表情で話し始めた。
「旦那さんの状態は、非常に良くありません。今回は命に別条はありませんが、もう少し病院にいらっしゃるのが遅ければ、危なかったでしょう––––何か、不規則な生活をしていたなど、心当たりはありますか?」
「はい。夫は仕事が忙しくて、毎日遅くまで働いています––––大体いつも、日が変わる少し前に帰ってきます。」
「そうですか。それだと、疲労やストレスが溜まっているでしょうね––––睡眠時間などは、どうですか?」
「五時間から六時間程度だと思います。」
「なるほど。やや少ないですね––––食事は、きちんと取られていましたか?」
「はい。食事は私が用意していますが、食べています。」
「わかりました。しかし、食事も、あんまり遅い時間に食べるのは良くありませんからね。」
この調子で、私は、担当医から耕一の生活について逐一聞かれた。こんな風に問いかけられると、間違った生活習慣だと分かっていることでも、慣れてしまうことで気にならなくなっていたことを気付かされた。尚、この後に正式な病名を言われたが、それを聞いて私は怖くなった。
「とりあえず、旦那さんには、しばらく入院していただいて、その後は自宅で療養して下さい––––経過を見たいので、退院後も診察には来ていただくことになります––––私から伝えることは以上です。」
「はい。分かりました––––本日は、ありがとうございました。」
私は、医者に一礼してから、診察室を出た。
診察室を出ると、
「お母さん、終わったの?––––お父さん、どこにいるの?」
と、日菜に聞かれた。私は、担当医と話しているときは夫のことを心配していたが、娘から話しかけられると、彼女のことも不安に思ってしまった。耕一の状態によっては、余裕を持って子育てできなくなるかもしれないからだ。
「うん。これから、お父さんのところに行くのよ。」
私は、日菜の手を取って、耕一の居る病室へ向かった。
夫がいる病室に入ると、彼は点滴を打たれた状態で眠っていた。それを見ると、再び不安な気持ちになってきたが、娘を一瞥して、心を持ち直した。
「お父さん、寝てるね。」
日菜は不思議そうに話した。事情を知らずに、連れて来られたからだろう。
「お父さん、疲れちゃったみたいで、寝てるのよ––––静かにしないとダメよ。」
「うん––––お父さん、疲れちゃったんだね。」
「そう。疲れちゃったの‥。」
「じゃあ、優しくしてあげなきゃダメだよ!」
「そうね––––でも、今日は、もう帰らないとね。お父さんは、しばらくここでお泊まりするの––––だから、二人で帰ろうね。」
「分かった。じゃあ、帰る。優しくするのは、今度にする。」
娘から、そう言われると、自分が情けなく感じられた。それは、自分が耕一のことを、よく見ていなかったと思ったからだ。彼の状態を理解していれば、この事態は防げたかもしれない。
「そうね。今度来たら、優しくしようね。」
私は、弱々しい声で日菜に話しかけてから、娘の手を取って病室を後にした。
5 家族愛
ライジングフォーチュンの作業場で、各メンバーが大型モニターを見ている。大型モニターには、水谷耕一の映像と、水谷紀子と水谷日菜の映像が映っている。
「これは、絶対に助けないとダメだよ!」
そう話すのはサクラである。彼女は、黄味がかった茶色いショートヘアをした美少女である。白いシャツに藍色のリボンとプリーツスカートを身につけていて、女子高生のように見える。
「そうだね。彼は、家族が良い生活を送れるために、熱心に働いていたわけだからね。基本的に善人だと思うよ––––でも、体調が回復した後に、また無理をして、再び体調を崩されても解決したことにはならないからね。そこは考える必要があると思うよ。」
サクラに答えるのはキラボシである。彼は、暗い茶色のミディアムヘアをした美少年だ。白いシャツに藍色のネクタイとパンツを着用していて、男子校生のように見える。
「そうね。助け方を考えないといけないわね––––ところで、アースガルズのシステムによると、この水谷耕一って人物の命は危なかったらしいの。倒れて病院に運ばれたことは、ショッキングだったけど––––最悪の結果になる前だったから、かえって良かったかもね。」
そう答えるのはタソガレである。彼女は、茶色いミディアムヘアをした美人で、シキとは色違いの制服を身につけている。ライジングフォーチュンのリーダーで、管理や助言をする立場から、メンバーからは先生と呼ばれている。
「そうですね。今なら、彼の体を改善させることもできますからね。」
ミナモがタソガレに話す。彼女は黒いロングヘアの綺麗な少女で、サクラと同じ服装をしている。
「とりあえず、キラボシの言う通り、何度も手助けするわけにもいかないから、どう助けるかを考えましょう!––––ん?ハヤテ、あなた、どうして、そっぽを向いてるの?」
タソガレは、あさっての方向を向いているハヤテに、疑問を持った。
「何でもないです!」
ハヤテは泣きそうな声で答えた。彼は、オレンジがかった茶色いショートヘアに、キラボシと同じ装いをした美少年である。タソガレの言う通り、見当違いの方向を向いているが、彼の頬には涙の筋が見受けられた。意外と人情味のあるハヤテは、水谷日菜が父親を思いやる姿に感動してしまったのだ。
「まあ、いいわ。でも、どういう方向で助けたらいいと思う?」
タソガレの問いに対して、各メンバーは思いを巡らせた。しばらくして、サクラが話し始めた。
「体が良くなってから、また無理をしないようにするんだったら、仕事以外のことに目を向けさせる必要があるよね?」
「そうね。でも、仕事人間である彼に対して、それは難しいわよね。」
ミナモが答える。
「いや、できるぜ。大事なのは、『なんで、あのおっさんは仕事熱心なのか』だ––––俺が見ている限り、自分の家族を金銭面で優位な状況にしたいってところが大きいと思うんだ。だから、家族を大事にするのが、必ずしもそれだけじゃないってことを自覚させればいいんだよ。」
ハヤテが意見した。それに対して、ミナモが言う。
「具体的には?」
「自分の家族との時間を作ってやればいい。五歳の娘がいるんだから、育児をすることの大切さが分かるようにするんだよ––––まあ、できれば、奥さん側も、いっしょに育児することが大事だということを理解してくれればいいんだけどな––––何にせよ、あのおっさんは本心では家族との時間を過ごしたがってると思う。俺には、そう見えたぜ。」
「なるほどね––––それができれば、体が回復した後に、また仕事で無理するのも避けられるかもね。」
ミナモは納得した顔を見せた。
「私は、今のハヤテの意見が良いと思ったけど、他のみんなはどう?」
タソガレがメンバーに問いかけた。
「いいと思います。」
サクラが明るく返答した。
「僕もいいと思いました。」
キラボシも同意した。
「それじゃあ、今回は、水谷耕一の体を回復させながら、彼と奥さんの家族に対する考え方を改めさせるようにしましょう。」
タソガレが決議を述べた。しかし、そのとき、
「もう一つ対応すべきことがあると思うんですが。」
ミナモが提案を始めた。
「水谷耕一は熱心に働いているかもしれませんが、私は客観的に見て、社内での個人プレーが過ぎると思うんです。彼の部下が手持ちぶさたになっているように見えました––––だから、水谷耕一が社内のメンバーとも協力できるように促すことも大事だと思います––––そうすれば、彼の残業量も減るんじゃないでしょうか?」
「なるほどねえ。つまり、彼が部下と協力するようになる情報を流せばいいのね––––彼はIT企業で働くだけあって、インターネットを頻繁に利用しているみたいだから––––それは私が担当するわ。」
タソガレは、ミナモの提案を受け入れた。
「それじゃあ、具体的な手段を考えましょうか。」
タソガレの一言で、各メンバーは目的に対する方法を考え始めた。
6 日菜(水谷耕一の視点)
俺は、目が覚めると、病院のベッドで横になっていた。左腕には、点滴が刺さっている。体がだるかったが、自分に何が起こったのかを振り返った。
「ああ、俺は、倒れたんだ。」
会社で自分に起こったことを思い出した。その後、取引先とアポイントがあったことも思い出された。しかし、スマートフォンが見当たらなかったので、ゆっくり休むことにした。
病室の時計を見ると、十一時前だった。しばらく病室の天井を見つめたり、窓の外を眺めたりして、物思いにふけっていたが、急に扉の開く音が聞こえた。
「あれ?水谷さん、目が覚めたんですね。」
俺に声をかけてきたのは、若い女性の看護士だった。
「ああ、はい。今、目が覚めたところです。」
「三日前に、倒れたところを運ばれてきたんですよ––––どこか具合悪いところはありますか?」
「はい。体がだるいので、何もしたくない気分です––––でも、三日も寝てたんですね。」
「ええ、ですので、安静にしていてください。しばらくしたら、先生を呼びますので、のんびり休んで下さい。」
そう言うと、看護士は部屋を出ていった。俺は、再び窓の外を眺めながら、ぼんやりした。
十分ほど経過して、再度、扉の開く音が聞こえた。俺は、音のする方向へ体を向けると、自分と同じくらいの年齢と思われる、白衣の男性が入ってきた。おそらく、担当医だろう。
「初めまして。意識が戻って良かったです––––あと、無理に喋らなくて大丈夫ですよ。」
医者は、ベッドの横にある椅子へ腰を下ろすと、俺に声をかけてきた。
「はい、ありがとうございます。しかし、三日も寝ていたとは思いませんでした。」
「状態が良くなかったので、仕方ありませんよ––––ところで、普通に、お話しはできるようですね?」
担当医は、少し意外そうな顔をしていた。何かおかしいのだろうか?
「え?––––会話はできますよ。」
「ああ、そうですか––––想定していたよりも回復が早いみたいなので、驚きました。では、とりあえず、要点だけ手短に話しますね––––まず、日常生活が問題なく行えるようになるまでは入院していただきます。そして、ある程度の回復が確認できたら、自宅で療養していただくことになります。」
「自宅療養?そんなに私の体は悪いんですか?」
医者の言葉を聞いて、俺は少し驚いた。思っていたよりも、深刻な状況なのだろうか?
「そうですね。今回は命に別状はありませんでしたが、もう少し悪くなっていたら危なかったんですよ。」
「え?そんなに?」
「はい。ですので、退院できても、こちらが良いと言うまでは休職してください。」
「––––分かりました。」
「それでは、また参りますので、失礼します。」
そう言って、担当医は部屋を出ていった。なんだか、腑に落ちない様子をしていた。
医者が出て行ってから、俺は不安な気持ちになった。退院したら、すぐに仕事へ復帰できると思っていたからである。自分の状態が悪くなっているという自覚と、場合によっては家族に負担をかけてしまうという不安が、俺の心に渦巻き始めた。しかし、しばらく考えてから、考えることをやめた。それは、医者の意見を聞かないと仕方がないからだ。そのため、今は体を治すことだけを考えるようにして、再び眠ることにした。
俺は、眠りから目覚めて、窓の外へ視線を向けた。そうすると、町並みにオレンジ色の光が差していた。夕方になったらしい。その情景を見ていると、妻と娘のことが思い出された。夕日の色が、感傷的な気持ちにさせたからだ。
「俺が倒れてから、紀子も一回くらいは来たんだろうな。」
そんなことを考えていると、しばらくして病室の扉が開いた。
「あら。起きてたのね。病院から電話を受けて、『目を覚ましたけど、今はお休みになっています』って聞いたから。」
紀子が、荷物を持って病室に入ってきた。日菜も一緒にいた。
「ああ。特にすることもないから、寝てる方が回復するのも早いかと思って。」
「そうね。でも、だからって早く仕事に復帰するためなんて、言わないでね––––ところで、お医者さんが、『この症状だと、普通は意識が回復しても、あんなに短い期間で流暢な話しはできないんだけどなあ』って言ってたんだけど、大丈夫なの?」
「え?そうなの?何ともないけど。」
「––––それならいいけど––––でも、すでに知っているかもしれないけど、結構、危なかったみたいなのよ––––だから、ゆっくり休んでね。」
「ああ––––分かった。」
「それと、暇かもしれないと思って、小説を買ってきたの。あと、食べ物も少し––––ここに置いておくわね。」
「ああ。ありがとう。」
妻は、ベッド横のキャビネットに、文庫本と、果物を置いた。俺は、紀子に自分の詳しい容態を聞こうと思った。しかし、娘に気付いて、その話しをするのは止めることにした。すると、日菜が話しかけてきた。
「お父さん、大丈夫?」
「ああ。まだちょっと具合悪いけど、すぐに良くなるよ。心配かけて、ごめんな。」
「ううん。それでね、私、絵を描いてきたの。」
日菜は画用紙に描かれた絵を差し出してきた。それには、娘と妻と俺の、手を繋いでいる様子が描かれていた。
「上手だな。幼稚園で書いたのか?」
「うん。好きなもの描いていいって言われたから。描いたの。」
「そうか。お父さんも描いてくれたのか。」
「うん。喜んでくれたなら、また描くよ。」
「そうか––––ありがとうな。」
俺は、点滴を打たれていない側の手で、日菜の頭を撫でた。嬉しかったからだ。思い返してみると、娘と話すのも久しぶりだった。そして、何だか、日菜が少し大きくなっていることに気づいた。
「日菜。お父さん、喜んでくれて良かったわね。」
紀子が、日菜に話しかけると、
「うん!」
娘は元気に答えた。
その後、俺は、しばらく二人と、日菜の幼稚園での出来事について話をした。しかし、外が暗くなってきたタイミングで、二人を帰らせた。皮肉なことに、病気になったことで、俺は久しぶりに家族との時間を手にすることができた。
一週間ほど経過して、俺は退院できることになった。入院中に成人病として聞いたことがある病名を聞き、俺は事態を深刻に考えたが、医者も驚くほど回復が早いらしく、家に帰れることになった。。
自宅に帰った日の夜、家族で食事をしていると、紀子が話しかけてきた。
「そういえば、この間、日菜の運動会があるって言ってたでしょ。動画に撮っておいたから、後で見せてあげるわね。」
「ああ、そうだったな––––綺麗に撮れたのか?」
「ええ。日菜の良いところ、ちゃんと撮れたわよ。」
「そうか。じゃあ、後で見せてくれ。」
俺が紀子に答えると、日菜が嬉しそうに話しかけてくる。
「お父さん、私、かけっこで一番になったんだよ!」
「そうなのか。すごいじゃないか。」
「うん。私、男の子にだって負けないんだから。」
「おお、そうか。じゃあ、日菜が一番になるところ、お父さん、後で見せてもらうよ。」
「うん。見て!見て!」
娘が活発なことは知っていたが、男の子にも負けないくらいに元気ならしい。
その日の内に、俺は運動会の動画を視聴した。自分の娘が活躍する姿を見るのは、心地良かった。しかし、それを見ているときに、俺は、ふと寂しい気持ちになった。
「そういえば、去年の運動会も行けなかったな。」
俺は、園児としての日菜を、運動会で直接見ることは二度とできない。寂寥感を感じたのは、それに気づいたからだった。
7 自転車(水谷耕一の視点)
家族とインターネットの動画を見ていた。日菜が好きそうな、子供向けの番組を選んで見ていた。
「あはははは!」
娘が楽しそうに笑っている。大人である俺には、何が面白いのか分からないが、自分も小さいときは、こういうものが好きだったんだろう。
こうやって、家族で動画を視聴していると、日菜と同い年ぐらいに見える男の子が映った。彼は、補助輪を外して自転車の運転ができるように、父親と練習をしていた。そうすると、娘が画面から俺の方へ顔を向けて、話しかけてきた。
「私も補助輪無しで運転できるようになりたい!」
日菜には自転車を買い与えているが、それには補助輪が付いている。外すのは少し早い気もするが、負けん気が強い娘は、動画の少年に対抗意識を持ったのだろうか。
「お父さん、自転車の補助輪、外して!」
日菜から催促された。俺は少し考えてから、返答した。
「でも、大丈夫か?俺は小学校に入ってから外したぞ。」
「いいの。私は乗れるようになりたいの!だから、教えて。」
俺は決めかねたので、意見を求めて、紀子の方へ顔を向けた。そうすると、妻は迷っている様子で話した。
「あなたの体が大丈夫なら、いいと思うけど––––無理はして欲しくないわ。」
「ああ。そのくらいなら、問題ないと思うけど。」
俺は体調面で不安があったが、日常生活は問題なく行える状態だったので、娘を特訓することにした。俺が了承すると、紀子は日菜に話しかけた。
「でも、日菜。お父さんは、まだ万全じゃないから、あんまり長い時間はダメよ。」
「はーい。じゃあ、明日から教えてね、お父さん。幼稚園終わったら。」
「ああ。分かったよ。」
俺と日菜の練習が始まった。
翌日の昼過ぎに、俺と日菜は川沿いの広い道にいた。道に沿うように、まばらにタンポポが咲いている。そこは自宅から近い場所だが、自動車が通れない道で人通りも少ないため、練習するには適していた。尚、娘が支えている自転車の補助輪は、彼女が幼稚園にいる間に、俺が外しておいた。
「日菜、倒れそうになったら俺が受け止めるから、漕いでみろ。」
「うん。分かった。」
日菜が自転車を漕いでいる間、俺は娘の隣りを並走した。娘がフラフラと運転しているので、受けとめることを、今か今かと待ち構えた。日菜が怪我をしないか心配だったが、娘の真剣な顔を見ていると、嬉しい気分になった。
そんなことを、しばらく続けていたが、日菜が一人で運転できるには至らなかった。自分が同じことを練習したときも、一朝一夕にはいかなかった覚えがあったので、当然のことだと思った。俺は少し疲れが出てきたが、娘は元気そうだった。
「日菜。今日は、いつまで練習しようか?」
「できるようになるまで。」
「でも、一日で出来るようになるのは、難しいぞ。」
「そうなの?でも続ける。」
日菜がやる気を見せているので、練習を継続することにした。しかし、その後まもなく、小雨が降ってきた。今日は一日中晴れだったはずだが、予報が外れたのだろうか。
「日菜。雨が降ってきたから、今日はここまでだ。また晴れたら練習しよう。」
「うん、そうだね。」
俺と娘は、家に帰ることにした。俺は体力が落ちていたせいだろうか、少し息が上がっていた。
次の日は一日中雨だったので、自転車の練習は断念した。しかし、その翌日は晴れたので、日菜と練習することになった。一昨日と同じように、娘が運転する自転車を並走する。
「今日は、乗れるようになるの。」
練習を始めて二日目だったので、上手くいくとは思えなかったが、日菜は今日も気合が入っていた。
しかし、しばらく練習を続けても、思った通り上手くいかなかった。そこで、どうして乗れないのか考えてみた。ややあって、理にかなった考えがまとまったので、娘に提案した。
「日菜。補助輪を外して乗れるようになるには、一定の速度より速く進めないといけないんだ。だから、もう少し強く漕いでみよう––––それと、左右に体が傾くと、バランスが崩れて倒れるから気をつけるんだ。」
俺が娘にアドバイスすると、
「分かった!」
と言って、日菜は勢い良く漕ぎ始めた。
しかし、娘が漕ぎ始めたときに油断していたため、俺は置き去りにされてしまった。
「日菜、ちょっと待て!」
俺が声をかけたときには手遅れで、日菜の自転車が左に倒れかかった。
「危ない!」
俺が、そう言ったとき、左側から突風が吹いてきた。その強い風は、娘が倒れかかっていたのを停止させた。俺は急いで日菜の左側に回り込む。
「危なかったな––––大丈夫だったか?」
「うん。なんか今、空に浮いたみたいだったよ。すごーい。」
「ああ、そうだな。すごかったな。」
娘の言う通り、実際に俺も驚かされた。不自然な体勢で自転車が止まっていたからだ。そして、突風が吹いてきたときだが、若い男性の声で「危ねえ!」と聞こえた気がした。周囲を見回すが、俺と日菜以外は誰もいない。なんだか、不思議だった。
「お父さん、続きしよう。」
娘から催促されて、俺は不自然な出来事について考えることをやめた。
「ああ、じゃあ、もう少しだけやろうか。」
俺は日菜と練習を再開した。
それから、しばらく練習を続けると、雲が立ち込めていることに気がついた。辺りも暗くなっていたので、帰ることにした。腕時計を見ると、暗くなるには早い気がしたが、曇っているからだと思った。俺は、少し息が上がっていた。
8 社員教育(水谷耕一の視点)
俺が退院してから、二週間近く経過した。退院した当初と比べて、俺の体調も良くなっていた。もしかしたら、日菜の特訓に付き合うことが、良いリハビリになったのかもしれない。そして、今日も日菜の練習に付き合っていたが、娘は疲れたのだろうか、普段より早く眠りについていた。尚、妻は風呂に入っている。
俺は、特にすることもなかったので、リビングでインターネット動画でも見ようと思った。そうすると、動画サイトのおすすめに、「企業で先輩がしなければいけないこと」という動画が表示されていた。他に推奨されている動画に関しても、同じような内容ばかりが目立つ。それを見て、俺は違和感を感じた。
「日菜が子供向け番組ばかり見てるから、そういったジャンルが推奨されるはずなんだけどなあ。」
通常、動画サイトは、利用者が頻繁に見ている動画を参考にして、勧めてくるものだ。しかし、娘が好きそうな動画が勧められず、ビジネス系の動画ばかりが推奨されている。俺はおかしいと思ったが、考えても仕方ないことなので、その動画を視聴することにした。自分の体調が良くなってきて、仕事に復帰することを考え始めたため、業務に活かせる動画だと思ったからだ。
俺が動画を再生すると、機械音声で話しが始まった。
「企業で先輩がしなければいけないことは、いくつか考えられますが、今回は社員教育の必要性について話しをします––––社員教育をする場合、『自分の仕事が疎かになる』とか『技術的なことは見て覚えろ』などと考えている人は多くいます。しかし、それは本当に正しいと言えるのでしょうか––––。」
その動画は、二十分ほど続いた。それを最後まで視聴した後、俺は、とても考えさせられた。他人事とは思えなかったからだ。
俺が他人事と思えなかった理由は、動画で「先輩が後輩に進んで教育することで、部署全体の能力が向上する」という主張があったのだが、それについて、自分の職場で俺に落ち度があったと考えたからだ。俺は、部下である小杉と森さんが入社したときに、先輩として一通りの業務を教えている。しかし、それは最初だけで、その後は自分が結果を出すことしか考えていなかった。なぜなら、部署の成績を上げるためには、俺が契約を取ればいいと思っていたからだ。しかし、現在、俺は自宅療養している。おそらく、会社の所属部署は厳しい状況だろう。もし自分が彼らに契約を取るための深い技術まで教えていれば、こんな心配をする必要はなかった。また、小杉と森さんが頼れる存在となっていれば、俺が残業する時間も減らせたはずなので、そもそも自分は倒れることもなかったかもしれない。
しかし、問題点もある。それは、俺が部下の教育に注力した場合、自分の営業成績が低下することだ。その場合、俺の評価が下がるため、出世しづらくなるかもしれない。動画では、「企業側が社員教育の実施者を評価すべきだ」と説いていたが、俺が上層部に話したときに、彼らが了承してくれる保証はない。
とりあえず、会社に話しをする前に、妻に相談してみようと思った。
9 相談(水谷紀子の視点)
夕飯の支度をしていると、扉の開く音が聞こえた。夫と娘が帰ってきたのだろう。
「ただいま!」
二人が声を揃えて、帰宅の挨拶をしてきたが、何だか嬉しそうだ。
「お帰りなさい。どうしたの?何かいいことでもあったの?」
「ああ。日菜が補助輪無しで、自転車に乗れるようになったんだ!」
耕一は興奮気味に話した。
「え?本当に?日菜、良かったわね。」
夫の連絡を受けて、私は日菜に話しかけた。
「うん。すごいでしょ!」
「ええ、すごいわ。」
日菜が笑顔を見せた。
娘が眠りについてから、夫が話しかけてきた。
「明日は病院に行く日だけど、もし経過が良好だったら、仕事に復帰できるかもしれないな。」
「そうかもしれないわね。なんだか、顔色が良くなったように見えるし。」
「ああ。そうだな––––日菜の練習に付き合ったのが、いいリハビリになったのかもな。」
「そうかもね。でも、お医者さんに見てもらわないことにはね。」
「まあな。」
耕一が返事をしてから、少し間を置いて、今度は言いにくそうに夫が話しかけてきた。
「あのさ––––仕事のことなんだけど。」
「え?仕事のこと?」
「うん––––俺さ、今まで、自分が必死に働いて出世できれば、家族に良い思いをさせられると思っていたんだ––––でも、結果として、それが原因で病院に運ばれることになった。」
「そうね––––でも、それはあなただけの都合じゃなくて、会社側の都合だって関係あるでしょう?」
「そうだな。実際は、会社側のシステムにも問題があるんだと思う––––それで、この間、一人でネット動画を見ていたんだけど––––仕事のやり方を見直す、ヒントを見つけたんだ。」
「ヒント?」
「ああ。社員教育が主な内容だったんだけど––––それを見たら、自分の部下を、もっと成長させることが大事だと思ったんだ。そして、責任のある仕事を、もっと彼らに回せるようにする––––それができれば、俺の残業も少なくできると思ってさ。」
「うん。いいと思うけど、何か問題があるの?」
「ああ。それを進めた場合に、俺自身の営業成績が低下するかもしれないからさ––––つまり、出世しづらくなるってことだよ––––営業成績が下がったら、俺の評価も下がるんだ。」
私は、どうして耕一が言いづらそうにしていたのか理解した。夫の企業が、歩合給の割合を小さくしていることは知っていた。だから、私は、耕一が営業成績を伸ばしても、大して給料は変わらないものだと思っていた。しかし、耕一の言い分から察すると、営業成績が出世に関して重要な部分を占めているということなのだろう。
「そうだったのね。でも、気にすることはないわよ––––出世なんてしなくてもいいから、残業が少なくなるようにして。」
「いいのか?出世したら、けっこう給料も上がるはずだけど。」
「ええ、いいのよ。もう、こんな不安な気持ちになる方が嫌なの––––あなたが病院に運ばれてから、私、すごく後悔したわ!だから、もう頑張らなくていいから‥。」
「––––うん。」
「それとね、実は私の側でも考えていたことがあるの。」
「考えていたこと?」
「日菜が小学生になったら、私も働こうかなって考えてたの––––幼稚園よりは小学校の方が、留まっている時間も長くなるでしょ?––––午前中だけでも働ければ、少しは生活の足しにもなるし。」
「まあ、そうだな––––でも、いいのか?」
「ええ。私は、正直なところ、少しくらい働いている方がいいわ。だから、気にしないで。」
「うん。わかった––––ありがとう。」
「あなたが頑張って働いてくれたから、まだ生活に余裕があるのよ––––だから、私の方が感謝すべきなのよ––––ありがとうございました。」
私が頭を下げると、耕一はスッキリした顔をしていた。家族を大事にする人だから、自ら出世を遠ざけるような提案が言い出しづらかったのだろう。私は、夫が自分や娘に気遣っていたことを知り、申し訳ない気持ちになった。
「でも、これから早く帰ってこれるようになったら、日菜と遊んであげられるわね。」
私が、そう言うと、
「ああ。そうだな。」
耕一は、嬉しそうに笑った。本当は、倒れるよりも前から、そうなることを望んでいたのだろう。私は、療養中に娘の世話をする夫を見て、彼の本心を知ることができたのだ。
10 信頼(水谷耕一の視点)
医者から許可が下りたので、俺は、ようやく会社に復帰できることになった。久しぶりのスーツは、少し窮屈に感じたが、しみじみと感じるものがあった。
「皆さん、大変ご迷惑をおかけしましたが、本日から働けることになりました––––よろしくお願いします。」
俺は、朝礼で職場のメンバーに簡単な挨拶をした。
「水谷主任、本当に心配しましたよ––––もう無理しないでくださいね。」
小杉が俺に優しい言葉をかけてきた。
「本当に、戻ってきてくれて良かったよ––––君がいないと、ダメだな。」
中田課長が言った。なんだか、とても気持ちがこもっていた。そんなに業績が悪いのだろうか?
「皆さん、ありがとうございます。」
俺は、職場のメンバーに感謝した。
久しぶりの仕事だったので、午前中は、自社や所属部署の状況を確かめて、自分が担当していた取引先との進捗を確認する作業に追われた。自分が思っていた以上に営業実績が悪かったので、正直、心配になった。午後になってからは、自分が代行してもらった案件で、再び俺が対応できる仕事を確認して、そのための準備をした。このように、復帰初日は、ほとんど確認作業で終わった。
数日後、俺は中田課長から話しかけられた。
「いやー。水谷君、流石だね。大きい案件、もう契約決まったんだね。」
「はい。ありがとうございます。」
「でもね、実は、まだ売上が足りてないんだ。だから、もう少し頑張ってくれないか?」
俺は、職場に戻ってからは、あまり残業をしないようにしていた。おそらく、上司は、部署の成績を改善するために、俺を働かせようとしているのだろう。そのとき、
「何を言ってるんですか!それが病み上がりの人に言うことですか!」
小杉が椅子から立ち上がり、中田課長に怒鳴った。
「そうですよ。水谷主任だけしか結果が出せていないことに問題があるんですよ!それって、私達が頑張らなきゃいけないってことですよね!」
森さんも、中田課長に声を荒げた。
「お前達は、なんてこと言うんだ!水谷君に頑張ってもらわないと、この部署だって危ないんだぞ!」
「それじゃあ、また主任が倒れるだけでしょ––––。」
課長の怒声の後に、森さんが泣きそうに答えた。俺のことを心配して、勇気を振り絞ってくれたのだろう。俺は、彼らの話しに加わった。
「ちょっと、みんな落ち着いて欲しいんだ––––俺は、小杉や森さんに気を遣ってもらえたのは嬉しいけど、中田課長の立場も考えて欲しいんだよ––––実際、部署で結果が出せなければ、会社は危うくなるだろ?」
「そうだよ!結果が出せなければ、会社が危なくなるんだ––––少なくとも、私達の評価は悪くなるぞ!」
中田課長が俺の話に乗っかってきた。それを聞いて、小杉と森さんは課長を睨んだ。俺は少し気まずかったが、会社へ戻る前に妻と話し合ったことを切り出した。
「それで、実は、自宅療養中に仕事の改善案を考えていたんだ。仕事の引き継ぎが終わったら話そうと思ってたんだけど、ちょうど良い機会だから、今、話すよ。」
「仕事の改善案?」
小杉が相槌を打った。
「ああ。この間、俺は倒れてしまったけど、自分にも問題があったと思ったんだ––––それは、他のメンバーに仕事を任せてなかったこと。何でも自分でやろうとして、小杉や森さんに仕事を任せなかった––––それで、休暇中に、仕事のやり方について勉強していたんだけど、そのときに社員教育の重要性を学んだんだ。」
「いやいや、社員教育って、俺と森さん、もう新人じゃないんですよ。」
小杉は小さく笑った。
「そうだな。もう、新人ではないな。でもな、振り返ってみたら、俺は二人に、一通りの作業を教えた覚えはあるけど、深いところまでは話したことがなかったことに気づいたんだ––––具体的に言うと、基本的な資料の作り方や、取引先に対するマナーなんかは教えた。でも、契約を取るためのポイントなんかは話してないよな?––––まあ、もっとも、俺自身だって絶対に契約が取れるわけじゃないけどさ––––だから、もう二人は新人ではないかもしれないけど、契約を取る技術だけ再教育させて欲しいんだ。」
「なるほど。でも、いいんですか?教えても––––契約を取るためのポイントって、水谷主任にとって大切な情報ですよね?」
「ああ。この会社の前に働いていたところで、片岡さんって先輩がいたんだけど––––俺が営業成績を伸ばせるようになったきっかけは、その人の指導があったからなんだ––––それを考えると、俺は自分が教えてもらったことを、自分の後輩には教えてないことになるだろ?––––でも、もし、お前達の方が結果を出せるようになったときは、今度はお前達が俺にコツを教えてくれよ?」
俺は、小杉に対して答えると、中田課長に体を向けた。
「そういうわけで、これからは小杉や森さんに再教育する時間をください。二人が、たくさん契約を取ってこれるように、俺が指導します。」
「大丈夫なのか?」
中田課長は不安な顔をした。
「はい、大丈夫です。でも、結果が出るまでには、少し時間が必要だと思います。だから、それまでは大目に見てください。」
「––––わかった。」
課長は仕方なさそうに了承した。
話しが終わった後、部署のメンバーは冷静さを取り戻し、自分のデスクで作業を再開した。すると、小杉が小声で話しかけてきた。
「水谷主任、なんかカッコ良かったですよ。」
「いや、カッコ良くなんてないさ。実際、俺にも落ち度はあったんだ––––でも、ありがとうな。熱い言葉。森さんもだけど。」
「いいんですよ。でも、俺達も結果が出せるように、ご指導お願いしますね。」
「ああ。元々、二人は仕事に対して真面目だから、きっと上手くいくよ––––信頼してるからな!」
「はい。」
小杉は嬉しそうに答えた。
それから、俺は、小杉や森さんと営業について話し合うようになり、場合によっては自分の取引先にも同行させた。そして、自分が想定していたよりも早く、二人は大きい契約を取れるようになり、成約率も向上させることができた。その姿を見て、
「自分が教えた部下の成長を見るのも、悪くないな。」
と思った。
ある日、いつも通り仕事をしていると、小杉が話しかけてきた。
「水谷主任、何だか嬉しそうな顔してますね?」
「ああ。今度、妻と娘を連れて、富士山の近くにある公園へ行くことになってるんだ。綺麗な花がたくさん咲いているらしくてさ。」
「へえ。いいですね。奥さんと娘さん、喜びますよ。」
「ああ、そうだな。でも、こういう時間が作れるようになったのも、お前と森さんが成長してくれたからだよ。ありがとうな。」
「そんなことないですよ。感謝したいのは、こちらの方です––––じゃあ、楽しんできてくださいね。」
「ああ。」
俺は、職場環境が改善されたことで、家族との時間を作れるようになっていた。そのため、久しぶりに家族で観光へ行くこともできるようになった。何はともあれ、仕事と家族を両立できるようになったことは、本当に良かった。
11 幸福
耕一は、紀子と日菜を連れて、目的地である公園へやってきた。周辺は、建物が少なく、草木や畑の方が目立つ。また、遠方には山々を確認することができた。都会暮らしの三人にとっては、普段見慣れない景色であった。
三人が、駐車場に車を置いて、公園の入口に向かうと、その入口は畑を跨いだ橋のようになっていた。その橋を渡っていると、
「見て。富士山が見えるわよ。」
と、紀子が言った。彼らの左側には、頂上付近が白くなった富士山を確認できる。耕一は、日菜がそれを眺めている様子を見て、彼女に話しかけた。
「日菜、あれが日本で一番高い山なんだ––––知ってるか?富士山って言うんだぞ。」
「富士山?私、知らなかった。」
「そうか。てっぺんが白くなってるのは、高いところが寒いからなんだ––––白くなってる部分は、雪なんだぞ。」
「ふーん。そうなんだ。富士山って寒いんだね。」
「ああ。そうだな。」
三人は、そんな会話をしながら、橋を渡り切った先にある建物内へ入った。
建物は、非常に大きなビニールハウスのような形状をしていたが、素材に鉄筋やコンクリートが使用されているため、とても頑強に見えた。また、内部は、花壇と数えきれないほどの植木鉢が並んでいて、色とりどりの花を見ることができた。
「この花、赤い色をして綺麗だね。お母さん、なんて名前か分かる?」
「え?私も分からないわ––––あら?でも、そこに名前が書いてあるわよ。」
「ああ、本当だ!––––でも、あっちの紫のやつも綺麗。」
日菜は別の花に向けて走り出した。
「そんなに、急がなくても大丈夫よ。花は逃げないから。」
紀子は、忙しない日菜を制した。耕一と紀子が思っていたよりも、日菜は花に興味があるように見えた。それから、彼女は、南国が原産ではないかと思えるヤシ科の植物や、普段の生活空間では見られないような奇抜な色をした花にも、関心を持った。それを見て、耕一は、
「俺も、こんな時期があったなあ。」
と、思った。耕一は過去を振り返ってみると、小さいときに図鑑を開いて勉強した覚えがあったからだ。
その後、建物内の花を一通り観覧して、三人はビニールハウスのような建物を後にした。ちょうど昼時に入っていたので、すぐ近くに設置されている飲食店で昼食を取ることにした。飲食施設は、日本風の内外装をしており、山梨県の郷土料理も取り扱っているようだった。
「この、『ほうとう』って言う料理は、この辺りで特有の料理なんだ。俺が頼むから、二人とも味見してみろよ。」
耕一は、その料理を注文した。紀子と日菜も、それぞれ好きなものを頼んだ。しばらくして、注文した料理が届くと、耕一は二人に味見をさせた。すると、日菜が感想を言った。
「お餅みたいで美味しい。」
「そうだな。まあ、もち米じゃなくて小麦粉を使ってるんだけど、美味しいだろ?でも、俺も久しぶりに食べるなあ。」
耕一が日菜に話しかけた後に、今度は、紀子が耕一に話しかけた。
「私達が結婚する前にも、どこかで食べたわよね?」
「ああ。そうだったな。ずいぶん前のことだけど、覚えているよ。」
耕一が答えると、紀子は微笑を浮かべた。耕一が二人の思い出を覚えていたので、紀子は嬉しかったのだろう。
食事を終えてから、三人は店内で少しのんびりした。それから、飲食店を後にして、しばらく歩くと、子供向けの遊具が並んでいる場所を見つけた。三人が住んでいる近辺の公園よりも、はるかに大掛かりなものだ。そこでは、多くの子供達が遊んでいた。耕一は、それを見て、日菜に尋ねた。
「あそこで少し遊んでいくか?」
「うん。」
「じゃあ、行くか。」
耕一が、そう言うと、紀子が彼に話しかけた。
「私は、そこのベンチに座ってるから、二人で行ってくるといいわ。」
「じゃあ、しばらくしたら、戻ってくるよ。」
耕一は紀子に約束すると、日菜の手を取って、遊具へ向かった。二人が、大きな滑り台から降りる姿や、手を使って遊具に登る様子を、紀子はのんびり眺めていた。しかし、ややあって、バッグからビデオカメラを取り出し、二人の様子を撮影し始めた。紀子が撮り始めてから、まもなく、耕一と日菜が手を振ってきた。紀子は、それを見て優しく笑った。
日菜が満足するまで遊具で遊んだ後、三人は滝を見ることができる場所へ移動した。滝は二箇所に存在していた。一箇所目は、小さいが特徴的な形をしていて、水が階段のようになった大岩を二回に分けて流れていた。そして、二箇所目は、糸のように細い流水が左右に広い範囲を流れていた。
「水が、いっぱい流れてるよ!」
二箇所目の方が、滝の規模が大きいからだろうか、日菜は、そちらに関心を示した。
滝を見た後、三人は、広い花畑を見ることができる場所へ向かった。その途中で、最初に入ったビニールハウスのような建物に入り、アイスクリームを買って休憩した。
「これ、とっても美味しい!」
日菜は、「こんなに美味しいものは初めて」だと言わんばかりだった。実際に、なめらかな味わいがするように作られていたが、開放的な場所で食べているから、余計に美味しく感じられたのだろう。
休憩を終えてから、三人は目的地である花畑へ到着した。そこは、都会では見られないほど、広大な広さを持っていた。それは、同じ花がまとまっている部分だけでも、一面に広がるほどであった。
「ねえ、あの黄色い花は何て名前なの?」
耕一は日菜から尋ねられて、スマートフォンで調べた。
「キカラシって名前のようだな。」
「へえ、キカラシって言うんだ。」
その花は、明るくて黄色い花弁を持ち、茎や葉の部分は黄緑色をしているので、一見すると菜の花に見えた。日菜は花びらに触れて観察していたが、やがて両親の下へ戻ったので、三人は先へ進むことにした。それから、しばらく歩くと、今度は赤色の花が密集している花畑に出くわした。
「これは、何て名前なの?」
耕一は日菜から再度聞かれて、調べ始めた。
「これは、ポピーという名前みたいだ。」
「そうなんだ。」
「さっきの黄色い花と、どちらが好きだ?」
「うーんとね。黄色いの!」
「そうか。日菜は黄色いのが好きか。お母さんは、どっちが良い?」
「私は、こっちの方が好きだわ。」
「そうか。俺は––––どっちがいいかな?」
「人に聞く前に、考えておきなさいよ!」
紀子は呆気にとられたが、すぐに笑顔を見せた。三人は、そんな風に談笑しながら、その先へ進んだ。その後、オレンジ色をした花の区画、青い花の区画と、様々な花を観察した。彼らが住んでいる場所でも、同じように鮮やかな花が植えられている花壇などは存在する。しかし、これだけの広い場所で眺めることはできないので、貴重な経験だと言えた。おおかた見終わり、耕一は腕時計に目を落とした。
「そろそろ、帰ろうか?」
耕一が紀子と日菜に話しかけた。
「そうね。一通り見終わったし、そろそろ帰りましょう。」
紀子が答えると、日菜が花畑の一角に指を差した。
「あそこにある花、まだ見てないよ。あの白いやつ。」
日菜が指を差す方向へ、二人が視線を向けると、白い花畑が広がっていた。赤や黄色のような目立つ色をしていないので、見落としていたのだろう。
「じゃあ、あそこだけ見ていこうか。」
耕一は紀子と日菜に話しかけた。三人は、その場所へ向かった。白い花畑にたどり着くと、日菜はしゃがんで観察を始めた。しばらくすると、
「私、この花が一番好きかも。」
と、口に出した。それを聞いて、耕一が尋ねる。
「あれ?もっと派手な色の花じゃなくていいのか?」
「うん。だって、この花、宝石みたいで綺麗なんだもん。」
「宝石?」
耕一も、日菜の隣りで観察すると、無数の枝先にダイヤモンドが散りばめられているように見えた。
「ああ、そうだな––––さっきまで見ていた花の方が遠目には目立つけど、この花は近くで見ると、茎や葉も含めて繊細な美しさがあるなあ––––あっ!難しい言い方をしたら、日菜には分からないか?」
「うん。」
日菜が返答するのを見て、紀子はクスクスと笑った。それから、耕一に話しかけた。
「遠くから離れて見ると、目立たないかもしれないけど、綺麗なことには違いないわよ。真っ白い雪が積もってるように見えるもの。」
紀子は二人よりも後ろに立っていたが、それを聞いた二人は立ち上がり、紀子の隣りまで移動した。そうすると、紀子が言う通り、二人は雪が積もったような、ふんわりした光景を見ることができた。
「本当だ。」
日菜が答えた。耕一は、日菜が『宝石みたいで綺麗』と言った見方と、紀子が『真っ白い雪が積もってるように』と言った見方を理解できて、嬉しい気持ちになった。それは、娘や妻と、今までより心の距離感が近づいた気がしたからだった。
その後、三人は、自宅に帰るため、駐車場へ向かった。その途中、耕一は感傷的な気持ちになった。それは、
「もっと早く職場環境が改善されていれば、今日のような家族との時間を多く経験できたのにな––––。」
と、後悔したからだった。しかし、まもなく、耕一の心から哀しさは消失した。なぜなら、
「でも、これからは紀子と一緒に、日菜の成長を見守っていける。」
と、思い直したからであった。
耕一は、自家用車の前に、アスファルトの隙間から咲く白い花を見つけた。それは、公園で最後に観察したものと同じ花だった。
12 偶然
ライジングフォーチュンの作業場では、各メンバーが大型モニターを見ていた。ハヤテが全員に向けて話す。
「上手くいったが、あのおっさんに何度も怪しまれたな。」
「そうだね。ああいう論理的に考えられる人は、ちょっとした違いに敏感だからね。」
キラボシが答えた。二人が、こう話す理由は、水谷耕一が彼らの調整に対して、何度か違和感を感じていたからだ。
「私、みんなに助言する立場なのに、不覚だわ。」
タソガレは、がっくりと肩を落とした。それを見て、何人かのメンバーが苦笑いをした。ミナモがタソガレに話しかける。
「とりあえず、ハヤテが自転車から転倒しそうな水谷日菜ちゃんを、風で受け止めたこと––––子供向け動画が多く推奨されるはずなのに、ビジネス系動画が目立っていたところには気づいていましたね。」
「ええ。社員教育に関する動画を見せる必要があったとはいえ、もう少し段階的に誘導すべきだったわ。でも、想定していたよりも彼の回復が早かったから、どうしても復帰前に見せたかったのよ。」
「まあ、そうですね。そうしないと、間に合わなかったかもしれませんね。」
「ええ。」
「それを言ったら、俺だって仕方なかったんだよ!ああしないと、怪我してたかもしれないだろ?」
ハヤテが話に割って入った。実際は、子供用自転車から転倒しても、大した怪我なんてするものではないが、ハヤテは意外と心配性なのである。
「別に、ハヤテや先生を批判しているわけじゃないわよ––––でも、今後、改善するために、はっきりさせておくべきでしょ?」
「––––まあな。」
彼らは、今回の件で上手くいかなかった部分を反省した。しかし、全体的に見れば都合良く進んだので、満足はしていた。
本件でライジングフォーチュンの目的は三つあった。これから、それぞれのネタバレをする。
一つ目は水谷耕一の体を回復させることだったが、今回はミナモが担当していた。彼女は液体の成分を調整することができるので、耕一が打たれていた点滴の成分を変更したのである。そのため、医者が、想定より回復が速いことに驚いていたのである。尚、詳しい成分は、神のみぞ知ることである。
二つ目は、耕一に彼の本心を自覚させることであった。まず、タソガレが動画サイトをハッキングして、水谷日菜に「子供が父親と自転車の練習をする」動画を見せた。それにより、日菜はそれに興味を持つようになった。それを要因にして、耕一と日菜が自転車の練習をするようになるが、それをハヤテとキラボシに見守らせた。耕一のリハビリも兼ねていたので、彼が無理しないように天候や空の明るさを調整して、練習時間を少しずつ長くしていったのだ。
三つ目は耕一の職場環境を改善させることだった。タソガレがビジネス関係の動画を確認して、その中で社員教育の動画が業務改善に適当だと考えたので、彼に勧めるように調整した。耕一に、彼の社員教育で足りていない部分があったことを自覚させ、復帰してから穴埋めさせたのだ。当然、耕一のチームが成長することで、彼の残業が減ることは考慮されていた。
「でも、今回は、複数の人達が幸せになれたみたいで良かったね。」
サクラがミナモに話しかけた。
「そうね。実質、水谷耕一以外に、その奥さんと娘さん、部下の二人も幸せになってるからね。」
ミナモが言う通り、紀子と日菜も耕一との時間を作れるようになっているし、部下である小杉と森は職場での立場が良くなった。
「ところでね。水谷耕一さん達は最後に、お花畑が広がった公園に行ったよね?––––私、事前にそれを知って張り切ってたんだけど、なんだか偶然が重なって驚いちゃった。」
「偶然?」
「うん。水谷日菜ちゃんが気に入ってたキカラシって花は、花言葉が『チャレンジと成長』だけど、ちょうど彼女は自転車に乗れるようになったでしょ?––––そして、水谷紀子さんはポピーが気に入っていたけど、花言葉は『感謝』で、倒れるまで頑張った旦那さんに『ありがとう』って感謝してたでしょ?––––最後に家族全員で好きになったカスミソウの花言葉は『幸福』で、みんな幸せになったでしょ?」
「––––サクラが計算したんじゃないの?」
ミナモが不思議そうな顔をした。
「開花時期は少し調整したけど、人の好みまでは変えられないよ。」
「そう––––でも、なんだか素敵な偶然ね。」
「うん。そうだね。」
サクラが答えると、二人は微笑を浮かべた。
シキがアースガルズ内の自室でモニターを見ていると、扉をノックする音がして、まもなくタソガレが入ってきた。
「失礼します。」
「おお、お疲れ様。上手く進んで良かったね。」
「はい。少々、心残りはありますが。」
「まあ、首尾一貫して順調に進むことの方が稀だよ。」
「そうですね––––ところで、今回はお手伝いありがとうございました。」
「ああ、構わないよ。タソガレ君に時間がなさそうだったからね。」
シキは、水谷耕一が視聴した社員教育の動画を作成していた。最初は、タソガレが人間の作った動画を選別していたのだが、水谷耕一の学習時間を短くするために、シキが必要情報だけをまとめた動画を作ったのだ。尚、タソガレは、水谷耕一がシキの動画を見るように動画サイトを操作している。
「ところで、今回は、いつもより多くの人が幸せになれて良かったねえ。」
シキが感想を言った。
「ええ。そうですね。思いやりのある人が多いと巻き込みやすくていいです。もっとも、そういう人達を巻き込むのは、彼らにデメリットが無い場合ですけど。」
「そうだね。迷惑はかけられないからね。」
「でも、水谷耕一の上司だけは、考えを改めて欲しいと思いました––––会社のためとはいえ、仕事のできる部下だけを長時間残業させるなんて良くありませんよ。」
「まあね。でも、彼も反省したみたいだよ。社内環境が改善されて、部署の売上も回復したら、自分の部下達に謝罪していたよ––––それにね、水谷耕一の社員教育を会社側が評価してくれるように、上層部に提案しているみたいだね。」
「え?そうなんですか?」
「気になるなら、後で確認するといいよ––––まあ、実際のところ、彼も悪い人間ではなかったってことさ。」
「はあ––––。」
タソガレは、シキと比べて、自分の視野が狭いように感じた。
「何にせよ、タソガレ君も疲れているんだろうから、もう帰るといいよ。」
「はい。最高神は帰らないのですか?」
「ああ。もう少しやる事があってね––––まあ、動画作成なんだけど。」
「そうですか––––されるのは勝手ですが、本業を疎かにしないでくださいね?」
「お?言うねえ。まあ、心配しなくても大丈夫さ。」
「はい。では、失礼します。」
「お疲れ様。」
こうして、今回もライジングフォーチュンは人間の救済を成功させ、一件落着した。余談だが、シキの作った社員教育に関する動画が、投稿した動画サイトで月間一位の視聴数を記録した。水谷耕一のために動画を作ったわけだが、結果として、アースガルズ最高神であるシキは、地上で有名動画配信者の仲間入りをしたのだった。
(完)
作者は、水谷耕一ほどストイックに働いた覚えはありません。しかし、規定時間働いた後に長時間残業したり、業務時間外に勉強しなければいけないことはありました。これは、読んでいただいた皆さんの中でも、多くの人達が経験したことがあるのではないでしょうか?
本作を読んで、多くの人や企業が無謀な働き方を改善してくれると良いです。




