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聖女の庭

作者: 遠田


 市井で流行りの物語のごとく、下女との婚約など元より望んではおらぬ、なにが定めだ、なにが国のためだ、平民のように名しか持たぬ下女と誰が婚姻を結ぶか、そう声高に婚約破棄を告げたのは広大な地を治める皇国レグヌムの皇太子フィリウスだった。それを真正面から聞いたのは婚約破棄を突きつけられた当事者である皇国に隣する宗教国家の姫巫女シビラとその背後に控える純白の見目のオルサ、漆黒の見目のフィーニス、そして皇太子に添って立つ令嬢だ。

 城内の祭壇室に呼び出され、五人が揃ったところで扉を閉められたと思いきやこの三文芝居が突如として始まったのだ。

 宗教国家に属するものが必ずつけなければならない灰色の目隠しの布の下でデービスグレイの瞳を揺らしたシビラは皇太子の横に立つ同盟国からの来賓である公爵家の令嬢に目を向けた。貴族の娘とあって表情からはなにも読み取れないが僅かながらに感じられる嘲りは目にあった。気づいてしまえばあからさまに蔑んでいる。シビラが口を開こうとくちびるを震わせたところで背後からあからさまな嘲りを雑ぜた笑いをもらすものがいた。漆黒のフィーニスだ。くつくつと笑むにあわせて闇のように深い黒髪が揺れている。

「愚かな、これは未来永劫違うことの許されない定め、建国よりの約束なのですよ」

 純白のオルサがフィーニスの言葉に同意するように目を伏せた。そのふたりにフィリウスは薄気味の悪い女どもめと吐き捨てた。シビラに付いているふたりに目隠しの布はなく、眼球すら特別な色をしているふたりは気味が悪いほど落ち着いている。

 フィリウスとて皇太子として生きてきているのだから定めが生まれ落ちたときより己に課せられたものだということはわかっている。定め、皇国レグヌムを継ぐ者は宗教国家レギリオから巫女を皇妃として迎えなければならないという決まりのことだ。次期皇帝となるフィリウスは宗教国家レギリオの巫女であるシビラを娶らなければならず、現皇帝の皇妃も宗教国家の巫女であった、前皇帝も、それ以前の皇帝も、何代にもわたり皇国レグヌムが建国されたときより制定されたなによりも古い定めごとであった。

「姫巫女を娶らなわばこの国は終いだがそれは承知のことかな。レギリオは姫巫女のおらぬ国など加護はせん」

 その定めのために姫巫女シビラは漆黒のフィーニス、純白のオルサを伴い皇国レグヌムに幼い時分から入国し、皇妃となるための教育も受けていて時期皇妃としての資質は申し分ない。しかしフィリウスはその定めが疎ましくて仕方がなかった。普段は修道女と同じ服装を纏う姫巫女シビラも、それに伴うふたりも、心底忌ま忌ましくて仕方がない。すでに存在に怒りしか持てないのだ。

「構うものか、そのような下女に頼らずとも王国コテリオのアゼーナ・ブルテーツォ侯爵令嬢が我が国の新たな聖女となるのだからな」

「聖女」

 片眉をあげたフィーニスの声音は未だ嘲りを含んでいる。

「コテリオと言えば脅威から最も遠い彼の地だろう。そのような地の聖女がわれらの愛する姫巫女よりも上等だと言うのかな、まさかそれがこの皇国を守護するだけの器と思っているのか皇太子よ」

「ブルテーツォ侯爵令嬢……いや聖女アゼーナは王国コテリオの国王を救った希代の聖女、ありがたくも我が皇国の姫巫女との交流を希望されていたが、会ってひと目でその姫巫女シビラはただの飾りものであると告げられた。たしかに宗教国家レギリオ随一の姫巫女ではあるのだろうがその能力は未だ発揮されてはいない。母……皇妃も毎日祈りを捧げているようだが、一体なにを祈るのか。そもそも皇妃は巫女の器だったのかすら疑わしい点がある。あのような祈りなどなくとも皇国に脅威は元よりいかなる不安もないと言うのに」

 皇太子の言葉の端端に侯爵令嬢を優遇する感情が乗せられている。シビラは視線を地に落とし、言葉を失くした。

 脅威──皇国レグヌム建国前の遥かな昔、この地は呪われた地と呼ばれていた。ところどころ崩れている城壁をウルティカという毒を持つ棘の茎が長く伸びて人の侵入を拒み、何度焼き払ってもすぐに伸びるウルティカに覆われた大地には誰も近寄ることさえできない捨て去られた土地となっていた。

 長く生けるもののない大地だったそこに逃げ込んだのは近隣王国の第二王子だった。あまりにも優秀だったことで第一王子に疎まれて重ねて行われる暗殺より命からがら逃げた先が王子らの曽祖父の代に王国が侵略した国の成れの果ての呪われた地だった。侵入をすれば死に至る地に逃げ込まれては追手もそれ以上追うことはできず、外からひと月を超えて見張ったのちに逃げ出す人影がなかったことで死亡が認定された。

 しかし長らく死亡したと思われていた第二王子が蔓延るウルティカの死の脅威に打ち勝ち、やがてその地を拠点とし立ち上がった。第二王子は神の力を得たのだと言う。彼はその力で脅威すらも手中に収め、王国を討ち滅ぼして今の広大なる皇国レグヌムを建国した。初代レグヌム皇帝の誕生である。占領地には神の力で城壁が建ち、ウルティカがそれを覆った。城壁のみを覆うウルティカは外敵の侵入を拒む最大の盾となって今日までレグヌムを守護している。

 脅威と呼ばれたウルティカの蔦が城壁周辺にのみ蔓延るようになったのは宗教国家より遣わされた巫女の祈りによるものだと伝えられている。そしてウルティカは意志を持つように皇国レグヌムに仇なす国があればその蔦を伸ばしていく。かつてレグヌムに攻め入ろうとした国に突如ウルティカが出現し、見る間に国を民を飲み込んでいったという。そこは新たな捨てられた地となり脅威となった。全ての命を奪うといわれるウルティカを制しているのは皇国レグヌムのみである。

「聖女アゼーナはウルティカの脅威に打ち勝つことができると断言し、わたしはその言葉を信じるに足ると判断した」

「判断はどのようになされたのかな」

 フィーニスの問いかけにフィリウスは馬鹿馬鹿しいと首を振るった。わたしが信じると言っているのだ、と言葉を重ねるフィリウスにアゼーナは満足げに笑みを濃くしたが、さんにんは逆に押し黙った。沈黙は長くは続かず、口火を切ったのは純白のオルサだった。約束は守られないのですね、オルサの言葉はいやに強く響く。

「そもそもその定めとは誰が決めたのでしょうか」

「貴様に発言を許してはいない、黙っていろ」

 フィーニスが強くアゼーナの発言を断じた、黒ぐろとした瞳が射殺さんばかりにアゼーナを写しているが意識は遠いむかしを彷徨いはじめた。あのときと同じだ、フィーニスの声音はひどくざらついている。あのとき、遠い遠いむかし、すべてを呪ったあのときと。


 皇国レグヌムが建国される以前にあった名すら呪われたと言われる国には神に愛されし聖女がいた。穏やかな国民性に肥沃な大地、他国との関係も良く恵まれた王国は末永く続くはずだった。

 聖女の住まう教会はその日も笑顔に満ち溢れ、身寄りのなくなった子どもたちや修道女が朝の祈りを捧げ終わり、食事をはじめていた。賑やかしい子どもたちの世話をする聖女を愛さない人間などいなかった。近くの大聖堂からの司教が彼女を聖女だと告げてからも彼女は生活を違えることはなく、少しばかりお転婆だったがそれまで以上に神に仕えるようになった聖女という称号にふさわしい女性だった。その働きものでもある彼女がよく晴れた日の庭でシーツを干しているそのときに染みのような汚れがまだ誰にも知られないうちに王国に落ちた。やがて王国を共に支える王妃となる女が迎えられた日である。優しさに満ちあふれた王国はその王妃が来たことによって変えられていった。新しい国王は王妃の言いなりとなり、貴族といえども市井の民とはそれほど身分差は強くなく平等であった行き来はなくなり歴然とした違いを示すようになった。目に見えて貧富の差が開いていき、知らぬうちにどうしようもない格差によって迫害される民が生まれて国は滅びへの道を歩みはじめた。他国へ移住していくものが増えはじめたあるときに、聖女は王宮へと拉致同然に連れて行かれた。かろうじてひとりの付き添い人が許されたが聖女としての扱いはされずに朝夕の祈りのときだけ外に出される軟禁生活だった。

 王妃の苦言と提言によるものだということは兵士の会話から知れた。

「どうしてあなたのような聖なる方がこんな岩肌の半地下に押し込められなければならないのですか。神はこのような試練を与えるほどあなたの信心をお疑いになっているのですか、でしたら神が間違っているのです、わたくしが今からでも神を断じてみせますのに!」

「まあ、神のお姿が見えるの? 聖女と呼ばれてもわたしには見えないのに」

 聖女はこのような劣悪な環境に身を置かれても優しさを、気位を失わなかった。付き人の言葉に笑い、食事を差し入れに来る城付きの下女や兵士にも丁寧に接した。わずかに差し込む光にすら感謝して、神への敬愛を失わなかった。付き人の心が悪心に囚われなかったのは聖女のおかげだったと思っている。日が経つごとに食事を運ぶ仕事が取り合いになっているのだとこっそり知らされるほど、彼女はまごうことなき聖女であった。

 神に祈り、王国の行く末がより良いものであるように祈った。もう王国が終わるのは明らかであったのに。

「聖女さま、お願いでございます、明日には戦わねばならぬわたしに勇気をお与えください」

 食事を運んできた兵士の手は震えていた。半地下の部屋にも遠く戦のけはいが届くほどに外は戦禍にあった。王妃が領土を無理に広げようとしていることはすでに半地下の部屋にまで届くほど知られていた。王妃の故郷でもある国はすでにこの国を見放したらしいことも。聖女の顔は苦痛に歪んでいた。そんなことを祈るために言葉があるのではない、そういう言葉を飲み込んで精一杯の笑みを浮かべた。ゴツゴツとした手をそっと握って祈り、あなたが無事に戻られますようにと静かに告げる。兵士はその優しい言葉に涙し、わたしはあなたを守るために戦います、とその場を辞した。

「どうして……わたしにはなにもできないの、そんな勇気必要なものですか!」

 聖女は声を荒げて泣いた。わあわあと頑是なく泣く聖女を付き人は抱きしめることしかできなかった。代われるものなら代わりたかった。

 その兵士は戻らなかった。けれども勇敢であったという。それからというもの聖女に祈ってほしいと兵士は訪れた。心を削られながら、なにもできないと嘆きながら、聖女は祈りを捧げる。兵士たちは感謝を伝えるために残っている花を手折って持ってきた。それもやがてなくなり、地上は焦土と化しているのだと悟るには容易かった。遠い戦禍のけはいはすでに王国内にまで迫っていた。

 それは突然だった。ある朝、それまでとは違う鎧に身を包んだ兵士が訪れて聖女を引きずり出したのは。

「聖女さま! なにごとです、乱暴はやめなさい!」

「黙れ!」

 手を伸ばした付き人はその言葉と同時に肩口から斜めに斬られた。散る血の向こうに聖女の驚愕の表情が見える。それから劈く悲鳴に付き人は言葉もなくその場に臥した。聖女が名を呼ぶが兵士の力には敵わずに連れて行かれる。待て、待って、そのひとをどうするつもりだ、焼けるような痛みに声もない、即死のけがとならなかったのは手前に聖女がいて踏み込みが浅くなったおかげだった。痛い、なにが起きた、なぜ斬られた、聖女はどこだ、恐怖と怒りの入り混じった感情でどうにか床を這う。石畳につめを立てて進むけれども気の遠くなるような痛みで遅遅と進まない。

 神さま、付き人は初めて彼女の意志で神に祈った。死んでもいい、この身などいらない、彼女を助けてください、あなたの愛した聖女を助けて!

 意識を失っていた付き人の耳にもの音が届いたのはそれからどれほど後だったのか知れない。乱雑な足音が幾重にも重なり近づいてくる。

「聖女といえどもただの女か」

「女ですらない、臓腑の詰まった袋だな」

 付き人の耳に届いた言葉は声音はこの世のものとは思えないほどに醜悪だった。扉の開く音に続いて投げ捨てられる重たい音、霞む目の先に転がったのはめちゃくちゃにされた首のない胴体だった。続いて転がってくる頭は石壁にぶつかり止まった。もうフィーニスとは呼んでくれなくなった聖女オルサの頭だった。


 そこでフィーニスは狂ったのだという。悪しきものに心を売り渡さんとばかりにすべてを憎み、憎しみは脅威を産んだ。すべてを殺すウルティカがフィーニスの憎しみを養分として国を覆い、言葉にならないほどの痛みと苦しみを与えて、聖女の亡骸だけを守った。聖女を弔う花を咲かせて、誰にも邪魔させないまま蔓延り続けた。


 もう意識のないようなフィーニスに声が届いたのはその花が何万回と咲いたときだった。蔦の色と変わらない花を弱弱しい声で誰かが褒めたのだ。最後にうつくしい花を見られてよかった、そう呟く声にフィーニスの意識はふっと浮上した。花は聖女の、彼女の愛する聖女オルサのための花だった、うつくしくて当然なのだ。

 その場にいたのは見知らぬ男だった。フィーニスは男に焦点を合わせて起き上がり、聖女のための花よと言葉を発した。男は驚き身じろいでから、ああ、と息を吐いた。だからうつくしいのか、と。

「……おまえ死にかけているの」

 蔦の棘で足はズタズタになっていた、痛みも相当だろう、毒のせいで息も整わないでいる。あたりを見まわすと半地下の部屋は天井がなくなっていた。蔦は鳥籠のようにフィーニスの目の前を守っている。

「大切な場所なのか」

「そうよ、大切なひとがいたの」

「……優しげだ」

 不意に男がフィーニスの後ろを見て言った。そのことに気づいてフィーニスは立ち上がった。ぶちぶちと蔦が動きにあわせて千切れる、死にかけた男の視線の場所、フィーニスの後ろには泣くオルサの姿があった。

「嬉しい、やっと気づいてくれた、」

「聖女さま、オルサさま、ああ……ああ本当にあなたなの」

 フィーニスは次つぎに溢れ出る涙をどうにか拭った。滲む視界にオルサの困ったような顔がある。もっときちんと見たいのに、目の前にいると確認したいのに涙は止まらない。

「ずっと、ずっとずっとずうっとよ、フィーニスの名前を呼んでいたのに全然気づいてくれないから、もう嫌いになっちゃうところだった」

 つんとくちびるを尖らせて拗ねるように言ってから、彼を助けてあげて、とオルサが告げた。足元には瀕死の男が転がっている。

 助けると言っても……フィーニスにはどうしたらいいのかがわからない。彼女は聖女の付き人ではあったが、ただの平民なのだから。オルサの存在に気づかせてくれた男を助けたいけれど、そう思いながら男に手を伸ばすと足に絡むウルティカが緩んだ。驚いてオルサを見れば、にこりと笑って大丈夫よとオルサも男のそばにしゃがみ込む。

「このひとが憎いんじゃないでしょう? じゃあ大丈夫よ、フィーニスが願えばいいだけなの」

 言われるがままに男が助かるように願えばウルティカは男から離れて、そっと触れた先から体温が戻っていく。乱れた息が落ち着くのに時間はかからなかった。フィーニスの神をも呪う気持ちが生んだウルティカは彼女の心ひとつで土地を覆うことも毒でひとを殺めることも、花を咲かせることもできた。蔦と同じ色をした花にオルサは喜んで触れる。

「神さまを恨んだわ」

 ぼつりとオルサが呟く。うつくしいオルサから紡がれた言葉がはじめは理解できなかった。男はまだ意識を失ったままだったので、その横にふたりでしゃがみ込む。花が触れられることを喜ぶように揺れて、その揺れが止まるころにもう一度呟かれる。恨んだの。

「あなたが斬られたところでそれまで以上に祈ったわ、わたしってあんなに欲深かったのね、平和を願うことより兵士の方がたが戻られることよりも強くフィーニスが死なないことを神さまに願ったの」

 膝の上に顎を乗せていたオルサは幼げに顔を隠した。こつこつと膝に額を当てて、聖女にふさわしくないことだわと拗ねた声を出す。その様子があまりにかわいらしくてフィーニスが笑うと、オルサはつられるように小さく笑ってから顔をぐしゃりと壊した。ぼろりと涙が溢れたのを見てフィーニスが慌てると、ごめんね、と涙ながらに謝罪の言葉が向けられる。なにをだろう、なにがだろう、今フィーニスには喜びしかないのに。戸惑いが声になる前にオルサが言う、つらい思いをさせてごめんなさい。つらい思いとはなんだろう、その思いは今すでに飛散した、オルサがいる、目の前にいる、そのことでつらい思いなんてもうなにもない。卑しくもオルサの存在だけがフィーニスの喜びだったからだ。

「痛かったでしょう、助かってほしいと願ってしまったから長く苦しんだの、ひとりぼっちで狂うこともなかったのに、──神さまを恨んだ以上にわたし自身を恨んだわ、神さまのせいじゃない、わたしのせいなの。わたしはあなたに逃げて欲しかったの、生きて欲しかった、幸せになって欲しかったのにどうして神さまはこんなひどいことをなさるのって恨んでしまったわ、死ぬ間際までわたしは間違えてしまってあなたをずっと苦しませたのよ。ひとりぼっちで苦しませて、」

「恨むだなんて。願ってくださったから、あなたのおかげで今こうやって会えたってことでしょう? わたくしの醜いさまを見て聖女さまがわたくしを見限ってしまったというのなら、とてもつらいけれど」

「わたしに気づいてくれるのをずっと待ってたのに?」

「そうでしたね。そうです……わたくしのほうこそやっと神を許せる、あなたが笑っていてくれるのだったらわたくしはなんだって許せるのですよ」

 しかしそのフィーニスの言葉に答えたのはオルサではなかった。あきれたような愉しむような声音が傲慢だなと響く。フィーニスは横たわる男を見たがまだ意識は戻らないままでいる、ではなんだと傾いだところでばさりと強い風が巻き起こった。

 風に負けて瞑っていた目をあけるとそこには真白な翼を広げたものと真黒な翼を閉じようとするものが立っていた。ひとならざるものだ。ふたりは驚きのあまり身じろぎすらできずに翼のあるものを見つめた。

「なんだ、許してくれたのではなかったか」

「あいさつもないとは冷たいことだ、愛しいと思うのは我らだけのようだな」

 ひとならざるうつくしいもの、ふたりは神が降りてきたのだと正しく理解した。

「……はじめてお姿を拝謁いたしました」

「おまえがひとではなくなったので見えるのもあるだろうけれどね、捨て置かれて消えゆく我らを形にしたのはおまえの祈りだ。我らはおまえとそちらのおまえが気に入ってしまったのでね、許してくれると言うのでこうして姿を見せたのだ」

 のんきともいえるせりふに頭に血をのぼらせたのはフィーニスだった。いやおかしいだろ! と相手が神だということにも考慮せずに叫ぶ。不敬だろうが冒涜だろうがこのさい知ったことではない。

「どこをどう気に入る要素があったというのですか! 恨んだって言ってますでしょう、あげくにひとの身で神を許すなどと言い放っているのですよこちらは」

「わたしたちはひとではないのですか?」

「オルサさま! 今はそこではないのですよ! そもそもこのおふた方は気に入ったと言いながらも力及ばずあなたを苦しめたのですよ! 許し難い!」

「許すと言ってたではないか」

「存在が曖昧でしたからね! いるとわかれば話は違いますでしょう! よくもよくもオルサさまを」

「フィーニス、わたしはいいのよ。それよりも、ねえ、神さまを拝謁できるだなんてなんて素晴らしいことかしら」

 お優しい! フィーニスはオルサの言葉で言葉を重ねることを止めた。聖女さまのお優しさはこの世のなによりも尊いのでは、などと神よりもオルサに誓いを立てたいとさえ思う。

「正直で愛らしいではないか、おまえはそのままオルサに誓いを立てることを許そう」

「神さまというのはひとの心を盗み見て楽しむのですか」

 今さら取り繕うことなどあるまいとフィーニスは思ったことをズバズバと言葉にすることとした。それを苦笑する真白な翼の神と、面白さげに笑う真黒の翼の神が、意外と楽しいようだと告げる。

「アーテルだ、これはアルブス」

「アーテルさま、アルブスさま」

 真黒の翼をもつものが名乗って、真白な翼をもつものをアルブスと紹介したところでオルサの身が光り輝いてアルブスのように全身を白く変えた。驚きにフィーニスが口を開けると同じように光が降り身を纏う、眩さに閉じたまぶたを上げればフィーニスは真黒な見目に変わってしまっていた。

「我らの乙女、もうおまえたちはなにものにも汚されない、侵されない、そうして自由だ」

「……自由、」

 オルサが、真白になったオルサが呟くとまるで神さまのようでもあった。のぼせるようにフィーニスが見つめていると、オルサはなにをかに気づいたように、では、と、声を上げた。

「では、彼を助けることもわたしの自由なのですか、アルブスさま」

「そうなるな」

 アーテルの返事を聞くとオルサは意識のない男の背に手をやった。フィーニスによる呪いは消えていて命に別状はないが、男はすでに国を追われている身だ、帰る場所などない。命あるものをこのまま見捨てることができないオルサのことをフィーニスもよくわかっていた。その優しさにいつだって救われていたのだから。

 誰も否とを述べなかったことでオルサはこの地を男に譲ってほしいとフィーニスに頼んだ。

「わたくしのものではありませんのでオルサさまのご自由に、わたくしのものだったとしてもオルサさまに差し上げることに異議などございません」

「そういう考え方よくはないと思うわ、でもありがとう。フィーニスは彼の恩人ね!」

 喜ぶオルサにフィーニスは少し嫌な顔をした。気づいたのはアーテルとアルブスだけではあったが。オルサのための花をうつくしいと褒めてくれたことは嬉しいが、別に彼の恩人と言われることはしていない。なんなら彼が死にかけた一端を担っていたのはフィーニスの蔦だ。それもオルサにすれば侵入者を阻んでくれたのね、という感謝の言葉になるのだろうけれど。その程度の感情しか持ち合わせないので恩人と呼ばれることには抵抗がある。

「……わたくしはオルサさまほど優しくはないので、定めを作ります。それに男が了承するならばここをどうしようと彼がなにをしようと問いません」

 言ってフィーニスは男を揺らした。喃語のようなものを漏らして男はのんきにからだを起こしてから、揃う四人に驚いて居住まいを正した。

 かつて優しい国だったこの地はひとが飢えることなどないほどに実を育てる土壌と水があり、それを望んだ他国による侵略が聖女を殺し国を滅ぼした。ならばその繰り返しを起こさぬように正しきものとなるようにとフィーニスは強く望んだ。

「おまえからの侵略は許さないしその禍いとなるような行いも許さない」

「了承いたしました。言われるまでもないことです。わたしも優しいものを作りたい。兄のような武力と権力の蔓延る国はうんざりだ。聖女さま、」

「わたくしは聖女ではない」

「わたしにはあなたも聖女なのです、ああではおふた方、あなた方にはわたしが作る国の最初の神となってほしい、あなたの作る箱庭をわたしの国とします」

 そうしてオルサとフィーニスの最後の場所、この話し合いをした場に祭壇を作った。それを守るように邸が建ち、やがて城に変わった。華美ではないが荘厳さに満ちた城の地下、未だに残されている祭壇の場には歴代の皇帝の棺が安置されて、霊廟という形をとっている。その城下も第一王子が統べる国からの亡命者を受け入れはじめ、負傷者を癒す医療院や子どものための学舎、親なき子の養護院なども整備されていき、やがて正式にレグヌムという国を興すに至った。ひとは流れて大きくなっていき、かつてオルサやフィーニスが幸せに暮らしていたときと似た国となっていたころ、ひとつの瑣末とも呼べない問題が起こった。男の結婚問題である。男は世襲制の国で育ち、継承争いののちに逃亡することになったので独身のままで生涯を終えようと思っていた。後継は優秀なものを擁立しようとしか思っていなかった。しかし彼を慕う国のものの彼の幸せと世継ぎを望む声は強く、困り果てて彼のもとに残って同じく尽力していたオルサとフィーニスに相談をした。

「わからなくもないのですが、しかしわたしはやはり…恐ろしくて、それにわたしは、あの、恐れ多くもおふた方のことが一等好きなので」

「まあ、なんて嬉しいことを言ってくださるの! わたしたちもあなたのことが大好きよ、ねえフィーニス」

「わたくしがすきなのはオルサさまただひとりですよ。おまえなど良く言ったところで愚弟に過ぎぬ程度の存在なのだからオルサさまに要らぬ懸想などするなよグズめ」

「あいかわらず手厳しい。まあですのでなにか小うるさい周りを説得する妙案をいただきたいのです。だいたいにしてわたしはそういうことに疎いので、」

「養護院で一緒にお世話をしている方に聞いたわ、相手のことが大好きなのにくちでは憎まれごとを言う天邪鬼なひとは多くの方の性癖にささるそうよ! あなたも少しそういった恋の駆け引きをしてみたらいいのではなくって?」

「誰です、オルサさまにそのような下品なことを吹き込む愚かものは」

「あちらのお国では流行っていたのですって。あなたの故郷の、ええと」

「無くなってしまった国名などもうよろしいのですよ。申し訳ありませんがオルサさまは少し落ち着いてください」

 男を追い出した王国は数年前に完全に滅びてしまった。ウルティカの守護を受けたと言われる男の興した国は肥沃に育ったが、第一王子が継いだ元の国は見る間に衰えていったからだ。原因はフィーニスにもあるとはいえ、そのために王国では革命が起こり、数年で無くなってしまった。今は共和国となって皇国レグヌムとも和平を結ぶに至っている。

 レグヌムと共和国の間の岩だらけの山には神の住まう神殿が現れた。アーテルとアルブスが建てたもので第五層に及ぶ城郭が聳えている。ウルティカでしばらくひとの寄り付かない地となっていたために突然現れたというよりは、知られずに存在していたと認識されている。レグヌムが落ち着き次第、オルサとフィーニスはそちらに居住することが決まっている。ひとではなくなったふたりに時間は無限にあり、アーテルとアルブスもレグヌムという箱庭作りに飽きるまでは好きにさせている。そちらは麓の第一層に市井、第二層に図書館と談話室など知識層に解放し、第三層に神殿としての祈りの場がある。中は薄暗く大気の音がわかるほどに静かで一方の壁には一筋の割れがあり、光が細く長く通っている。がらんとしたその祈りの場はあらゆるものを拒まない。立って祈るもの、膝をつくもの、伏すもの、決まっているのはただ祈る場だということだけだ。第四層は教皇として要人──今はレグヌムの皇帝となっている男と会うための場所で、第五層はアーテル、アルブス、オルサ、フィーニスだけが立ち入ることのできる居住区だった。

 さんにんは頭を捻ってみたけれど、どう対処していいのかがわからずにその第四層にて五人で話すこととした。結果、作り出すことにしたのだ。男の婚姻相手を。

 オルサとフィーニスの一部を混ぜ合わせた人形に命を吹き込む。生成されたそれはひととなって、宗教国家レギリオの姫巫女として男に嫁いだ。それはレグヌムの定めとなって脈脈と受け継がれていった。決して覆すことのないように言明された初代皇帝の戒めのひとつだった。婚姻による他国との軋轢から逃れるためでもある。宗教国家レギリオはなにも拒まず、またすべてを受け入れる神殿とした永久中立国家である。皇妃は政治に関わることはないと明言されているのでこれまでなにも問題はなかった。

 なかったのだ。


「では聖女、おまえが本物かどうか確かめよう。お国を守られよ、たった今、この瞬間から」

 フィーニスの言葉にオルサは目を伏せた。ウルティカは彼女の意のままである。この皇国、この地の奥にあるオルサの血の流れた聖なる場所とフィーニスが守っている場所を汚そうとするものをすべて排除することは彼女の当然の権利であって、汚れた血を持ち込もうとする原因の根本から潰すのは当たり前の事柄だった。

「なにをおっしゃっているのか」

 嘲りはフィーニスの笑い声に飲み込まれた。なんだわからんのか。

「皇国レグヌムまでの連絡はどれほどかかるのだろうな。そしておまえの祈りが届くのはさらにどれだけの時間を要する? この皇国を侵しに来たのだろうがそれは許されぬことだ」

 衛兵が皇帝を呼んだのか祭壇室が騒然となる。皇帝は揃っている面面を確認すると自身と皇妃、皇帝付きの衛兵と皇妃の侍女長、宰相、司教以外を退室させた。皇太子は皇帝に一礼をしたのちに、姫巫女との婚姻は破棄いたします、と堂堂たる態度で告げた。

「同盟国コテリオの聖女と縁を結ぶことが我が国のためになると」

「我が国のためになると思ったのならば、皇帝であるわたしに話を通すべきではないか。愚かな、貴様のしでかしたことはこの国を破滅させる初手でしかない」

 言葉を遮られた皇太子がそのままくちを閉ざしたが、皇妃が歩んでくると憎しみを込めた声音でたかだか姫巫女になにができる、と唸った。

「祈るばかりでなにができるというのですか! その皇妃も忌児を産むような下女ではないですか!」

「下女」

 そう呼ばれた皇妃、前姫巫女よりも皇帝がその言葉の悪しさに吐き捨てるように繰り返す。

「皇帝がどれほど偉いものか、たかだか逃げ延びた王国の負け犬の、その薄れた血しか持たぬ分際で」

「なんだと」

「……二千年を超えたのなら持ち堪えたほうなのかな。オルサさま、この国はもう終いにしましょうか。あのような皇太子は禍いしかもたらさない」

「フィーニス、待って」

「お優しいオルサさま、でもいけません、男の約束はたった今破棄されたのです。皇妃、ご苦労でした、もうおまえもよろしい」

 フィーニスの声に皇妃が頭を垂れると、ざわりとスカートの裾が轟いた。その動きに誰もが目を瞠った。ひとならざるものの動きだと僅かな動きだけで悟るには容易かった。

「お願い待って、皇帝は悪い方ではないわ、皇太子を叱ったではないの。それに、忌児というのは…なに、わたしは知らないわ」

 オルサの言葉にフィーニスも首を傾いだ。確かに忌児とは誰のことだ。ふたりはこの国のすべてではあったが、そのすべての事柄を知っているわけではない。ふたりの作る人形も出来の良し悪しがあり、皇妃はどちらかというとフィーニスの割合が強い。今の姫巫女はややオルサの割合が強く、そこをフィーニスは気に入っていたがオルサのように好意的にひとを見るきらいがある。そして皇妃は小賢しくフィーニスに隠しごとをしたのだろう。

 この皇妃と皇帝、そして皇太子はなにかを隠したのだ。忌児、ということは最も重要なこの国を左右するなにか。

「隠しごととはひどいな、重要な事柄はレギリオへの報告が義務付けられているが皇妃、おまえがそれを忘れるはずがないだろう」

 フィーニスの声に皇妃がうなだれる。おおよその見当はついたがそれがどのようなものかの確認をしなければならない。

 くちを割らない皇妃がとうとう負けたとき、それを告げたのは皇太子フィリウスだった。

「その皇妃が忌児を産んだのだ」

「おまえの他に? 皇妃の出産は記録されるはずだが……ああ忌児、忌児か。当時の医師は存命か?」

「いいえ、フィーニスさま、医療技術のさらなる向上のために招かれた他国の方でしたが、すでに亡くなられております」

「だからくだらぬ考えを持っていたのか。それで忌児は生きていような? 理由なき殺人をこちらの許可なく行うことは許していないはずだ」

「産まれてすぐに屠られたに…」

 フィリウスの言葉を手で制して皇妃が侍女長になにをかを告げる。オルサが無駄な殺戮を望まないことをフィーニスは充分にわかっていたので、ふたりの作った人形といえどもそれを違えることはしないはずだ。重苦しい空気の中、くちを開いたのは宰相だった。

「高貴なる血を屠ろうなどとしたので医師にはそれ以上関わらせませんでした。死産とだけ書類を作成し、皇帝にはその捏造書類を提出した次第です。わたくしの責でございます、どのような処分もお受けいたします」

「捏造……?」

「罪なき命を捨てることをこの皇国レグヌムは許しておられないはず。しかし医師が忌児と言ってしまった御子をそのままにしておけば禍いがあったときの原因とさせられる可能性がありましたので、長子フィリウスさまをそのままに、第二皇太子を死産と偽ったのです」

 偽っただと、うめくような小さな声がフィリウスより漏れる。その隣に立つ聖女アゼーナは思っていた事態へと流れていないことに不安と焦りを感じているようだ、忙しなく視線をあちらこちらに向けてどうにか状況を把握しようと足掻いている。

 やがて扉がゆっくりと開き侍女長が男を伴い戻ってきた。男は顔を隠すように灰色の布を垂らしている。それは宗教国家レギリオに所属する人間がつけているもので、神に仕えているという証のものだ。しっかりと扉が閉まることを確認してから恭しく男を案内する。話の内容から男がどのような人物であるのかはこの場にいる誰もがわかっていた。

「初めてお目に掛かります、アグヌスと申します」

 後頭部の結び目を取り現れた顔は幾分か柔和ではあるがフィリウスとよく似ていた。忌児、双生児、フィリウスとともに育まれて産まれた片割れであることはその場の全員が一度で理解した。

「お会いしたことがあるわ、養護院にも何度かいらっしゃったでしょう」

 オルサがぱちりと両手を合わせた。そのことにアグヌスはやわらかに笑んで、何度かお会いいたしました、と頷く。司教が確かにと頷く。

「聞いておりませんがオルサさま、不審な人物に会われましたらフィーニスにお伝えくださいと何度も、それは何度でもお伝えしていたと思いますが覚えてはいらっしゃらなかったと?」

「不審そうではなかったので言わなかっただけのことよ。お洗濯物を運んでいたときにつまずきそうになったとき支えてくださったり、レギリオから子どもたちのご本を運んでいただいたときの従者のなかにおられただけだもの。レギリオのものを疑うだなんて誰もしないでしょう?」

「あなたの知らない従者がいるとお思いですか。いま一度オルサさまと不審者の定義の擦り合わせをいたしましょうね、今度ゆっくり」

 ひゃ、と肩をすくめたオルサを横目にフィーニスは表情をがらりと変えて、フィリウスへとからだの向きを変えた。

「ちょうどようございましたな、皇国を継ぐものがきちんとおられて」

「貴様なにを言って…」

「初代皇帝の願いのひとつに争うことのないよう子を成すものはひとりだというものがあった。レグヌムの歴史を学んで奇妙だとは思わなかったのか、おまえは本当に愚かだな、家系図に現れる後継は何代にもわたってたったひとりだったろう。途切れることなくひたすらに二千年、望めば女児の存在は許したが、継ぐべき男児はたったひとりだ。レギリオはその願いを叶えるために尽力してやったが……なるほどアグヌスを隠したのはどちらかな」

 どちらかではなく両人だろうなと心中でぼやいてから、もう用のないふたりに向き直る。

「姫巫女シビラとの婚約を破棄してそのアゼーナ・ブルテーツォ侯爵令嬢と縁を結ぶのだろう? どうぞ、レギリオはふたりを祝福する」

「では聖女アゼーナの帰国準備を通達いたしましょう」

 宰相が扉を開けに行くと、速やかに衛兵と侍女数人が礼をして慇懃にアゼーナを案内する。フィリウスの名を呼んだが、言葉は届かずに地に落ちた。

「聖女アゼーナ、一度貴賓室へお願いいたします」

 有無を言わせぬ声にアゼーナは大人しく従うことにしたようだ。なにより頼みの綱であるフィリウスの立場が今揺らごうとしていることは誰の目にも明らかなのだから、言葉ひとつで身の処遇が変わること程度のことは侯爵令嬢として生きてきてわかっているのだろう。

 そしてそのフィリウスはすでにアゼーナのことは眼前になく、憎しみを込めてアグヌスを見ている。同じ顔が表情ひとつでこれほどまでに変わるものかとフィーニスが感心したところで、皇帝が深く息をついた。忌児の存在を元より知らなかったのだ。

「……亡くなったものとばかり」

「申し訳ございません。しかしこのようなことがない限り、アグヌスはレギリオの要人として生涯を終わらせるはずだったのです」

 アグヌスも皇妃の言葉を肯定した。生涯を宗教国家レギリオで終えることは了承済みであったという。

 しかし今、この場所にいる。

 フィリウスはそのことの意味をようやく悟った。

「姫巫女、おまえのお仕えする次期皇帝に挨拶をなさいな。同盟国コテリオの不幸があったので、皇国レグヌムのフィリウス皇太子は脅威に名を捧げそれを治められ、新たな名をアグヌスと改められるそうだ」

 フィーニスの言葉にフィリウスが声を荒げる。しかしそれを制したのはフィーニスではなかった、皇帝により命じられた衛兵がフィリウスを拘束する。拘束具を噛まされたフィリウスは言葉を発することができない。そのままアグヌスがつけていた顔を隠す布を垂らされた。それとは真逆にシビラの布が取り払われて、ふたりは初めての対面を果たした。

「宗教国家レギリオより参りましたシビラと申します。アグヌスさま、末永い皇国レグヌムの繁栄のため、ともに尽力いたしますことを心より誓い申し上げます」

「存じ上げております、シビラさま。皇妃とともに祈る神聖なお姿をいつも見ておりました。こちらこそ末永く皇国レグヌムのためにお力添えいただきたくお願い申し上げます」

 祭壇室での次期皇帝、皇妃の言葉によってその場は収束した。これからふたりは新たな皇帝皇妃となるべく学んでいく。

 さて、フィーニスの言葉に拘束されているフィリウスは硬直した。自身の処遇の行方が見えないことが不安でならないのだろう、鼻白む思いでフィーニスはそれを見つめて残っている司教に目配せをした。司教はすぐに室外に控えている司祭を呼んだ。皇帝らを祭壇室から連れ出すためだ。

「では皇帝、皇妃、ご機嫌よう、姫巫女は引き渡した。我らはひとつ仕事を納めてレギリオへ戻ります」

「シビラ、皇国レグヌムをよろしくお願いいたします。民びとを大切にね」

 オルサの言葉にシビラが一礼をする。不安げな表情も皇妃の時おり様子を見に来てくださいますよとの言葉に払拭された。次に対面するときはふたりの婚姻のときや子を成したときだ。それ以外は擬態して違う見目で訪れるが、それは伝えてはいない。今の皇妃も市井にふたりがたびたび訪れていることは知らない。

 誰もいなくなった祭壇室に、速やかにアゼーナが連れ戻されてくる。すでにアゼーナの意識はない。貴賓室で焚かれている香と、飲み物によって意識はすぐに奪われていた。

 司教が礼拝の祭壇前の段を強く押すと隠し戸が外れて階段が現れる。地下の、フィーニスがなによりも神聖化しているオルサの亡骸があった地下の祭壇場へと繋がる階段である。歴代皇帝の棺を安置するための通路は他にあり、この隠し階段はフィーニスとオルサとここを監視させている司教しか知らないものだ。

「おまえは歩けるだろう、逃げようとは思わないことだ、脅威はとてもつらいものらしいから」

 フィーニスの言葉にフィリウスは大人しく従った──従わざるを得なかった。皇帝が娶う姫巫女は毎回フィーニスとオルサのふたりから作られている人形で、その身の内にはウルティカの根が蔓延っているものだ。その種は第二皇帝の時代から脈脈と体内に蒔かれている。すでに意思とは別の行動をからだは取っていて、逆らおうとすると痛みが襲ってくるので従わざるを得ないのだ。

「オルサさま、先へお進みください。女はわたくしめが運びます」

「おまえたちのような愚者が歴代皇帝も眠る霊廟とこの国のもっとも神聖な祭壇場へ生きて足を踏み入れることができるのだから欣喜なさいな。まあ片割れは意識もないけれども」

 フィーニスの言葉に頷くのは司教で、この城に遣わされている誉とふたりに直接対面できることの誉を心の底から感じているらしい。陶酔も甚だしいが、純善な心しかないことも知っているのでフィーニスは司教をわりと評価している。それとは違いオルサは毎回フィーニスの重たい気持ちを軽くいなしているので、アーテルなどはいつも面白がっていた。今回もオルサはそんなに褒められることもしていないのにねと司教の言葉に苦笑するばかりである。まあ褒められたものではないだろう、今回は。地下の祭壇場まで降りると司教は一度上へと戻った。フィーニスの合図があり次第、正規の門よりこの霊廟へと入ってくる手はずとなっている。

 さて。ぞっとするようなフィーニスの声が霊廟に響く。この場はふたりの死に場所であり、一番力が漲る場所だ。漲りすぎるので、あまり近寄らないようアルブスには言われていたが今は禍しい力などいくらあっても足りないほどだ。この場を譲ってやったのはオルサも楽しく過ごせる優しい国を作ると約束されたからだ。それをこの愚鈍なる皇太子はあのときと同じように他国の女を迎え、聖女たるオルサの雑じった姫巫女人形を退けようとした。それも罵りまで添えて。それがフィーニスには許せない事柄だった。生かしてなるものか。憎しみはひとまず笑顔の下に隠したが、腹の中でずっと燻っている。男にはにおわなかっただろうか、この怒り、この殺意が。

 オルサも大して止めはしなかった。皇国レグヌムをかすかでも破滅への道筋に当てたことをオルサも怒っているのだ。そして約束を違えることをオルサは許さない。アグヌスよりもこの国のことをきちんと学んだであろうフィリウスの愚かさにオルサは匙を投げている。

「男だろう、そう悲しむことはない。はやくおまえを愛する女を真の聖女に仕立て上げる立派な道具に変えてやろうな。王国コテリオの聖女アゼーナが生きている限り、おまえの努力を讃えて手出しはしないでおくよ」

 パチリとフィーニスが指をならすと、その些細な音にすら怯えたのかフィリウスは気を失った。小心すぎやしないか、そうあきれたもののやることは他にもある。未だ寝汚く眠るアゼーナのくちにウルティカとは違う葉を押し込める。突然のことに目を開いたアゼーナがなにをかを言おうとしたが葉のせいでなにひとつ言葉にはならなかった。噛みなさい、フィーニスの声音がうわんと霊廟に響く。噛みなさい、噛みなさい、噛みなさい、……、何度かの後にアゼーナはその葉を噛んで、何度も何度も噛んで涙を流した。甘く苦い葉を噛んでいると屈辱も怒りも凪いでいく、薄暗い中に灯る火がゆらゆらと揺れ、ぼうっとした頭には王国を守るための手順が刷り込まれていく。おまえの国を守るために聖女アゼーナにひとつの術具を渡します、おまえの国を守るために聖女アゼーナにひとつの術具を渡します、おまえの……、国を、守るために、──ひとつの術具を賜ったのです!

「アゼーナ侯爵令嬢!」

 名を呼ばれてアゼーナはふと目を明けた。数度の瞬きののちに皇国レグヌムまでの護衛をしていた生家ブルテーツォ家の騎士が目の前に待機していることを確認して、ようやくちらつく意識を戻した。

 皇国レグヌムに嫁ぐ宗教国家レギリオの姫巫女と対談をしているときに第一報が届いたのだ。祖国の王国コテリオで初めての脅威がもたらされた、と。そうだ、わたくしはすぐさまコテリオへと戻り聖女としての務めを果たさなければならない。ちょうど宗教国家レギリオよりの使者から脅威に対抗するための術具も渡されている。コテリオに聖女はひとりしかいないため、脅威に打ち勝つには同盟国の力を借りなければどうにもならないのだ。

「わたくしは侯爵令嬢という身分など捨てます、聖女としての務めを果たさねばなりません。わたくしたちの国を守るため、行きましょう、もう国に着くまでは休むことはできないと思います、あなた方も国のために働いてくれますか」

「なんという……アゼーナ侯爵令嬢、いや聖女アゼーナ! 急げば一両日には王国コテリオへと到着いたします!」

 国を出たときとはまるで別人のように聖女たる姿に騎士が目を瞠る。これほどまでに聖女としての自覚をと持つなど思っても見なかったことだ。

 術具を乗せた馬車は馬を変えながらコテリオへと急ぎ、脅威の蔓延る国内へと入ったのは翌日のことだった。身を清めることもなく国王との面会を果たす。すでに早馬で皇国レグヌムより同盟の証として聖女にのみ扱える術具を譲渡したこと、同盟の証として次期皇帝の名を捧げるとの連絡は受けていたらしく、アゼーナの到着を刻一刻と待ち望んでいたようで、儀式の手はずはすでに整っていた。すぐさま術具は丁重に運ばれ、アゼーナは聖なる水に身を浸したのちに儀式へと進んだ。ひとの形を模した術具は城へと伸びゆくウルティカの眼前へと置かれた。脅威は国ひとつを簡単に飲み込むと知られており、あまりの危険さに地区の住民などはすでに避難済みだ。遠く離れて見守る騎士の姿を一瞥し、アゼーナは祈りを捧げた。術具はガタガタと震えウルティカの脅威と戦っている。聖女としてアゼーナは精一杯の祈りを捧げ、やがてウルティカが術具に吸い込まれるようにして中へ中へと巻き込まれていく。アゼーナの耳には悲鳴のように響いた。ギシギシと術具は軋み、最後には火がのぼった。聖なる火の輝きにアゼーナはふとどこかで見た光だと思った。

 どこか遠くで見た光だ。


 数ヶ月ののち、皇国には華やかな日が訪れていた。皇太子と姫巫女の結婚式が行われたからだ。国民は初めて見る皇太子と姫巫女のうつくしさと聡明さに今後の行く末が良いものと確信すらしている。そこここでふたりの話題に湧いていた。市井を楽しげに歩くオルサの髪色は今は擬態によってかつての柔らかな栗色だ。そこいらのありふれた女の子のように屋台の食べ物を選びきれずに悩みながら通っていく。

「神が食べているところを見たことがあります?」

 あきれた声音になるはずが拗ねたようなものになったことにオルサもきっと気づいたことだろう。きょとりとした顔が次には破顔して、フィーニスの手が取られる。

「戻ってフィーニスも一緒に食べるのよ。レギリオの市井では見たことのないものだってたくさんあるもの、それにアルブスさまは一緒に食べてくださったこともあるし」

「聞いたことございませんが」

「言ってないもの。だから今度はみんなで食べたいでしょう?」

 だからどちらがいいか選んで、と、オルサが二種にまで絞った候補をフィーニスに見せるためにお目当ての屋台にまで手をひく。結局ひとつはオルサが、もうひとつはフィーニスが選んだこととして持ち帰るのだけれど。一緒に食べるとついつい食べ過ぎてしまうこともよくあることだ。初めて神のふたりとものを食べたな、と思いながらまた十数年はふたりきりで過ごすことを楽しみにフィーニスはまたひとつ手を伸ばした。次期皇帝夫妻に子ができれば人形を作るのでふたりきりの時間はなくなってしまう。

 人形といえばフィリウスは大いに役だったようだ。ウルティカを取り込んで盛大に燃えて脅威を消し去り、アゼーナは王国コテリオの本物の聖女となった。アゼーナが生きている限り国に手は出さないと一方的にとはいえ約束をしたのだから守るつもりではいる。暗示がゆっくりと溶けていってそのあと気の狂うことがあるのか知れないが強心そうではあったので大丈夫だろう。小さく笑って滅びへの種は蒔いたのだし、と、それきり気にすることをやめた。やめた一因にはオルサが「これとてもおいしいわ」とフィーニスに手ずから食べさせてくれたこともあるけれど。

「本当、とてもおいしいです」

「でしょう、また買いに行きたいわね」

「ええ、ぜひ。近く参りましょうね」

 わたくしたちのお庭に。古いながらも愛おしいあの地に思いを馳せて、フィーニスはオルサにつられるようににこりと笑むのだった。

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