傷つけたのは、私
大きな欠伸を一つ。背筋をぐっと伸ばして、三日月形になるくらい沿ってそのまま後ろ向きにふかふかの布団にぼすっと倒れる。
「……ぁぃ」
眠たいなぁ。みたいなことを言う前に力が抜けて、勝手に瞼が閉じた。昨日は遅くまで通話をしていて、まだまだ寝足りない。
「通話、ああ……」
ごそごそと布団の中を探ると案の定充電切れのスマホがちょうど枕の下にあった。なんだか頬が痛いような気もするし、起きたときは俯いていた気がする。極めつけに身体の節々が痛くて、寝なおしていると妙に気持ちいい。
通話中に寝落ちした。これは間違いないだろう。
「寝言入ってないよね……いびきとか掻いてたら悲惨だ……」
二度寝をしようと思ったが、心配事が多すぎてなかなか寝付けない。
もぞもぞと身体を動かして、寝違えで凝っている身体を揉みながら、うんうんと唸る。
「……ダメだ。私は、かわいいんだ!!」
バサッと布団を蹴り上げて、転がるようにしてベッドから降りる。勢いあまって床に堕ちそうになってよろけたのを、体操の終わりのポーズをとるみたいにして耐えて、恥ずかしくなって赤面する。
とてとてと眠たげにしていたのが嘘のように軽やかに部屋を飛び出して、ジブリ映画さながらの躍動感で洗面台に駆け込んだ。
「髪の毛を整えて……こーしてあーして……あ、お母さんおはよー」
「あら、あさちゃん。今日は早いのねー。ママも使うからあんまり洗面台占領しちゃだめよー」
「はーい」
お母さんの顔を見て、いつもお母さんが洗面台でシャンプーをしていることを思い出して、寝ぐせを直すのを兼ねてシャンプーまでしてみる。
「これが朝シャンってやつだ。服脱がなくていいの楽だし、これなら毎日できるなぁ」
ジャーっと水が流れる音が耳の近くでなっているのがどこか心地よくて、「ふはぁ~」と間の抜けた声をだす。
首に掛けたバスタオルで水滴を吸い取りながら、櫛と一体化したドライヤーで髪を梳かしながら乾かす。
「ふんふんふ~ん♪ あっ! 御子柴にもらったやつ部屋におきっぱだ!」
テンションの上がった私は何も構わずドライヤーとタオルをポイポイッと投げ捨てるように元の位置に戻して、廊下を軽やかなステップで駆け抜けていく。気分はさながら陸上選手。御子柴みたいな。
「あら? あさちゃん、今日はもう起きてたの? もう月曜日よ?」
「うん。そうだね……?」
月曜日だからこそ起きるもののはずなのだけど、深くは突っ込まず私は自室から御子柴に貰った化粧品一式を持って洗面台に戻る。
「よーし、今日もふふっ♪ かわいくなっちゃおっかな~♪」
「あら、珍しく起きてると思ったらお化粧? あさちゃんも年頃だものね。やってあげよっか?」
お母さんの申し出は嬉しかったし、きっと頼った方が上手くできることは分かっていたけど、今の私は無敵だった。水泳をしているとき、今ならいけるってときがあって、その時はいつもよりすごいタイムが伸びたりした。その行けるって感覚が、今の私にはあるのだ。
「友達に教わったんだ。ほら、前言ってた御子柴ってこの」
「あさちゃんと違って、胸が大きい子ね。ごめんねぇ、遺伝子が悪くて……」
「確かに言ったけど、おしゃれって方を覚えててほしかったかな……あと、まだお父さんの方の遺伝子がワンチャンあるから……」
私は御子柴に教えてもらったことを思い出しながら、不慣れな感じで失敗してお母さんに直してもらうのを何度か繰り返しながらもなんとかいい感じに化粧を完成させた。
「んー! できたー!」
「よかったわねぇ」
私は椅子に座って朝食を待つ間に、手鏡で何度も自分の顔を映して、にやにやと口元を歪めていた。
御子柴、褒めてくれるかなぁ。私が頑張ってやったって言ったらむちゃくちゃ喜びそう。昨日も壮太に褒めてもらえたこと報告したら、感動で涙ぐんでたし。私が壮太と登校してたら卒業式並みに泣いちゃったりして。
お母さんは私に手を貸しながらも合間合間に器用に進めて仕上げた朝ごはんを盛りつけながら、のほほんとした様子で微笑む。
「そうだ。パパとあさちゃんを起こしてこないと」
「…………ん? 私?」
お母さんは、ふぅーっと気合の入った息を吐きながら、寝室に向かっていく。
カッと目を見開いて、口を大きく開けて息を吸い込むと、
「おきなさーーーーい!!!!」
と、思わず耳を抑えたくなるほどの大声で怒鳴る。
「ひっ……」
私は思わず顔を顰めながらも、絶対に近所の家に聞こえているだろうことを意識して恥ずかしさに赤面する。
のそのそとお父さんがゾンビのような足取りで寝室を出てきて、ぼそぼそとした聞き取りづらい声でおはようとつぶやいて寝間着のまま食卓に座る。
「あさひー!? まだ起きてこないの!!?? 起きろーー!!」
なんとなく、なんとなくそんな気がしてはいたけど。
お母さんは大声で怒鳴りながらずかずかと私の部屋に踏み込んでいく。
「パパ。私、さっきお母さんに化粧直してもらってたんだけど……」
「お前いつも月曜日は絶対に起きてこないから……」
「ええ……まじか……」
私の自室に辿り着き布団を引っぺがしたお母さんが本気で私がいないと心配しだしたので、仕方なく席を立ってお母さんの元に向かった。
私が休みの日以外にちゃんと起きて身支度していたのがそんなに珍しいのか、お母さんに雪が降るかもしれないから気をつけろだとか、今日は嵐だから早く帰ってこいだとか言われながら家を出る。
ドアを開けたらすぐ、見知った姿が見えたから、ぴょんぴょんと飛び跳ねるように玄関ポーチの段差を下る。
何気ない風に行こうとしてるのに、そわそわとしてしまう。ぴょこぴょことアホ毛が揺れて、慌てて抑えて、手癖で勝手に広がっていく短い髪を正す。
門扉をよそよそしくゆっくりと開いて、顔の三分の一くらいを覗かせて、相手の顔を伺う。
「なんだよ、悪いか」
「ううん。全然いいよ」
えへへ、と小さな照れ笑いを浮かべながら、私は隣に小走りで歩み寄る。
塀を背にして本なんか読んじゃってかっこつけた立ち方で待っていたあいつは、これまたかっこつけて音を立てて本を閉じて歩き出す。
「感想は?」
「この本のことならむっちゃためになった」
「照れんなよ~♪ 壮太かわいー」
「はぁ!? 誰が!」
私はニヤニヤと笑みを浮かべて、壮太の肩を人差し指で突く。
中学生になって、急に距離を取り出して。それが久々に二人で学校に行けるのがなんだか嬉しかった。
「ったく、かわいいのはお前だっつーの」
「……っ///」
目を合わせていられなくて、私は道の先を向いたまま唇を巻くようにして黙り込む。
「なんか言えよ、馬鹿。やっぱかわいくねー」
「そ、そうですか~。いやー、えへへ……」
昔から意地っ張りで負けず嫌いで、他の女子には優しいくせに私には平気で暴言吐くし、直情的で意味わかんないことで怒るし、全然女子扱いせずに平気で男子の遊びに誘ってくる。本気で喧嘩するし、素直じゃないし、絶対謝らないし、そのくせ私に負けると泣くもんだから困ってしまう。でも、そういうところが好きなんだ。
「水泳の授業大丈夫だった? 泳げなくて泣いてない?」
「昔と一緒にすんなよ。二学期はサッカーもあったからそっちで取り返し中。サッカーならお前に負けねーし」
「やっぱり泳げてないんじゃん。うける」
「うっせー、ばーか」
ツボに入って私がお腹を押さえて笑うと、壮太も釣られて噴き出す。昔も確か、私たちはこんな感じだった。
意外に周りの目線なんて気にならないもので、男女が二人で歩いていようと高校生にもなれば冷やかすような人もいない。まあ壮太を見知ったサッカー部の人たちがちょっとだけ揶揄っていたけど。
「じゃあ、ここで。またね、壮太」
「おう。あー、帰りは部活あるから」
「うん。そのつもり。私も御子柴と帰るしね」
「そっか。じゃ、また」
壮太と自然と話せる仲に戻って、私は上機嫌に教室の扉を開けた。
男子がこちらを見て目を逸らしたら、もう一回目線が戻ってくる。流石は御子柴直伝の化粧、視線の吸引力が絶大だった。
視線を向けた男子たちが気まずさから段々と目を向けるのを止めていく中で、一人だけ別の反応を示した男子がいた。
「おい、旭ー」
「ん? ああ、小林」
小林が顔を輝かせて駆け寄ってきて、私の机に乗り上げるような勢いでぐっと距離を詰めてくる。
「ちょっ、近い近い!」
「え? ああ、悪い……」
小林がほんの一瞬、照れるように目を逸らした気がした。どこか動きがたどたどしくて、落ち着かない感じだった。
「お前……変わったな」
「化粧?」
「それもだけど、なんか距離感? 女子って感じ」
「前から女子だって、失礼な」
小林はあわあわと言葉を選びなおすように天井に目を泳がせて、今度はしっかりと頬を赤く染める。
「か、かわいいと思う、はい……」
「そ、そですか……ありがとう?」
なんだか気まずい雰囲気が流れて、目を合わせているのが気恥ずかしくなってくる。
「ちょっと小林ぃ! うちらの旭になにちょっかいだしてんの~? 目がエロいんですけどーさいてー」
クラスの女子の元締め、井上が私を庇うようにして割り込み、小林を遠ざける。何人かの女子が「そーだそーだ!」と同調して、小林が避難の嵐に飲み込まれる。もちろん女子の意向は男子の意向、男子も便乗して小林を叩く。これが社会の縮図なのか。
「くっ、理不尽すぎる!」
「どんまい小林……お前は勇者だよ……まじでようやった」
運動部系男子が輪になって小林を囲い込み、よく分からないが作戦会議が始まった。小林は一体何を成し遂げたのだろう……??
「で、旭。なにそれ」
女子も私を取り囲むように輪ができていた。普段関わらないようなキラキラした面子。男子側にいることが多い私にとってはなんだか顔ぶれが新鮮だ。ほんのりいい匂いしてくるのは香水……は先生に怒られるから、制汗シートとかなのかな。良い匂いだし、私も真似してみたい。
井上さんが代表して私にずいっと近づいてきて、じーっと私の顔を見つめる。どんどん、どんどんと顔が近づいてくる。そこまで親しくない間柄でこの距離はちょっと生理的に受け付けないという位置だけど、なにやら真剣な顔で焦点が合ってないし、突き飛ばすことも気が引けて、固まっていることしかできない。
「井上さん近い近い……」
私が気おされてるにも関わらず、井上さんは必死な表情で迫ってくる。
「なんの魔法?? どこの使ってんの!?」
「ああ、これかー。これは――――」
御子柴に教えてもらった化粧は、魔法のようで。私の姿を変えるだけじゃなくて、私自身をまったく別の人間に変えてしまったみたいだった。
男子が女子のように扱うようになって、壮太が認めてくれて前のように戻れた。
――――御子柴に教えたら、喜んでくれるかな?
お昼休みになって、時間ができたから御子柴の教室に向かう。少し迷ったけど、弁当を持って、もしかしたら一緒に食べれるかもしれないし。
「御子柴は……と」
教室の扉を開けて御子柴の姿を探すと、窓側の真ん中らへんの席で教科書を整頓してしまっているところだった。
自分のクラスじゃない場所に踏み込むのは、別にしたことがないわけでもないし気になることでもないけど、なんとなく認識されてからじゃないと入っちゃいけないみたいな自分ルールがあって、私はパチパチと瞬きをして御子柴に気づいてもらうのを待つ。
すると扉近くのロッカーの女子とはたと目が合う。
「えっと、呼んでこようか? 誰待ち?」
「ありがとう。えっと、じゃあ……みこ――――」
ドンッ
私が名前を言い終わる前に、力強い腕が扉を抑える。
「わっ……」
驚いたというほどでもないけど、反射的に間の抜けたような声を出してしまった。なんだか不機嫌になって分からないくらいに頬を膨らませながら、少しだけ見上げるようにしてそいつの顔を見た。
「ずいぶん間の抜けた声だな」
「出会いがしらは悪態しか吐けないの? 素直じゃないなぁ」
「うるせえ。てか、お前ライン返せよ」
「スマホ忘れた。朝起きたら充電切れててコードつなぎっぱ」
「お前ほんとにJKかよ……」
こうして面と向かってみると壮太は案外背が高い。昔は私の方がちょっと大きいくらいで、まず50mを泳げてすらいない癖にクロールのタイムで負けてるのは身長のせいとか言ってたのを覚えている。
「で、俺に何の用?」
「いや、お前じゃないけどな」
壮太はちらっと私の持ってる弁当に視線を落として、あからさまに気を落としたような反応をする。
「あっそ。じゃあ誰?」
「御子柴だよ、御子柴。な~にぃ? 壮太も女子の団欒に混ざりたかった?」
「はぁ? こっちから願い下げだっつうの」
壮太がやれやれと首を振りながら、それがかっこいいと本人が思っているのだろう気だるげな感じで御子柴を呼ぶ。
「御子柴。旭が呼んでんぞー」
私は壮太から視線を外して、御子柴の方へ視線を向けた。
「あ、れ……?」
泣きそうな苦しそうな。それを隠すように何もないような表情を無理やり作っていた。
化粧をした私を見たら、御子柴は跳ねるように喜んでくれるはずだと思ってた。自分のことのように一緒に喜んでくれて、私の化粧が絶賛されたことを話したら得意げに笑ってくれる。
そう思ってたのに。
今にも泣きだしそうな、傷ついて弱弱しくなった御子柴を、私は知っている。あの更衣室で、一人寂しそうにして、涙を隠しても心がずっと泣いていて、深く静かな青をまとった彼女を私は知っている。
胸がチクリと痛む。心臓が鷲掴みにされたように、きゅうっと縮みこんで、小さな鼓動が脳に響く。
「あん? 御子柴のやつ、聞こえてねえのかな……」
私は、咄嗟に御子柴の元へ歩いていこうとする壮太の腕を掴んでいた。
「待って……やっぱなし……」
昨日の御子柴の言動がフラッシュバックする。
私は酷く傷ついていて、御子柴はそんな私を励ましてくれた。私は自分のことばかりに精一杯で、御子柴の感情を置き去りにして――――
「いや、でもだって……私たちは、友達……だし。そ、そんな……えぇ……」
訳が分からなくなって、髪の毛をくしゃくしゃとかき乱す。
今の御子柴を傷つけてるのは、私だ。
「どうした? って、御子柴のやつ別のやつと飯食ってるけど。珍しい面子、そういや朝もあいつらとつるんでたっけ。ああ、なるほど。お前約束とかしてなかったんだろ。馬鹿だな」
「あ、うん。そんな感じ……」
壮太は様子のおかしい私を前にバツが悪そうにそわそわと視線を左右に忙しく動かす。
「あー……なんだったら俺と食うか?」
私はこくりと頷く。
壮太は犬のように、ささっと場所を整えて私に座る場所を用意してくれて、壮太の机を囲んで向かい合って座った。
「まー、なんていうか女子ってそういうとこあるよな。派閥っていうか、その、なんか……」
「うん……」
「まあ、お前別に今までも一緒に食ってたわけじゃねえんだし仕方ねえって」
「そう、だね……」
御子柴は私の知らない友達と机を引っ付けて、お昼ご飯を食べ始める。御子柴が浮かべた笑顔は、少しやつれていて引きつっているような感じだったけど……私と一緒にいるときのような、心の底からの笑顔だった。