私の大事な一番の友達
「そうだ、旭。メイク直してあげるよ」
ティーカップに口を付けた旭が私の言葉に目を見開いた。それが怯えなのか困惑なのか、はたまた疑問なのかは分からなかった。でも、少なからず旭がかわいくなることを拒絶していることは明らかだった。
「涙で崩れちゃってるから。直してあげるよ」
「えぇ!? 嘘……私、今すっごい変な顔になってる? 鬼婆みたいになってたり……」
「なにそれ。そこまでじゃないよー」
私は微笑みながら旭の頬に触れて、髪の毛に指を通して優しく撫でる。ビクッと旭の肩が怯えるように震える。
「このくらいなら落とさなくても直せるね。待ってて」
「うん……」
化粧棚から必要なものをあらかた持って、旭の正面で膝立ちになってずいっと乗り出すようにして顔を近づける。
「御子柴、近くない?」
「でも、近づかないと上手くできないから。あ、マスカラ塗るから目は開いててね」
マスカラは崩れていなかったけど、瞳を除いていたかったから塗りなおす。
顎を指で撫でて、少し上を向かせて目を閉じさせれば、旭の整った顔立ちが一層映えて、胸がときめくのを感じた。
「ねえ、御子柴。私、メイク似合ってるかな」
「うん。似合ってるよ」
旭が不安げな顔でごくりと唾を飲み込む。じっと真剣な表情で私を見据えて、震えた声で繰り返す。
「本当に似合ってるのかな……」
私は私がどんな表情をしているのか分からなかった。ただ怒りだけが沸々と湧き上がって、苛立ちで奥歯に痛いほど力が入る。
「あのクソ男……」
私の微かな呟きを聞き取ったか、旭は怯えたように顔を引きつらせる。
「御子柴……?」
「ごめん。私、許せなくて……旭は可愛いよ。私、旭のこと、かわいい女の子だなって思ってるよ。守ってあげたいって」
私は旭の肩を抱き寄せて、優しく頭を撫でる。きっと旭はこうされることを望んでいるから。女の子として優しくされることを。
「ありがと。私の話、聞いてもらってもいいかな?」
「うん。旭のことならなんでも聞きたいな」
「暗い感じになっちゃうと思うけどいい? 引かないでね?」
「大丈夫だよ。旭のことなら、どんなことでも私は受け入れるから」
旭は私がそう言うと、自嘲気味に苦笑いを浮かべて話し出す。
「こんな見た目だから、女らしくないってよく言われることは知ってると思うんだけどさ。わざわざ男っぽい恰好を選んでるのにも理由があってね」
旭は私から眼を逸らして、語る。
「さっき会った壮太、幼馴染なんだけど……昔、好きだった。というか、初恋だったんだけど、さ。私の片思いでずっと好きだったんだけど、向こうは私を男友達みたいに扱ってて……」
今、旭の話を聞いているのは私で、旭の心を支えているのは私のはずなのに。
「あいつ、私が女の格好するといつも突っかかってきてさ。おしゃれとかするとすっごい悲しそうな顔するんだよね。馬鹿だから、私が女の子たちに取られたって思ってるんだよ。仕方ないから、女の子とも全然遊ばなくなってさ。そのせいで私、友達全然いなかったんだよ?」
旭はぽつぽつと涙を流しながら、流れるように言葉を吐き出す。もう自分では止められないようで、胸の奥底に溜まっていた感情を余さず私に話してくれているんだ。
「酷いよね、あいつ。一緒に水泳部入ろうって約束してたのに、黙ってサッカー部入っちゃうし。中学では、話しかけてくれなくなったから、全然話せてなかったし、仕方ないのかもしれないけどさ。話してくれなくなったのもきっとあれだよ。私が制服のスカート履いてたからだよ。ほんと、ばか……」
なんだか悔しい。今、旭の目の前にいるのは私のはずなのに、旭の話を聞いているのは私のはずなのに、旭はまるで私を見ていない。
「馬鹿……壮太の馬鹿! ほんと馬鹿だよ。私が好きだって、気づいてるくせに私に酷いことばっか言ってさ。迷惑かもしれないけど、好きなんだから仕方ないじゃんか……私だって、女なんだから。かわいいって、言ってもらいたかったのに。好きな人に男の格好してろって言われたら、そうするしかないじゃなんか……」
なんで。なんでなんだろう。なんで、そんなに辛い思いをしているのに。私といて笑ってるときより、辛くて泣いている今の方が女の子の顔をしているのが、私は悔しくて仕方なかった。
「そっか……でも、それでも旭は壮太くんにかわいいって言ってもらいたいんだよね」
「うん……かわいくなりたい。壮太が認めてくれるくらい、かわいくなりたいっ!!」
旭は、ぶんぶんと勢いよく縦に頭を振る。涙を堪えるように、唇を噛みしめて。なんでこんなにも強くなれるんだろう。私も、私だって、旭のことが好きなのに。私はきっと、旭のように強くはなれない。
協力するよ。私に任せて。そう言うつもりだった。でも、
「旭は、私じゃだめなの?」
「え……と?」
旭のきょとんとした瞳が私に突き刺さるような気がして、ようやく私は自分が無意識に放った言葉の意味を理解する。
「いや、違くて。えっと、変な意味じゃなくて……」
焦って誤魔化そうとする私に、旭は目を向けて苦しそうに笑った。
「ダメなんだよ……」
「なんで……なんでっ!」
きっと今、私は泣きそうになっているんだと思う。自分のことが何も分からないくらい、感情が渦巻いていて、私が何を考えているのかは私にも分からなかった。
「きっと今も好きなんだと思う、壮太のことが。ううん、たぶんこれからもずっと」
頬を赤らめて俯く旭の姿が私の感情をかき乱す。顔が歪んで上手く笑えない。声が上手く出なくて、手も落ち着かなくて震えだす。
「そっか……」
私が協力して、旭が報われたとして旭の気持ちが私に向くことは無い。旭はあの男のものになって、きっと私とは疎遠になっていくんだろう。
旭が報われなかったとしても、旭はきっとずっとあの男を想い続ける。私はずっと旭に寄り添って、永遠に実らない恋に胸を痛め続けるのだろう。
「御子柴……? ねえ、ちょ――――
私はどうすればいい。
「ねえ、どうしたの? 怖い……御子柴ってば!」
旭の腕は細くて、陸上部の女子の先輩たちと比べれば筋肉も全然付いてない。肩は細くて、脇からお腹へなぞるように指を這わせればそのラインが紛れもなく女性的な身体であることは分かる。
「やめっ……気にしてるって言ってるのに、酷いよ……」
涙ぐんだ表情は扇情的で、抵抗するように私を押しのけようとする手は嗜虐心をくすぐる。
「御子柴……私、友達だと思ってたのに。御子柴のこと、信頼してたのに。なんで……」
頭が熱くなって、旭の腕を掴む手に力がこもる。感情のままに力を込めて押さえつけて、唇を奪う。
「あうっ……ん……っ」
次第に抵抗する腕から力が抜けていって、旭のすすり泣くような声だけが私の耳に届いていた。
その日の夜。
私のスマホに旭から着信があって、何かをしゃべれるような気がしなかったけど、でも私はその着信に出るしかなかった。
旭のまるで何もなかったと言わんばかりの嬉しそうな声色が聞こえて、
『御子柴には伝えなきゃいけないと思ったから……私の大事な、一番の友達だから……』
私は何も言えなくて、無言でスマホを耳に当てて旭の声を聴いていた。
『壮太がね。家の前で待ってて、今日は悪かったって謝ってくれて。私のこと可愛いって言ってくれてさ。それで――――』
私は皺が付くことも憚らずにぎゅっと胸元を力いっぱい握って、涙を流しながら、
「よかったね、旭……」
その一言を、なんとか絞り出した。