旭が望んでいるもの
私は走る。
色とりどりのドレスが並んだショーケース、ハイテンポな音楽と煌びやかなシャンデリア。
異界の言葉を話す顔のない黒い影がずるりずるりと這いまわり、きっと私を見つければ襲い掛かってくるだろう。
彷徨うように逃げ惑い、見えない沼に足が取られて転びそうになりながら目の前の壁によりかかるようにしてようやく立ち止まる。
そこは果てだった。私の存在が似合わなすぎるあの通りを抜けた先にある冷たいレンガでできた駅の壁。
喉奥から絞り出すような嗚咽。弱弱しくて今にも消えてしまうんじゃないか。そんな不安を感じるほど、か細い声だった。
「旭……」
誰かが私を呼んだ。
その声は最近よく聞く声だ。気づけば一緒に着替えるようになって、気づけば一緒に帰るようになった。気づけば絶対に来ないだろうと思っていた場所にまで私を連れだしてしまった声だった。
「ねえ、御子柴……」
私は涙を拭って顔を上げる。
きっと御子柴にとっての私はこんなことでくじけてしまうような女の子ではないから。
「今、私って女の子に見えるかなぁ」
その返答は、私の頭を撫でる優しい手が教えてくれた。
ガタン、ガタン、と反芻する音。
傷だらけの心に解け落ちて、孤独を突き付けてくるかのようだと、初めてそれに乗ったとき私は思った。
だから私は、俯く彼女の手を握る。
「旭、次だよ」
私はそう言って、電車に揺られる女の子の顔を覗き込む。
涙の跡なんて付いていない。必死で堪えて、零れ落ちる前に拭い続けたのだろうか。自らのコンプレックスと戦い続けて、それを隠し続ける。
きっと泣いて叫んでしまえば楽になれると皆は言う。でも、それがしたくてもできないことを分かってあげられるのは、きっと自分自身だけなのだ。
「2駅だとすぐだね」
旭は覇気のない笑みを作って、私を安心させるために笑う。
――――私の家、来ない?
なんでそんな提案をしたのか私でも分からない。でも、旭をここで帰らせるのはダメだと思ったのは、正しい判断だったと思う。
「歩ける?」
「なにそれ。歩けないわけないじゃんか」
旭が喋る度、浮かべる笑顔がどこか悲しくて、なぜか私が泣いてしまいそうだった。いっそのこと、旭の心に刻まれた傷を私が肩代わりして泣いて上げられれば良いのに。
私にとって見慣れたはずの駅から家までの道は、隣に旭がいるというだけでどこか新鮮だった。
家に近づくほどにドキドキと胸が高鳴って、なんだか楽しくなって足が進むのが早くなる。
「ここ?」
「うん。学校ではお嬢様って噂されてるけど、家はそんなでもないでしょ?」
「確かにお嬢様って感じではないかも。でもいいお家だなって思うよ」
「でしょう! えへへ」
私は家の門を開けて、旭についてくるように促す。
「おじゃましま~す……」
「もー、まだ門潜っただけじゃん。怯えなくていいよ」
「ご、ごめんごめん。親御さんに挨拶しないとと思って……」
借りてきた猫のように縮こまって、きょろきょろと周囲を気にする旭の姿が、どこか小動物のようでかわいい。まったく、私を助けてくれた度胸に溢れたイケメンさんはどこに行ったのやら。
「お父さんもお母さんも帰り遅いから、今は誰もいないよ。な、なんて」
「そっか、2人っきりだったか」
「そう、2人っきりだよ……」
きっと旭にとっては何気ない会話だ。それでも、なぜだか私は心臓が締め付けられるような高鳴りを感じた。
旭が緊張を払うように後ろ髪を抑える動作に、私はなぜだか頬を赤く染めて。それが気づかれないように慌てて鍵を回して家のドアを開ける。
「えっと……私の部屋2階で。付いてきてください」
「うん」
部屋に近づくほど鼓動が早くなる。いつも見慣れているはずの廊下、何度も歩いて、何度も上った階段。いつも当たり前のようにそこにいたはずなのに。自分の部屋に入るという行為になぜここまで胸を高鳴らせているのか。
私は魔王城の最後の扉を開けるような面持ちで、その扉を開けた。
「案外片付いてるね」
「えっ、案外って何さ! 真面目っぽいでしょ私!」
不服なことを言われて、咄嗟に旭に向かって振り返って、私ははっと息を詰まらせる。
入り口で立ち止まった私の後ろから部屋の中を覗き込むようにしていた旭の顔が、振り返ればすぐそこにあった。
「だって、御子柴みたいなタイプって案外抜けてたりするじゃん。ドラマとかでもだいたい美人には欠点があるでしょー……ん? 御子柴、どしたの?」
背の高い旭は私が見上げるような形で、私のおでこの先に旭の口があって、本当に感じたわけでもないのに吐息が感じられるような気がして、頭が沸騰するかのように溶けていくのを感じた。
「ふあ……/// ご、ごめん!!」
「え、なにが……?」
私はすぐに距離を取って、あたふたと小刻みに飛び跳ねながらクッションを引っ張り出してきて旭に差し出す。
「座って……! 座っててね!! お茶淹れてきます!!」
「うん。いや、分かったから。御子柴はなんでそんな慌ててるのさ」
私はすぐに部屋から飛び出して、扉を勢いよく閉める。壁にもたれかかり、ずずーっと座り込む。赤くなった顔をごまかすようにうずくまり、胸のときめきを溜息に誤魔化して吐き出す。
やばい、やばい、やばい。
なんでこんなに心臓がドキドキするんだ。普段、旭といて、好きだなとか、かわいいなって思っているのとはどこか違う。
いや、なんでなのかは分かってる。意識してしまったのだ。
リップを塗るために、旭が目を閉じて私に唇を差し出しているとき、
――――いつか、私は恋人の唇にキスをするのだろうか
旭を私の家に誘ったとき、
――――いつか、私はこんな風に恋人を家に招くのだろうか
私の脳内には、私を助けてくれた旭の姿が深く刻まれていて、旭のことを見るたびに、考えるたびに、私はその姿を思い起こす。
「御子柴……? 大丈夫?」
「あっ、違うの! 今から行くから!!」
「急がなくてもいいからね」
「ありがとう……」
部屋を出てすぐにうずくまったのはバレバレだったようで、私は恥ずかしさをごまかすように足早に1階のキッチンに向かった。
「これが、恋なのかな……」
もしかしたら病気なんじゃないかってくらいの胸の鼓動。苦しくて、息が詰まるようで、なのに心地いい。幸せと言うのはこの苦しさのことを言うのかもしれない。
「恋なんてしたことないから、分かんないな……」
恋、というものは一般的には男の子にするもの、なのだと思う。私は男の子にこんな胸の高鳴りを覚えたこともないし、恋なんじゃないかって思うこともなかった。でも、友達として好きだって思うことは沢山あった。普通に会話するし、一緒にいて苦ではないし、楽しく遊んだりもする。告白されたこともあった。
一度だけ中学の時に付き合ったことがあって、そのときは碌にデートとかもしないまま別れた。私からは好きだって気持ちが伝わってこないからだとか。私は友人として彼のことは好きだったけど、たぶん恋人として好きになれなかったんだろうなって思う。
――――じゃあ、旭が恋人だったら?
私は頬が収まらないほどにやけていることに気が付いて、パシッと頬を叩いた。それでも治らないから、ぐにーっと引っ張ってみて、むにむにと解してみるけどダメだった。
「これが、恋人としての好きってやつなのかな……いやいや、付き合ってないし! 何言ってんだ私!!」
気づけばお盆の上にはお茶だけじゃなくて、お菓子が綺麗に並べられていて、ちょっとしたオブジェのように積み上げられていた。
流石にこれ以上待たせるのも悪いし、部屋に戻らなければいけない。でも、なんだか落ち着かなくて、ここの角度が気に入らないだとか理由をつけて居座ってしまう。
「うー……変だよ私。あー、もうっ!」
覚悟を決めて、お盆を持って階段を上がる。
すると、階段を昇り終える前に、足音を聞きつけた旭が部屋の中から顔を覗かせる。
「御子柴! ずいぶん長かったけど大丈夫?」
私に向けられた心配の表情。
ずっと考えていた妄想がよぎって、びくりと驚いたように手が跳ねた。
「あっ……」
つるん、と階段の段差で足が滑るのが分かった。反射的に態勢を整えようと後ろに重心が傾いて、身体を支えようと踏み出した足は踏ん張りがきかず更に滑る。
視界が一気に天井を向いて、お尻が引っ張られるように落ちていく感覚、背中から倒れることが嫌でも分かった。
私はこの後くるだろう衝撃に耐えるように目をつむり背中を丸める。
「御子柴!!」
鋭い声が私の耳を貫く。
「えっ――――」
がくんっ、と揺れた。
つま先が階段の正面に突っかかって、斜めに傾いた状態で制止する。
恐る恐る目を開けば、背中から階段の下へ落ちようとする私の腕を掴んで、必死な顔で抱き寄せる大好きな人の姿があった。
「私に捕まって……ほら、立てる?」
「旭っ……旭ぃ」
引き上げられた勢いのまま私は旭の胸の中に飛び込む。
「ありがと、旭。私……ほんとうにありがと」
「もう……やっぱり抜けてるとこあるじゃんか」
旭の身体は、私が知っている男の子の感触ではなくて。紛れもなく女の子の身体だった。
柔らかくて、ふっくらとしていて。胸はごめんだけど全然大きくないけど、やっぱりそこにあって。筋肉も付いてるなって思うけどごつごつしてないし、なんだか暖かくて包み込まれるような感じ。
「旭の身体って、やっぱ私は好きだな」
「急になんなのさ。あ、お茶無事なんだね。奇跡だー」
「ほんとだ。ふふっ、旭のおかげだね」
私は旭に笑いかける。その笑顔はもう友達に向けるものじゃなくなっていた。
頬が赤らんで、きっと上目遣いの瞳は潤んでいて、男の子相手なら誰だって落とせるような。こんな表情が簡単にできちゃうなんて、自分は女の子なんだなと自覚する。自分の恋心を伝えるために、誰かを恋させるために、笑う。これが旭の望んでいる女の子なのだなと初めて気づいて、私はなおも笑う。
「じゃあ、お部屋入ろっか」
私のその媚びるような声は、もう私じゃないみたいだった。