恋する人魚と消えない魔法
彼の姿を見た瞬間、心臓が跳ねた。
神の悪戯だとか避けられない運命だとか、そういうのがあることは私が生きてきた17年と2ヵ月余りでなんとなく察していた。
どれだけ歩み寄ろうと仲良くなれない友達は、私がつい零してしまった陰口を聞いているし。私がどれだけ頑張ろうとプライドの高い彼女たちが受け入れてくれることもない。私がどれだけ枕を濡らしていることを知っていようと、友人の視線は私の胸元に吸い寄せられる。別に今となっては“そういうもの”という言葉で片付けられてしまう思い出。
だから、目の前の存在に、解せない、だとか。遺憾だ、だとか。そんなことは言わない。言いたくない。
だって、今までだってそうだったんだ。私が自分を変えることを願うたび、私が可愛いものになりたいと努力するたびに、彼は私の目の前にいるのだ。
美しい歌声を捨てて、陸を歩くための脚を望むたび――――恋の魔法はその身を呪うのだ。
「そう……くん」
目の前にいるのは私の幼馴染だった。
3歳か4歳くらいの時にこちらに越してきて、それ以来小中高校と縁がある腐れ縁。小学生の時に一緒に遊んでいて、スイミングスクールに通っていた男の子。
「おっ、御子柴じゃん」
6人の私服姿の男子、その中の一番後ろを歩いていた男子がこちらを振り返り、隣にいる御子柴に目線が行くと、笑顔を浮かべて御子柴の名前を呼んだ。
他の男子も“御子柴”に気づいて足を止めると、私たちの方へ寄ってくる。
男子たちは御子柴の私服姿を眺めると、チラリと私の顔に視線が向いた。私の存在を思い起こすために記憶を遡るような、あるいは私だと認識できたうえで学校との違いに困惑するような視線。
壮太の怪訝そうな視線が私の顔に突き刺さって、下へ。私が普段は着ないような御子柴が選んだ女の子の服へと滑り落ちる。
息が詰まるような心地だった。
「今度こそ……って、私……」
水の中で息が続かなくて苦しくなるより、ずっと怖くて、冷たい感触。氷の指先で心臓をわしづかみにされているような、無理やり手足を縛りあげられて支配されているような圧迫感。
「壮太君。こんなところで奇遇だね。みんなは部活の集まり?」
「ああ。部活午前で終わったんだ」
壮太はもう私に視線を向けようともせずに、御子柴とにこやかに話しだす。改めて御子柴が男子に人気があるのだと思い知る。
壮太の私と話す時とはまったく違う声色。仕草や呼吸までまるで違う。
私は無意識に顔を俯ける。なんだか惨めだ。認めたくない、壮太が私の初恋だということを。それ以上に、御子柴に少しだけ嫉妬している自分を。
小さな笑いが起こって、碌に話の内容が頭に入っていなかったけど釣られて私は笑みを浮かべる。
同じクラスの小林くんが、少し輪から距離を取る私の顔をじーっと見てくると思えば、申し訳なさそうに口を開いた。
「あんさ、御子柴さん。友達の子って2組の子? 俺、たぶん初対面だなって」
一瞬、小林が何を言ったのか分からなかった。御子柴の友達というのはたぶん私で、2組と言うのは壮太や御子柴のクラスで、でも小林くんと私は初対面ではない。なんならサッカー部男子と言うのは遠慮がないものなのか、私の貧乳を弄ったりしたことすらある。
「え……えぇ……」
私は呆れたような声を出していた。呆れ果てて、呆れすぎて、小林の視線が遠慮なく私の身体を舐めるように見ていることすら許せてしまうくらいに。
「馬鹿林がよ……こいつ旭だって。お前がいつも貧乳って馬鹿にしてる湊谷旭」
「はぁ!? 嘘だろ!? えっ、あっ……言われてみれば、かなり旭だ。うわー、旭じゃん……」
私はちょっとむっとしながらも、どこか嬉しくて。はにかみがこらえ切れず頬が緩んで満面の笑みになって、意地悪ににんまりと笑う。
「ふふん。どーだ、小林ぃ。私だって女子なんだぜ?」
小林は頬を赤らめて口をパクパクと動かす。
どーだこれが御子柴のコーディネートとメイクの力だ。女の子ってのは化けるんだ、思い知ったか馬鹿男子。
馬鹿林と違い私が湊谷旭だと分かったクラスメイトの水無瀬はやれやれと苦笑いを浮かべて小林を小突く。
「ごめんな、旭……さん。こいつ知っての通り馬鹿でさー」
「さん……?」
「……いや、その。なんかむっちゃ女子だから……つい。てか、なんか態度も女っぽかったし、ずりぃだろそれ!!」
「ふへっ、なになに? その反応うけんだけど。照れんな、照れんな」
なんだろう。無茶苦茶楽しい。
私は女子なのだ。男子に揶揄われたり、友達感覚で話しかけられたりするような存在じゃなくて。なんだか近づきがたいような、親しくとも距離を取ってしまうような存在なのだ。
私はそっと御子柴の耳元に顔を寄せて、
「ありがとう」
と囁いた。
御子柴はぱっと嬉しそうに表情をとびっきり明るくして、にへらと私に笑って見せる。
私はそっと幼馴染の壮太の方に視線を向けた。
この時の私は、人生で一番、今までにないほどに調子に乗っていた。理想の自分になれて、誰だろうと私を否定することはできないと思っていた。
「いや、似合ってねえだろ……」
私は自分の顔が引きつるのが分かった。
「えっ……そ、そんな照れなくてもいいのにー。なんて、あはは……」
「は? きっつ……」
心臓がぎゅーっと締め上げられて、貧血のときのように視界から色が失われていく。
「旭、お前って昔っから空気読めないよな……普段、男みたいなやつが女の格好してたらそりゃ驚くわ」
波が引いていくように、静かな音を立てて頭の血が引いていく。まるで夜の海を眺めているような、足元の覚束ない心細さ。まるで私がここにはいないような。壮太の言葉も、私の言葉も、全部他人事のように聞こえた。
「そんなの分かってんじゃん。分かってるよ……」
壮太は詰まんなそうに鼻を鳴らすと、もう私には興味がないと言わんばかりにそっぽを向く。
――――なんで、そんな酷いこと言うの……?
「旭、大丈夫……?」
御子柴の心配そうな瞳がこちらを覗き込んでいた。自分が傷付いたわけでもないのに、悲しそうな顔をして、お節介に壮太への怒りすら抱いてる。
「……何が? こんなのいつものことだしなぁ」
涙が溢れそうな暗い何も見えない海底で私は先の見えない海流を必死に泳ぐんだ。
「ばーか、似合うと思ってやってねーよ。御子柴が得意っていうから1回やってみたんだよ。やっぱ私は男みたいなのが性にあってるみたいだ」
「当たり前だろ。だってお前考えてもみろよ。あの旭だぜ? 女装してるみたいでまじきもいわー」
「あははっ、だよなー! って、きもいは言いすぎだろー! これでも一応は女子だっつの!」
「ははっ、一応な。一応」
壮太は上機嫌に楽し気な笑みを浮かべたかと思えば、軽口を叩きながら私の肩に腕を回す。
「あー、言ってなかったっけ? こいつ、幼馴染でさ。ちっさい頃から男みたいでよ」
分かってた。どうせ壮太には男友達のようにしか思われていないってことは。
意識していたのは私だけで。見向きもされていないどころか、かわいくなろうとすると気持ち悪がられる。分かっていた、全部。
どうせこうなるんだって。どうやったって無駄なんだって。
人魚が陸で住めないように、ペンギンが空を飛べないように、私はかわいい女の子にはなれない。
私がどれだけ努力しようと壮太に認めてもらえないように、どれだけ時が経とうと戦争は終わらず、給食を残さずに食べたとしても貧困に苦しむ子供たちが食事に有りつけるわけではない。
魔法があるのは御伽噺の中だけで、海の中には夢のような世界などなくて、ただただ深い闇だけが広がっている。
「旭、お前飯食ってないよな? 俺たち今から飯食いに行くんだけど、久々だしおごってやるから――――ん? 旭? どしたお前」
「私、もう帰るとこだったんだよねー」
「おい、ちょっ!? 待てって!! 御子柴置いて勝手に帰る馬鹿がいるか!」
私の身体はもう私にも制御できていなかった。
背を向けたくて、ここに居たくなくて、その一心でがむしゃらに足を動かして。
御子柴が引き止めるように何かを言ったような気がしたけど、私は足を止められなかった。振り返るわけにもいかなかった。こんな顔を誰かに見せられるわけなんてなかった。
「御子柴さん。旭ちゃん、いきなり走ってっちゃったけどどうしたの?」
「……あ-。なんか、門限? 旭ちゃん家きびしいんだよねー」
「門限って……」
怪訝そうな顔を浮かべる男子たちなど意識に無く、御子柴は旭が走り去っていった方向をそわそわと気にしていた。
「旭、追いかければ?」
「……最低。分かってて言ったんだ」
「だけど。それが」
「私、あなたのこと嫌いになった」
壮太は面倒そうに目を細めると、追いやるように手を振って御子柴にさっさと行けよと促す。
「御子柴、はっや。陸上女子すげー。てか、2人帰っちゃうのかよ」
「お前らの顔がお好みじゃないってよ。残念だったな。ほらさっさと飯行くぞ」
「おいおい、ひでーって! 絶対、壮太のせいじゃん」
「うるせぇ。俺にも、色々あんだよ……」