綺麗なあなたと
どこまでも透き通った海の中、私はぼんやりと水面の向こうにある空を眺めて海底を漂う。こぽこぽと私の鼻先から漏れ出す、泡が水面に辿り着いて波紋になって広がる。
微かな海面の揺れを眺める時間は、ランチを終えて木漏れ日の下で寝転んでラジオの音だけが聞こえるような心地の良い時間と似ている。
息が苦しくなる前に、自然と私の身体は水面に浮き上がって今度は直接空を眺める。
ゆっくりとした足の動きでプールサイドまで仰向けのまま泳いでいき、頭を打つ前に指先で迫る壁を受け止める。すると、プールサイドから私の顔を覗き込む顔があった。
「高木さん、どうかした?」
「うちはそんな熱心にやる人がいないから、潜水自体は危なくないし構わないんだけど。あなた息が続きすぎるから、もう上がってこないんじゃないかって心配になるのよね」
「あはは、気を付けるよ」
どこか吹っ切れた私は水泳部に所属した。決め手は男子水泳部が完全に名前だけのものになっていて、女子水泳部が完全にプールを占領していたことだった。
うちはスポーツに力を入れている学校というわけでもなく、特に水泳部に関しては酷いもので幽霊部員ばかりだという。大会に興味のない私にとっては、放課後に自由にプールを使える権利があるというだけの部活の状態は、むしろ好都合と言えた。
プールサイドでばしゃばしゃと足だけ水に付けて遊んでいた一年生たちが、私たちのもとにきゃっきゃと騒ぎながら寄ってくる。
「湊谷せんぱーい! 彼女さん、来てますよー!」
「だーかーら、私も女の子だってば! もー!」
私はむすっとして、ばしゃっと一年生たちに水を飛ばせば、一年生たちはきゃーっと楽し気な悲鳴を上げて逃げていく。
「えへへ、ごめんなさーい。湊谷先輩かわいー」
「はいはいっと」
私はプールサイドに上がって、上着のパーカーを羽織って、プールを訪ねてきた女子に手を振る。
「御子柴。陸上部終わるの早かったね。着替えてくるからちょっと待ってて」
「うん。その……大丈夫?」
「……? ああ、一年生に私が彼氏呼ばわりされてること? 別にいいんだよ、御子柴に話せてもう私は割り切れたからさ」
割り切れたといっても、やっぱり見られるのは嫌なのでパーカーを羽織っているのだけど。そして、そのパーカーがイケメン的な方面で似合いすぎていて一年生たちに妙に受けた結果がこれだった。私の容姿に加えて、御子柴と二人で着替えているうちに、向こうは名前でこっちは呼び捨てで呼ぶくらい打ち解けて、一緒に帰る約束をするくらいには仲良くなったので、カップルネタにされても仕方ないと思う。
「そっ……か」
「御子柴……?」
なんとなく御子柴の表情が暗い気がして、私は眉を顰める。
「なんかあった……?」
「ううん。大丈夫」
にっこりと笑う御子柴に何かあったことは同族の私にははっきりと分かってしまって、困った私は首の後ろを摩りながら、迷った末に提案してみる。
「あー、更衣室一緒に来てよ。着替えるときに一人だとそれはそれで落ち着かないし」
「いいの? 旭が良いなら私はいいんだけど」
私は、御子柴に後ろを向いてもらって着替える。
凹凸のない、男のような身体。顔つきも中性的で、髪を短くしているから、高校生にもなって男の子と見間違えられることも少なくない。
「御子柴。ここでなら、言えたりしないかなって……」
「うん。ありがとう、旭ちゃん。でも、大丈夫だから、気にしないで」
気にしないでと言われると、余計に気になるものだ。それに、なんとなく予想は着く。
「御子柴は恥ずかしいって思ってるかもしれないけど、私は御子柴の身体羨ましいって思うよ。肌はすごく綺麗だし、女の子らしいし」
私はそっと御子柴の方を盗み見ると、肩がふるふると震えて、今にも泣きだしそうなほど弱弱しかった。
「御子柴は私の理想なんだ。だから、そんな風に卑下しなくてもいいよ。恥ずかしくなんてないから」
「恥ずかしいよ! 私の身体はえっちだから、みんな! 私はそんな気はないのに、誘ってるとか、身体を売ってるんだとか言われて!! こんな汚い身体要らないよ!! 私も、旭みたいな身体だったら、走ることを諦めなくて済んだのに!!」
御子柴は振り向いて私に食い入るように迫って、泣き顔を私にさらす。頭が煮えるような、息が詰まるような動悸をこらえて、私は御子柴の背中を摩ってなだめる。
「ごめん……でも、私には、御子柴の身体は綺麗に見えるから。初めてここで、見たときも、その前からずっと綺麗だって思ってた」
ぎゅっと御子柴が私の肩を掴む。力強くて、皮膚に食い込むほど力強く掴まれる。
「そんなことない。汚いよ!!」
「汚いわけない! 御子柴は誰よりも綺麗だよ! 可愛くて、女の子らしくて、私の憧れなんだ。汚いわけないよ……」
御子柴は徐々に落ち着いて、私から離れるとすとんと椅子に座って、すすり泣きながらポツリポツリと言葉を漏らす。
「私を目当てに男子が陸上部の練習を見に来るの、知ってる?」
「知らない……ごめん」
「大丈夫。それでね。私が走ると、その胸のせいで色々言われるから、女子たちに目の敵にされちゃってるみたいで……だから、今日は陸上部さぼってきちゃった」
寂しそうに語る御子柴に、私はかける言葉が見つからなかった。
私は泳ぐことは好きでも、競技として水泳を好きな訳じゃなかった。きっと、タイムを追い求める人間にとっては、私のような手足が長く水の抵抗が少ないスレンダーな体系は喉から手が出るほど欲しいものだろう。
気ままにスポーツをしてきた私に、御子柴の気持ちが分かるはずもないし、彼女にとって恵まれた身体はまさしく私のそれ。そんな私が何を言っても、皮肉にしかならないだろう。
「ねえ、旭。私の身体、見る?」
「え……?」
御子柴がそう言いながら、制服のリボンを外す。しゅるりと音を立てて取り除かれたリボンは、静かな音を立てて床に落ちる。
「御子柴? な、何を言って……」
「旭が綺麗だって言うなら、見てほしいの」
普段は音なんて聞こえないような、ボタンを外す音、スカートのチャックを下ろす音ですら耳に残って私の心臓の鼓動を加速させる。
御子柴は唇を噤んで、微かに震えながらセーラー服を床に落として立ち上がる。
「私たち、女同士だから……あれ? 別におかしくないのかな? あれ? あれ??」
私の思考がまとまらないうちに、立ち上がった御子柴のふとももを滑り落ちていくスカート、黒いキャミソールの肩紐に指先がかかる。
「ねえ、旭。私、綺麗かな?」
「綺麗だよ。すごく」
御子柴は微睡むような蕩けた表情でのぼせたかのように顔を真っ赤に赤らめながら。
その時、ガチャリと更衣室の扉が開く音がした。
「――――ッ!! 御子柴っ!!」
「ひゃぅ――――っ///」
私は慌てて御子柴のスカートを上げて、ちーっとチャックを閉める。その間に、御子柴は慌ててセーラー服に首を通す。
しんと静まり返る更衣室。
隣の更衣室で、ごそごそと音が聞こえて、高木さんか一年生たちが何かを探していたのだろう。すぐにまた扉が開く音が聞こえて、プールの方へ向かっていった。
「そういえば、こっちは使ってないんだった……」
私は、ほっと胸をなでおろして、御子柴を見る。
スカートはふくらはぎ辺りで止まっていてパンツは見えてるわ、腕が通ってなくて簀巻きみたいになっておっぱいが潰れてるわ、タイは曲がっているわ。散々な姿の御子柴を見て私はぷっと噴き出す。
「ふふっ、確かに綺麗とは言えないかもしれないかな」
「ちょっと、旭! 笑ってないで助けて~! これ、動けなくて苦しいの!」
もうこの日は御子柴が身体を見せるだなんてことは言いださなかったけど、私はなんだか悶々とした解消のしようがない感情を胸に抱いて、家に帰ってからもなんだか落ち着かなかった。