男みたいな私は
深い青の世界に差し込んだ光は、木々の隙間から差し込む陽射しのように揺蕩い。クジラになった私のヒレの下をガラス玉の魚群が過ぎ去っていく。
透き通った世界も私にはどこまでも青く見えた。然と進みゆく私という存在を、遥か彼方へ運んで行ってくれるような幻想の世界。
指先がコツンと何物にも打ち破れぬ世界の壁に触れて、私は頭を上げて足を着く。
クラスメイトの歓声が沸き上がって、仲の良い友達が嬉し気に頬を緩ませて駆け寄ってくる。
「旭! 学年一位だって! 水泳部の高木さんにも勝っちゃったよ!!」
「いえーい。やったぜい♪」
昔から泳ぐのは好きだった。水の中に入ると自分が自分ではないものになったような幻想的な世界に潜り込めるから。そこでの私が本当の自分であるように感じられるから。
にっかり笑顔でピースサイン。名残惜しく水中に足を浮かせて、肘を陸に付けてカニのポーズをして見せる。
「ほんとその才能惜しいわ。湊谷さん、今からでも水泳部に入らない?」
「ありがとう高木さん。でも私は泳ぐのは好きだけど、競いたいわけじゃないんだ」
「そうなの? うちは顧問があれだから練習もお遊びみたいなものだから、放課後に遊びに来る感覚でプールに来てくれればいいし。誘い続けちゃうだろうけど、大会は気が向いたら出るで構わないし」
「ん。それは魅力的だね。考えとくかな」
もう二年生の夏だけど、部活動に所属していない私を水泳部の高木さんはプールの授業の度に勧誘する。一年生のときも同じクラスで、プールの時間に見た私の泳ぎがあまりにも優雅で綺麗だったからとかなんとか。確かその時はマンボウだった。
中学校には水泳部が無くて、スクール通いだったから競うことは沢山あった。だから、別に競うのが嫌いなわけじゃない。むしろ、イルカの競争みたいで一斉に並走して泳ぐのも気持ちいいと思えた。一番になるのは心地よかった。でも――――
陸に上がろうと、魚の尾ひれになっていた足をプールの底に着いて、
トンッ、と軽く小突いて跳びあがった。腕を伸ばして陸の重力にさらされた身体を支える。梯子を使うのは面倒なので、その跳びあがった勢いのままプールサイドに這い上がろうとしたのだ。
ふと、その言葉が耳に入る。
「うわー、男子どもこっち見てる」
「もう、堂々と見やがってエロガキどもが」
ボトン、と私は水に堕ちる。
「旭……? どうしたの?」
「あ、いや、なんか力抜けちゃって」
心配そうに私を見下ろす友達にへらっと笑みを浮かべて、大丈夫とアピールする。
「どーせ、御子柴の巨乳を見に来てんだろ」
「ちっ、後でしばくかー?」
クラスのギャルみたいな子たちが、グラウンドで体育をしている男子たちを見てぎゃははと楽しげに笑う。
昔、初恋の男子に女に見えないと馬鹿にされた。別に悪気がないことは分かってる、見たままを言っただけだ。
健康的で贅肉の無い、凹凸のまるでない身体。手足は長く、背丈は男子にも引けを取らない。顔も堀が深くて昔から男っぽい。せめて、髪くらいは長くしようと思ったけど、合成写真みたいで気持ち悪くて止めた。
今でも男子に時折揶揄われるが悪気はないのだ。女友達には好評で、イケメンだと持て囃すものだから、弄っていいという風潮が出来てしまっただけ。
「…………」
気づけば、御子柴と言う女子の胸を食い入るように眺めている自分に気が付いて、空しくなって顔を伏せて陸に上がる。
どうせ、男子たちは男みたいな私の身体なんて見ていないのだから、気にしなくていい。それは救いのようでいて、少しづつ私の心を蝕んでいた。
視線を避けるようにプールサイドの端で縮こまっていれば、あっさり授業は終わってプールサイドから引き上げて、着替えのために更衣室に入っていく。
タオルで隠して着替えても分かる女性らしい身体のライン。私の身体にはタオルが引っかかりにくいのが最大に皮肉だった。
「旭……! 旭、ちょっと!」
「……? どうかした?」
「なんで泣いてんの!? 目、真っ赤だよ!?」
「え? えぇ!? おかしいな。なんでだろ……」
私の心を蝕むそれは、私の知らぬ間に巨大なシミとなって私の心の海を黒く濁らせていたようで、私にはその雫を止めることなんてできなかった。
「ごめんっ! ちょっと、違うとこで着替えてくる」
「旭!?」
私は涙を収めることは諦めて、着替えを抱え込んで更衣室を出る。なんとなくその黒い涙を誰にも見られたくなかった。
私は、少し迷った末に隣の更衣室に入る。男女のプール授業は期間ごとに交代なので、今では水泳部くらいでしか両方使うことは無い。だから、授業終わりに置いては隣の更衣室は無人なのだ。
「きゃあっ……!!」
しかし、無人なはずの更衣室に踏み込むと短い悲鳴と、バタバタと焦って荷物を取り落とす音がした。
女の子の声。それなら、いいか。
私が中を覗いて見ると、その子はタオル一枚巻いただけのあられもない姿で怯えるように頭を下げていた。
「ご、ごめんなさいっ! 私、ここは使わないと思って!! すぐ、出ていきますからっ!」
「だ、大丈夫だから! 私、女! 私も誰も使わないだろうなって思って、ここに……」
その子は恐る恐る真っ赤にした顔を上げる。
「あ、いえ。そんな男だと思ったとかじゃないです!! えっと、湊谷旭ちゃん……だよね?」
私はすんっと喉に重たいものが圧し掛かったような苦しみに襲われて、息を詰まらせる。
「あ、えっと、うん。そっちは御子柴さん……」
男子が注目していたという巨乳の持ち主。白くて柔らかそうな肌。私とは別の生き物のようにふんわりとした体つきに、サラサラで長い髪。
入学当初にお嬢様だと風のうわさで聞いたけれど、私はおろかそこらの女子と比べても一線を画すほど女の子だった。
「あの、申し訳ないのですけど、あんまりジロジロ見ないでください……///」
「うわっ、ごめん。そんなつもりはなくて!! 私はほんとにエロ男子じゃないから! こ、こんな身体だけど、おっぱいないけど……女だからっ!! 見せろっていうなら、見せるから……っ///」
「分かってます。分かってますから! 見せなくていいですっ/// 湊谷さんのことは知ってましたから!」
私たちはどぎまぎしながら、背中を向けて着替える。
なんだか、変な雰囲気になってしまって居心地の悪さを感じていると、御子柴の方から声をかけてくれる。
「ごめんなさい。私、人前で着替えるの恥ずかしくて、いつもここで着替えてるんです」
「そう、なんだ……」
御子柴の声は平静のようで、どこか怯えるように掠れていて、透明な水たまりに黒い墨が落ちて黒が広がっていくような歪な声色。
「私、胸が大きくなるのが皆より早くて、中学の時男子にも女子にも胸で揶揄われたの。それから、人前で着替えるのが苦手になって」
彼女の心の海は、私と同じなのだと思った。ぐつぐつとそこから煮えぎるように湧いてくる黒いものに、透明な心が浸食されていく。そんな心の海。
「高校になって、皆も膨らんできてマシになると思ったのに、性に寛容になってて、平気で嫌らしい目線を向けてきたり、男子の前で話されたり……」
「私も、分かる、かも……」
私は、そっと同意を示していた。痛いほど、彼女の気持ちが理解できた。深い闇に閉ざされた深海で、分かりあえる友を見つけたような気分だった。
「あ、えっと、私は大きくないけど……」
「大丈夫。私も分かってもらえると思って話したから。泣いてたの、そういうことかなって」
「そっか、やっぱり同じ人にはバレバレだったかー」
私は着替え終えて、鞄を肩にかけて持つ。
「ねえ、御子柴さん。次の授業も一緒に着替えていいかな?」
「うん。いいよ」
何も解決していない。前に進めたわけでもない。それでも、分かってくれる人間が一人いるというだけで、救われた気分になれるものらしい。
更衣室を出るときには、涙はとうに止まっていて、跡すらも残ってはいなかった。