008 王太子妃の豹変
「早々に立ち去りなさい!」
クラウディア様が苛立ちのままに女性へ言い放つ。医務室内の空気は凍りついていた。
何かが起こっている、そう察してはいるが状況が掴めない。私が知るクラウディア様は理由もなく当たり散らすような性格ではなかった。これではまるで、噂通りの悪辣な令嬢ではないか――。
嫌な想像が頭をよぎるが、咄嗟のことに否定する理由が想いつかない。
噂は真実だった? 信じられない気持ちでクラウディア様を見つめてしまう。セレナも何も言わなかった。
「……どうして、私をそんなに嫌うのですか?」
女性が俯きがちだった顔を上げて訊ねる。
「どうして、ですって? ……本当にわからないのかしら? この恥知らず!」
「――クラウディア!」
今にも女性を殴りかかろうと踏み出したクラウディア様の腕を、アラン様が掴んで後ろへと引っ張る。
振り返ったクラウディア様の顔には優しさの欠片も残っていなかった。アラン様と想いが絡み合うこともない。数分前までの二人の姿が幻に想えてくる。
感情が黒一色のクラウディア様に反し、アラン様の感情は悲しみ色に染まっていった。
「離しなさい!」
「離すわけがないだろうが!」
アラン様の拘束を外そうとクラウディア様が暴れる。しかし、アラン様の掴んだ手は一向に外れない。終には、クラウディア様の後ろから羽交い絞めにしていた。
私はクラウディア様の豹変に、ただただ唖然としていた。
クラウディア様はどうしてしまったの? ……あの女性に何かされた?
どす黒く染まったクラウディア様の感情を想い返し、私の心に不信感が募っていく。女性は悲しみを顔に貼りつけたまま、クラウディア様を睨みつけていた。
「アラン様とお話しすることが、そんなにいけないことですか?」
「――ハンナ!」
逆上して暴れるクラウディア様を押さえつけながら、アラン様が怒鳴り声をあげる。その瞬間、ハンナ様はくしゃりと顔を歪めた。
しかし、キッとクラウディア様に睨み直し、足早に近づいていく。そして、クラウディア様を指差してキッパリと言い放った。
「アラン様もちゃんと見てください。これが、クラウディア様の正体です」
「……何が言いたい」
怒りを押し殺した声でアラン様はつぶやく。クラウディア様は力任せに暴れ、口汚く罵っていた。しかし、ハンナ様はアラン様しか見ていなかった。
「噂は真実なんです。クラウディア様は……私にも、他の方にも、当たり散らして虐めているんです。アラン様にふさわしくありません。別れるべき――」
バキン、唐突に轟音とともに床が揺れ動く。ハンナ様の声は掻き消されていた。
音の発生源は私のすぐ隣だった。誰がやったのかは見なくとも予想がついた。
大切な人を愚弄されて我慢できるほど、私の友人は大人ではなかった。でも、それがセレナらしかった。
「うるさいよ……潰されたいの、お前」
冷淡なクラウディア様の声には反し、セレナの声は感情的だ。抑えるつもりのない怒りがだだ漏れている。
そんなセレナの本気を感じとったのか、ハンナ様は数歩後ずさる。数秒間、考え込むように黙り込むが、すぐに嫌味な笑顔を浮かべていた。
「貴方のことも聞いています。クラウディア様の手足になって犯罪の片棒を担いでる、と。……騙されていることにどうして気づけないの?」
「うるさいと言っているんだけど、お前には理解できないの?」
ハンナ様は何を言っているのだろう? そんなわけないのに。
クラウディア様は……わからないけれど、セレナは何の罪も犯していない。ずっと一緒にいた私にはわかる。
セレナが罪を犯していたら、私が気づかないわけがない。
だから、セレナが罪を犯している――これはハンナ様の言いがかりだ。
セレナが首を突っ込んだことで、私も当事者の一人となったはず。それならば、友人として文句を言っても問題ないだろう。
ハッキリと言えば、私もハンナ様が気に入らなかった。
私は慣れた手つきで魔法陣を描いていく。誰も私の動きに注目していない。睨み合うセレナとハンナ様に視線は集中していた。
そんな一触即発な空気の中、風の刃を振り下ろす。
狙いはクラウディア様だ。ハンナ様に向かう怒りの感情をスパッと断ち切る。
その瞬間、糸の切れた人形のようにクラウディア様が崩れ落ちていく。アラン殿下が慌てて抱き支え、腕の中に収めていた。
クラウディア様はきょとんとした表情を浮かべ、アラン様を見つめている。もう黒一色ではなかった。アラン様との間に大きな結び目ができていた。
心の中で沸き立つ怒りを抑え、私はハンナ様に顔を向ける。心配げな眼差しでクラウディア様を見ているが、嘘くさく感じてしまう。弾劾するだけの証拠がないのが悔しかった。
感情の色で調べるのは、私にしかできない方法だ。だから、私が嘘をついていると反論されれば、それを捻じ伏せる術がない。
舌打ちしたい気持ちを抑えて、私は笑顔を浮かべて話しかける。
「申し訳ありませんが、こちらにはどのようなご用件で伺われたのですか?」
その瞬間、ハンナ様の顔が泣き出しそうに顔を歪めていた。
嬉しさと悲しさを掛け合わせたような、初対面の相手に向けるとは想えない、感情で私を見つめていた。
私が首をかしげると、ハンナ様は絞り出すような声で訊ねる。
「……貴方の、名前は?」
「エリーゼ・スティアートと申します。このような姿で申し訳ありません」
ベッドに座ったままの私は、素知らぬふりで深く頭を下げる。一瞬だけハンナ様は呆けた顔をしたが、すぐにニコニコと微笑み返す。本当に嬉しそうな様子に、私は眉根を寄せてしまう。
私だけが直接的な敵意を向けていないからかもしれないが、味方だと想われているのならば不愉快だった。
「誘拐されたと聞いて、心配しました。……身体は大丈夫?」
「……見ての通り大丈夫です。クラウディア様が助けてくれましたから」
どうにも調子が狂う。ハンナ様の感情と言葉は一致している。私を、心から心配してくれている。……どうして?
内心の動揺を隠し、私はハンナ様と二言三言と言葉を重ねていく。話を聞こうとしない独善的な振る舞いは鳴りを潜めていた。
「……私のことを覚えていますか?」
唐突に窺うような声でハンナ様が訊ねる。私は再び首をかしげていた。
ハンナ様は悲しげな眼差しで私を見つめる。そして、クラウディア様の心を黒く染めた、食虫植物のような感情が私にぶつけてきた。
その光景を見た瞬間、私は想わず鼻で笑ってしまった。とうとう本性を露わにしたのか、と。
狙いはクラウディア様に不利な証言を引き出すことだろうか。いや、捏造させると言った方が正しいか。どちらにせよ、私にも同じ手口が通用すると想っているのならば、お生憎様。その手は通用しない――。
ハンナ様の感情が私の感情を飲み込む直前、風の盾を作り上げて接触を許さない。飲み込まんと口を開いた状態で押し留めてみせた。
「私はクラウディア様に救われました。まるで物語の英雄様みたいで、とてもカッコよかった……」
最近のセレナの表情を真似て、恋する乙女を演じてみる。クラウディア様に証言を強制された、そんな反論を許すつもりはなかった。
私が心の底からクラウディア様に感謝している、その事実が伝わればいい。
ここにはアラン様もいるのだ。もし嘘の噂を流せば、その犯人はハンナ様ただ一人。クラウディア様を庇うアラン様が裏切るとは想わなかった。
「やっと、お姉様のカッコよさに気づいたの? 遅すぎだよ、エリーゼ!」
いつもの調子でセレナが自慢げに言う。私は「その通りね」と多分に呆れを含んだ声で答えていた。
言葉をそのまま受け取ったセレナは気を良くしたのか、クラウディア様の素晴らしさについて好き勝手に話し始める。それからは、セレナの独壇場だった。
容姿を褒めることから始まり、性格の良さや可愛らしい失敗エピソードと続いていく。わずか二週間でよくそこまで把握した、と変な笑いが漏れそうになるのを何度も堪える。友人のストーカー気質に衝撃を受けながらも、私は何度も相槌を打っていた。
クラウディア様も、アラン様も、ハンナ様も、誰も話さない。初めは蚊帳の外に置かれていた私とセレナだけが、今は楽しげに話し続けていた。
……正気に戻ったクラウディア様が恥ずかしそうに俯き、アラン様はそんなクラウディア様の肩を抱いていた。ハンナ様も俯いているが、何を考えているかはわからない。
「すみません、私とセレナばかり話をしてしまいました」
たっぷりと三分間は経過した後、私は申し訳なさそうな顔で頭を下げる。
延々と話し続けそうなセレナの言葉を遮ったからか、不満げにセレナは両頬を含ませていた。
顔を上げたハンナ様は笑顔だが、その瞳は笑っていない。私へ向ける感情に敵意はないが、どうしてか悲しみに満ちていた。
「申し訳ありませんが、私はクラウディア様に救われたとお伝えください。心配してくださって、本当にありがとうございます」
何か言いたげな様子だったが、ハンナ様は「お伝えします」と短く告げると、足早に医務室から出て行ってしまった。
結局、何の目的で訪れたのかはよくわからなかった。やはり、私の口からクラウディア様を否定する言葉を欲しかったのだろうか。
しかし、クラウディア様が犯人でないことは私が一番よくわかっている。誘拐犯は男性二人で、女性ではなかった。感情操作で望む証言を引き出しても、正式な調査が行われれば真実は露呈する。だから、クラウディア様に冤罪を被せるにしては杜撰な計画に想えてしまう。
ハンナ様は、本当に成功すると考えていたのだろうか?
大きなため息を私は漏らす。これ以上、考えても仕方がなかった。
「素敵な友人がいるのですね?」
私の声には疲れが滲んでいる。責めるつもりはなかったが、クラウディア様の肩が大きく跳ね上がった。
「……友人ではないの」
たっぷりと間を置いてから、振り返ってクラウディア様が答える。その表情は悲しみと怒りで彩られていた。
だから、私は確信を持って訊ねていた。
「嫌いなんですよね?」
「嫌いよ、あんな人。……軽蔑した、かな?」
恐るおそる口にするクラウディア様。私とセレナの間で視線が揺れ動いていた。
「私も嫌いだわ、あの人。セレナはどう?」
「大っ嫌い!」
期待通りの答えをセレナは返してくれた。クラウディア様が不安がる必要は最初からどこにもないのだ。
クラウディア様の信奉者に近いセレナは否定の言葉を知らない。
ハンナ様が原因でクラウディア様の様子が変になった、そう察している私には嫌う理由がない。
しかし、これだけはクラウディア様に聞く必要があった。
「ハンナ様への態度は、わざとだったのですか?」
「それは! ……わからないの。本当に、わからないのよ……」
弱々しい声でクラウディア様が答える。最後の方はほとんど聞き取れなかった。
後ろに控えるアラン様を気にしているのか、クラウディア様は落ち着かない様子だ。助けを求めているのではなく、アラン様に聞かれることを恐れる姿だった。
一方、アラン様は黙り込んだままだが、不審感に満ちた眼差しを私へ送っている。私に、クラウディア様と敵対するつもりはないのだけれど……。
「クラウディア様の悪い噂は、私もセレナも知っています。噂は、本当のことだったのですか?」
「――エリーゼ!」
セレナが怒りを込めて叫ぶが、私に質問を止めるつもりはなかった。
何となく無視してきたが、いつかは知らなければならないことだ。それが、たまたま今日だっただけ。
クラウディア様は何も答えてはくれないが、怯えた様子でよろよろと後退っていく。悲しみで歪んだ表情だけで、私の質問への答えは出ていた。
――クラウディア様の悪評は真実だった。
私に見つめられることに堪えられなくなったのか、振り返りざまにクラウディア様が入口へと駆け出して行った。すぐに反応したセレナが、慌ててクラウディア様を追いかけていく。
騒々しく閉じられたドアが大きな音を立てる。医務室の中で、険しい顔をしたアラン様と二人きりになっていた。
私はそっとベッドから下り、アラン様の前に立つ。そして、深く頭を下げた。
「お初にお目にかかります、エリーゼ・スティアートと申します。ご挨拶が遅くなり申し訳ありませんでした、アラン殿下」