007 心配、不安、気づき
『私』のことを見てもらいたい、その想いに嘘はない。でも、これは違うのではないだろうか。不満がふつふつと沸いてくる。
男女も学年も関係なく、多くの学生が私とクラウディア様を見ていた。
悪名高いクラウディア様が血で汚れた下級生を無理やりに連れている。文字だけで見れば、噂通りの悪逆ぶりだけど……クラウディア様は素でやっているのだろうか?
疑う言葉を私は飲み込み、恥ずかしさで熱を持った頭を押し隠した。しかし、気にする素振りを一切見せずに、クラウディア様は歩き続ける。その両腕に抱きすくめられ、私は横抱きにされていた。
怪我をした私と一緒に医務室へ行ってくれるのは嬉しい。学園医を呼びに行く間、監禁された倉庫に残されたくはなかった。
まさか、もう一度襲われるとは想わないけれど、一人になるのは怖い。
だから、クラウディア様が差し伸ばした手を素直に掴んだ。そして、クラウディア様の腕の中に収まっていたのだ。
弾んだ声で「行くよ」と言ったのが合図だったのだろう。
クラウディア様に手を引かれた私の体は、風でふわりと浮かんでいた。十二歳にしては私の体は小さい。風魔法で補助までしているならば、クラウディア様一人でも簡単に運べてしまう。
突然のことに私が目をしばたかせる間に、クラウディア様は歩き始めていた。
私が意地を張っていると考えているのか、抵抗の言葉は笑顔で切り捨てられていた。クラウディア様は聞く耳を持っていなかった。
そもそも、セレナを倒したクラウディア様に対して、どんな抵抗ができるのか。赤子の手をひねるくらい簡単に私を打ち倒すことができるのだ。抵抗は無意味だろう。
結局、クラウディア様の腕の中で大人しく羞恥に堪えるしかなかった。
クラウディア様の中では、私もセレナも変わらないに違いない。完全に子供扱いされていた。
医務室に着くまでに五分は掛かっていないはずだ。……ただ、体感では一時間以上に想える。クラウディア様の腕から降ろされた後、私は恨みがましい眼差しを送っていた。
ベッドに座ったまま、足早に包帯や消毒液を用意するクラウディア様を見つめる。学園医が不在なのは運が悪かったが、淀みのないクラウディア様の動きには安心感を覚える。
クラウディア様が求めるままに、私は体を預ける。慣れた手つきを見るに、誰かの手当てをするのは初めてではないのかもしれない。
消毒液が傷口に沁みる。ジクジクとした痛みに顔をしかめながら、私はボンヤリと考えていた。
「――エリーゼ!」
医務室のドアが騒々しく開き、泣き出しそうな顔のセレナが駆け込んでくる。その勢いのままにセレナは跳びかかる――私はベッドの上に押し倒されていた。
両肩を強く押さえつけられ、私の体は動かせない。
唐突に降り出したセレナの涙の雨に、私の頬は濡らされていく。私の瞳からも再び涙が零れ落ちていた。
「エリーゼ、エリーゼ……エリー、ゼ……」
セレナが涙混じりの声で何度も名前を呼ぶ。
私も声にならない声で「セレナ」と呼び返す。セレナは「うん!」とポロポロと涙を溢れさせて笑っていた。
体の痛みも忘れて、私はセレナの笑顔に見惚れてしまった。
どれくらいの時間が経ったのかはわからない。セレナを見上げていた私は唐突に大きく目を開く。セレナの身体が宙へと浮かび上がっていた。
「そろそろ、私に気づいてくれる?」
横から楽しげな声がかかる。指先で魔法陣を描いたクラウディアが悪戯っぽく笑っていた。その左手には包帯が巻かれている。
宙でジタバタと暴れていたセレナだが、クラウディア様の魔法が原因だとわかると、キラキラとした目をクラウディア様に向けていた。
「お姉様がエリーゼを助けたんですよね!」
「ええ、そうよ」
「ありがとうございます!」
セレナが元気よく頭を下げる。そんなセレナの頭をクラウディア様が左手で撫でていく。泣き顔は蕩けるような顔へと変わった。
幸せそうな顔でセレナはもっともっと催促するように頭を押しつけていた。
苦笑気味のクラウディア様はこっそりと私に向かってウィンクを送っていた。甘えたがりな本性を晒すセレナに、ベッドから起き上がった私も小さく肩を竦めて見せていた。
すると、クラウディア様が不思議そうに首をかしげた。その様子に、今度は私が首をかしげる番だった。
どうかしたのだろうか? 私には心当たりがなかった。
数秒後、クラウディア様は大きくうなずく。そして、ベッドに近づき――空いた右手で私の頭を撫で始めた。
咄嗟のことに固まるが、すぐに私は顔を上げる。クラウディア様は物知り顔で微笑んでいた。……これは、子供扱いされている?
もしかして甘えるセレナに嫉妬していると想われたのかもしれない。素直に気持ちを告げられないでいる、と。
違う、違うよ、クラウディア様。『私』を見て欲しいと望んだけれど、勘違いして欲しいわけじゃないんだ。
クラウディア様に甘えたいわけじゃない――。
私は決意を持って強く睨みつける。しかし、迫力が足りないのか、クラウディア様はにっこりと微笑むだけだった。
「エリーゼも、お姉様に撫でてもらっている!」
ニヤニヤと口元を緩めてセレナが私を指差す。クラウディア様とセレナ、二人の視線が私へ集中していった。
期待に満ちた二人の眼差しに射抜かれ、私は不満の言葉を飲み込む。
クラウディア様の右手と、セレナから伸ばされた左手。二人の手が好き勝手に私を撫でまわしていく。不思議と二人に抵抗する気は起きなかった。
「――クラウディアはいるか!」
唐突に怒鳴り声が響く。けたたましく開いたドアの先から、鮮やかな赤髪をした野性的な風貌の男性が姿を現す。その顔は明らかに不機嫌だった。
医務室を見渡したのは一瞬。すぐに視線はクラウディア様の背中に注がれる。
クラウディア様は……目を閉じて黙り込んでいた。苦しげに顔を歪ませ、私の頭に置かれていた右手を降ろしていく。ツカツカ、と大股で歩く男性へ振り向くことはなかった。
困惑する私とセレナだけが置き去りにされていた。
「……クラウディア」
一つ大きく息を吐き出し、絞り出すような声で男性はつぶやく。数秒後、クラウディア様がゆっくりと振り返った。
「どうかされましたか?」
「俺は……お前を信じてもいいのか?」
頼むからうなずいてくれ、男性の想いは容易に予想できた。祈るような表情が嘘だとは感じられない。
「全てはアラン様の想うがままに……私から言えることはありません」
クラウディア様の声はどこか冷たい。もう追求しないで、そう拒絶する響きがある。男性は……アラン様は開きかけた口を閉ざして目を伏せる。
医務室の中が何とも言えない居心地の悪さに支配されていた。
え? これは、何が始まっているの?
何がなんだかわららず混乱するあまり、私の視線はキョロキョロと落ち着かない。それは、セレナも同じなのか、アラン様に敵意を向けては霧散させている。クラウディア様を守るべきかわからないのか、握りしめたこぶしが上下にぶらぶらと動いていた。
アラン様はクラウディア様にしか興味がないのか、私とセレナを一瞥すらしない。――無視されていた。
その事実に気づいた瞬間、心の中で苛立ちが沸き上がっていく。
アラン様とクラウディア様の二人には何かがあるのだろう、が……正直、私にはどうでもいい。
『私』を見る、そう言ったのはクラウディア様だ。それなのに、二人の世界を作り上げて、私が存在しないように振る舞っていることが許せなかった。
瞳に魔力を集め、私はクラウディア様の横顔を睨みつける。そして、目を大きく開き、私は固まってしまった。
クラウディア様の想いは真っすぐに伸びている。悲しみの蒼が殻のように覆いかぶさるが、内側に秘められた薄紅色の輝きは隠せていない。
セレナが私に向ける安心できる色とは違う――初めて見る色だった。
見ていると何だか心があたたかい。体の芯がムズムズするような、ポカポカするような、不思議な感覚を覚える。
何の気なしにクラウディア様の感情の先を見やると、大きな結び目にたどり着く。さらに、先を覗くとアラン様にぶつかった。
――絡まった感情は、二人を結ぶ感情の色は全く同じだった。
私は食い入るように二人の感情が紡いだ結び目を見つめる。
これまでも誰かと誰かの感情が衝突するところを見ている。そのときは、一方の線がへし折れて、もう一方に場所を譲っていた。感情が交わって結びつくことはなかった。
だから、クラウディア様とアラン様が作った大きな結び目、その意味を私は知らない。初めて見る光景だった。
私の目指すべきゴールは、この感情の結び目を誰かと紡ぐことなのだろうか。
クラウディア様は知っていたから、私に間違っていると言った? それなら、どうしてクラウディア様もアラン様も笑っていないの?
ふつふつと疑問が沸き上がるが、すぐに私は放り投げてしまう。それよりも、私は大きな結び目に心を奪われていた。
私は誰と結び目をつくるのだろう? そう考えると期待が留まらない。
お父様やお母様かもしれないし、クラウディア様かもしれない。それとも、いつも一緒にいるセレナと……?
結び目をつくる相手ならば、私のことをきっと見てくれる。妙な確信が私の中にはあった。
考えに浸っていたからか、医務室を支配する沈黙も気にはならなかった。実際には一分にも満たない沈黙だろう。しかし、沈黙を破るノックの音が久しぶりに耳にした音に想えた。
医務室内の四人の視線がドアへと集中していく。姿を現したのは、亜麻色の髪と私と同じエメラルドの瞳を持った人形のように愛らしい女性だった。
突然に見つめられて驚いたのか、女性の小さな肩が大きく跳ねる。一歩、二歩……たじろぐように後退っていた。
「ここに何か用事でもあるのかしら?」
底冷えする声でクラウディア様が訊ねる。感情の色を見なくとも、不機嫌であることは明らかだった。
顔を向けると、予想通りクラウディア様の感情は憎悪で染まっている。顔色はいつもと変わらず優しげだが、その目に宿る侮蔑は隠せていなかった。……正直、怖くてたまらない。
正面から威圧される恐怖はどれほどだろうか。
女性の顔は泣き出しそうに歪んでいく。しかし、その視線は少しも逸らされない。クラウディア様から全く逃げなかった。
二人の視線は真正面から衝突し、互いの感情が波打っていく。勝つのはクラウディア様だろうな、私は何の根拠もなく予想していたが……間違っていた。
食虫植物が獲物に食らいついた――それが私の印象だった。
私の瞳にはハッキリと映っていた。一本の線だった女性の感情が、獲物を食らうようにパックリと開きく姿を。そして、真っすぐに伸びていたクラウディア様の感情を飲み込んでいく。
繋がった先からクラウディア様の感情を侵食し、その感情の色は少しずつ変わり始めていた。
憎悪で染まっているとは言え、本来は一色というわけではない。
一口に憎悪と言っても、怒りが強かったり、嫉妬が強かったりとその意味合いは様々だ。だから、同じ出来事に憎悪を抱いても、私とセレナでは同じにならない。当然クラウディア様とも一致しない。
それでも、今のクラウディア様の色ならば、同じになるかもしれない。
クラウディア様の感情は黒一色。どんな気持ちを抱いているのか、私には想像もできなかった。
「……クラウディア」
アラン様が心配そうにクラウディア様を呼ぶ。目を開いたまま、クラウディア様は動きを止めていた。
しかし、アラン様の声に反応してゆっくりと顔が動き出す。視線が交わった二人の間に再び大きな結び目ができ……崩れ落ちていった。
アラン様への興味を失ったかのように、クラウディア様の感情が霧散していく。アラン様の想いだけが残されていた。