005 渦巻く不満
クラウディア様はセレナの心を掴んだらしい。顔を合わせるだけで薄っすらと頬を朱色に染めている。
恋する乙女を体現するセレナに不安を覚えるのは、私の心が狭いからだろうか。
セレナの視線は何も変わらない。私に対しての親愛は色濃く表れている。私を安心させてくれる大好きな色だ。
ただ、クラウディア様に向ける視線と比べると……少し寂しくなる。
セレナの感情は顔に出やすい。だから、蕩けるような甘い笑顔だけでクラウディア様への好意は十分に察することができた。
強さに価値を置くセレナを降した時点で、わかっていた結果ではある。
親愛の色に、信頼と強い憧れの色が織り交ざっている。その感情線は、私の二倍くらいの太さがあった。
セレナの中では、私よりもクラウディア様の方が特別な存在なのだろうか。私の方が長く付き合っているのにどうして……?
セレナを責めることが間違いだと理解はしている。それでも、嫌な感情がドロドロと漏れ出してくる。
――ねえ、知っている? セレナも噂になっているんだよ。悪辣令嬢クラウディアの取り巻きだって。
私は知っている。クラウディア様が噂に聞く悪人でないことも、セレナが取り巻きなんかじゃないことも。でも、無関心な人たちは、セレナを見ようとしない人たちは、その事実を知ろうとはしない。耳に入った噂程度しか興味を持たない。
このままだと、噂が真実になってしまう。……クラウディア様が罪に問われれば、セレナも巻き込まれるかもしれない。
いや、巻き込むつもりなのだろう。忌々しい平民を消すチャンスくらいに想っているに違いない。
私は深くため息を吐き出し、並んで歩くクラウディア様とセレナの背中を眺める。セレナだけでなくクラウディア様も他人の目を気にしない質なのだろう。噂の渦中にいる二人は堂々していた。
その一歩後ろに続く、私だけが居心地の悪さを感じている。
クラウディア様とセレナには嫌悪感に満ちた眼差し、私には同情的な眼差しが送られている。……私もいつの間にか噂の中に登場しているのだ。二人に無理やり従わされている哀れな公爵令嬢、と。
どうやらスティアート公爵家を敵に回すつもりはないらしい。公爵家の内情を知らなければ、一人娘の私を蔑ろにはできないだろう。
私とセレナは一緒にクラウディア様へ師事している。噂の内容が真逆なのは、貴族と平民の身分差もあるのだろう。セレナの才能への嫉妬も大きな理由だとは想うけれど……。
クラウディア様も噂が真実でないならば、否定すればいいのにどうしてしないのだろう? まさか、真実だとでも言うのだろうか。
例え、真実であったとしてもグレスペン侯爵家ならば揉み消すこともできるはず。しないのは何故なの? 考えれば考えるほど不可解だった。
グレスペン侯爵が二人の娘を溺愛しているのは有名な話だ。前妻の娘と後妻の娘。総じて後妻の娘を重んじる者が多い中、前妻の娘クラウディア様も愛している。どちらも等しく大切にしている、と。
それが真実ならば、今のクラウディア様を捨て置くとは想えないのだ。……もしかしたら、クラウディア様は侯爵に疎まれている? 噂が間違っていたのだろうか。
……まあ、頭の中で想像していても仕方がないか。
私は大きく首を左右に振る。正直、私にはどうでもいいことなのだ。クラウディア様の悪評も、グレスペン侯爵家の思惑も。
私へ直接的に関わってこないならば無視できる。つまりは、些末事だ。
セレナを助けるつもりはあるが、クラウディア様を助けるつもりはない。私にとっての特別は――セレナだけだ。
楽しげに微笑み合うセレナとクラウディア様に続き、私も演習場に出る。
本日の講義は魔法実技を残すのみだった。晴れわたる青空の下、クラウディア様から指導を受けることになっている。
講義内容は講師に一任されているが、。当然のことのように私とセレナへの指導内容は異なっていた。
セレナは新しい魔法の取得を目指し、私は使える魔法の精度向上を目指す。
クラウディア様は時折気遣わしげに私を見つめるが、指導内容に対して私に不満はなかった。
新しい魔法を学ぶ――私よりも先に行くセレナへ嫉妬する気持ちはある。だが、私自身が凡才であることはわかっているのだ。無理に背伸びをする気にはなれなかった。
それに、宣言通りクラウディア様は私への指導に手を抜いていない。私とセレナへの指導機会は半々くらいだろうか。……いや、もしかしたら私の方が多いかもしれない。
感覚派のセレナと、理論派のクラウディア様。二人の指導は正反対だ。だからこそ、イメージだけで魔法を使っていたところを理論で補強できることはありがたい。どちらかと言えば私も理論派だから、元々の相性も悪くなかったのかもしれない。
クラウディア様からの指導は今日で四回目。私はようやく風の刃を複数展開することが可能となっていた。
「――無理はしないで!」
背後からクラウディア様の切迫した声が響く。私は魔法陣への魔力供給を慌てて止めた。
「まずは二つだけで練習して。数を増やすのはその後でいいから、焦らないで」
クラウディア様から諭されるのは何度目だろうか。今日も視線に敵意は含まれていない。気遣わしげな眼差しは全く変わらなかった。
試すような真似を繰り返している私自身のことが嫌いになりそうだ。
クラウディア様の好意への疑念、それは二週間経った今も消えてはくれなかった。
「申し訳ありません」私は深く頭を下げる。
「……セレナさんの様に、普通に話してくれてもいいんだよ?」
「次の王太子妃様に失礼なことはできません。どうかご容赦ください」
クラウディア様は「そうね……」と小さくつぶやいた。見上げると、寂しさと悲しみの混じった表情で見つめ返される。
チクリ、罪悪感に胸が痛む。それでも、私は気づかない振りで目を伏せた。
何度もクラウディア様が向けられる感情を確認してきた。そろそろ信じても構わないのでは、そう想う気持ちは確かにある。
でも、受け入れてはいけない。受け入れるわけにはいかない。
前世の■■■■■は完全に消えてはいない。そのままの私に好意を抱かれたのでは、わからなくなってしまうではないか。
――クラウディア様、貴方は前世の■■■■■と今世のエリーゼ・スティアート、どちらを見ているのですか?
決して訊ねることのできない問いかけ。
前世の記憶を捨て去りたい私が口にしていい言葉ではなかった。■■■■■の存在を認めることはできない。
大切なのは一つだけ。私がエリーゼ・スティアートである、その事実だけだ。前世の■■■■■は存在してはいけないのだから――。
私が口を閉ざしたからだろうか。気まずい沈黙が流れていく。
たったの一度でもいい。クラウディア様が私を嫌ってくれたのならば、それだけで私は安心できるのに……。
私の考えを押しつけるつもりはないが、クラウディア様の善人ぶりが嫌になる。クラウディア様を知れば知るほど、私自身の醜さと歪さが浮き彫りになっていく。自己嫌悪を覚えて仕方がない。
――嫌いではない。でも、好きにはなれないし、無関心でもいられない。
私自身でも気持ちがわからない。クラウディア様にどう接するのが正しいのだろうか。ぐちゃぐちゃに掻き混ぜられた感情からは答えを見つけられなかった。
誰か教えてくれないだろうか? ……これこそ、意味のない問いかけね。心の中で私自身を嘲笑う。
セレナよりも私の方がよっぽど問題児だった。
笑顔で駆け寄って来るセレナを見ると羨ましくもなる。もし、■■■■■の記憶がなかったならば、私もクラウディア様に笑顔を見せられたのだろうか。もう少し素直になれたのだろうか。
心の中で何度目とも知らないため息を吐き出す。気持ちを切り替えて私はクラウディア様を見上げた。
「私は自主練習をしますので、セレナへの指導をお願いできますか?」
「……エリーゼさんは、それでいいの?」
「はい、構いません」
私が即答した瞬間、クラウディア様は痛々しく表情を歪める。
「……私ではダメね。妹みたいに上手くできないわ」
背中を向けたクラウディア様の弱々しいつぶやきが風に乗って聞こえる。私は答える言葉を持ち合わせていなかった。
「お姉様、今日も美しかった! サイコー!」
無邪気にはしゃぐセレナの勢いに若干引きながら、私はコクコクと何度もうなずく。満開の笑みに水を差すような真似はできず、肯定するだけの首振り人形になっていた。
セレナと二人、基礎学部の学生寮へ向かう。夕日に照らされ、並んで歩く二つの影がくっきりと映っていた。
クラウディア様が講師となる前後で、会話の主導権は移ったらしい。聞き役はセレナから私へと切り替わっていた。
その話題の中心はいつも同じ――クラウディア様だ。
私や他の同級生と同じレベルの講義に満足していないことは知っていた。だから、セレナが独学で先へ先へと進んでいることにも何も言わなかった。
でも、優秀とは言え独学に限界はあったのだろう。不機嫌な表情をすることが多くなったことには気づいていた。
クラウディア様が講師となって、セレナは壁を一つ越えたに違いない。
いつもニコニコと笑顔を見せてくれる。ちょっとしたことでイライラと機嫌を悪くすることもなくなっていた。
セレナの変化は喜ばしいことだが、私はどうなのだろう? 少しは変わったのだろうか? どうにも実感は持てなかった。
――それは、私自身の変化よりも周囲の変化が気になるからかもしれない。
セレナが悪い噂に登場してから、瞳に魔力を注ぐことが習慣化していた。人通りが少なくなる学園寮への帰り道では特に顕著だった。
五本、いや六本か。今日の襲撃者は六人らしい。昨日よりも二人少なかった。
クラウディア様よりもセレナの方が御しやすい、そう想われているのだろう。セレナの誘拐を私が許すわけがないのに。
こっそりと右手で魔法陣を描いて魔力を流し込んでいく。そして、一本ずつ確実に切断していった。
クラウディア様の指導のおかげで魔法陣は小規模化している。セレナのおまけ程度に私を見ているのならば、私の魔法に気づくことは難しいだろう。
断たれた気持ちを再度結び直すには時間がかかる。だがそれは、私とセレナが逃げるには十分すぎる時間だ。
「それで、お姉様がね――」
弾んだセレナの声に耳を傾けながら、私は心の中で舌を出す。私とセレナの歩みが止まることはなかった。