004 未来の王太子妃②
「お姉さんは、ただの魔法使いなの?」
セレナとクラウディア様との距離は五メートルほどだろうか。本気を出したセレナならば一息で詰められる距離だ。その場で片足ずつピョンピョンと跳ねながら、セレナは体をほぐしていく。
クラウディア様は黙り込んだままだ。戦う構えをまるで見せていなかった。
突然の爆音に、演習場からは音が消え去っていた。同級生たちの笑い声も、講師たちの熱の入った声も、何もかも。
緊張かそれとも後悔か。心臓が痛いぐらいに脈動する。セレナが負けるとは想わない。それなのに、どうして不安を覚えてしまうのだろう。
嫌な汗が背中を流れていく。期待と後悔でぐちゃぐちゃになった心で二人の姿を見つめることしかできなかった。
「答えてくれないの?」
準備運動が終わったのか、セレナは両足で地面を踏みしめる。トントン、軽くつま先で地面を叩く。そして、大きく上げた右足で地面を踏み砕いた――。
「……とんでもない力ね」
クラウディア様が重々しくつぶやく。セレナの右足を中心に地面はひび割れていた。
「褒めてくれて、ありがとう。……でも、もういいよね?」
嬉しげなセレナの声を置き去りにして、大気を劈く轟音が響き渡る。
セレナとクラウディア様、二人の戦闘が幕を開けた。
ただ、私が理解できたのは、セレナから仕掛けた事実だけだった。
学年一位を独走する特待生と、優秀な魔法使いと名高い次期王太子妃。どちらも才能は本物だった。それくらいなら……格の違いくらいなら、私にもわかった。
学年でも中位グループに属する私は、最初からお呼びではなかったのだろう。クラウディア様が相手にするわけがなかったのだ。
今、この瞬間、誰よりも近い位置で遠い世界を見せつけられていた。
セレナは精霊憑き、文字通りその体に精霊を宿している。なぜ人の体に精霊が宿るかは、まだ明らかにされてはいなかった。
精霊の加護とありがたがる人もいれば、精霊の悪戯だと揶揄する人もいる。その反応は様々だが、精霊憑きには一つの特徴がある。それは、超常の力を有していることだ。
セレナに与えられたのは超パワー、ただの馬鹿力だった。
年上の男性を捻り上げる姿は何度も見てきた。それは、学園の生徒だけでなく騎士たち相手でも変わらなかった。
平民で女性だからと侮る男性が強者だとは言わない。ただ、私にとって最強はセレナだった。負ける姿を想像したことは、一度もなかった。
だから、目の前の光景を信じたくはなかった。
「……私の、勝ちよ」
天を仰いでクラウディア様が静かに勝利を宣言する。その足元でセレナが俯せで倒れていた。
銀の髪が陽の光を浴びて輝きを放つ。セレナとの決着がつくその瞬間まで、クラウディア様は私を背中に庇い続けていた。
戦闘になると我を忘れるのはセレナの悪い癖だ。
周囲で見ているだけの私にまで攻撃を加えようとしたことは一度や二度ではない。それでも、実際に攻撃したことはなかった。
セレナが攻撃しないと、私はわかっていた。でも、クラウディア様は違う。
立ち向かうセレナを警戒しながら、私にも気をまわして守っていた。
クラウディア様は本気で戦うことができなかった。それは、つまり――。
「セレナさん、私は……今の貴方よりも強いわ」
荒い呼吸を整えながら、クラウディア様がゆっくりとした口調で断言する。ピクリ、倒れたままのセレナの身体が反応した。
「これで、講師として認めてくれる?」
膝を軽く折り曲げ、クラウディア様が右手を差し伸べる。数秒間、セレナはその右手をまじまじと見つめていたが、急に顔を綻ばせた。
二人の手が固く結ばれる。クラウディア様に手を引かれ、笑顔のセレナが立ち上がっていた。
「認めてあげる! でも、もう遅刻しないでよ」
「――それは……悪かったわ、ごめんなさい」
不満げなセレナに、クラウディア様は申し訳なさそうに身を縮こまらせる。そこには、セレナを降した凛々しさも、噂に聞く傲慢さも見られなかった。
小さく笑いを噴き出したセレナに合わせてクラウディア様も微笑む。
二人の運動着は泥だらけだ。魔法の影響を受け、所々が切り裂かれて燃やされていた。しかし、握手を交わす二人の姿は堂々としている。
セレナは、私には見せたことのない頼もしげな表情でクラウディア様を見上げていた。
「エリーゼ!」
弾んだ声でセレナが私を呼びながら歩いてくる。その後ろをクラウディア様がついて来た。
屈託なく笑うセレナに、優しげな笑みのクラウディア様。二人が歩く姿は絵になる。座り込んだままの私は、ぼんやりと二人を眺めていた。
だから、二人が差し伸べた手にすぐには反応できなかった。
二人の手を見つめた後、二人の顔を見つめる。
セレナは催促するように「エリーゼ」と再び名前を呼び微笑んでいる。隣に立つクラウディア様も笑顔でうなずいていた。
その瞬間、心臓を鷲掴みにされたと想うほどの息苦しさを覚えた。
信じられない気持ちで瞳に魔力をのせる。そして、二人の感情線を確かめていく。セレナとクラウディア様が私に向ける視線の色は同じだった。
――どうして、私を嫌いになっていないの!
セレナはわかる。学園で一番一緒にいる友人だ。私の良いところも悪いところも知っている。親愛の情を向けられても不思議ではない。
でも、クラウディア様は違う。今日が初対面なのだ。それも、私は一方的に敵意を向けていた。クラウディア様の表情が……取り繕った笑みが気に入らない。たったそれだけの理由でだ。
私を嫌いになればいい。そうすれば、私に興味を持ってくれる。そうしないと、私を誰も見てくれない。
初めは嫌いな相手と想われて構わない。嫌いな相手、それは特別な存在なのだから……だから、私のことを嫌いになってよ。私を見てよ――。
パシン、甲高い音が響いき、手の甲が熱を持った。
「――エリーゼ、何やっているの!」
セレナが向ける視線に怒りの色が混じる。クラウディア様の手を跳ね除けた姿勢で、私は睨み返していた。差し伸べられていたセレナの手が遠ざかっていく。
視線を横に移すと、目を大きく開いたクラウディア様と視線が交わる。私は嫌悪の色が混じる瞬間を見逃すまいと注視した。
――貴方も、私を嫌ってくれればいい。
パチパチ、クラウディア様のまぶたが何度も瞬いていく。
親愛の色から戸惑いの色へ。感情は変わり始めている。次は、嫌悪に違いない。
期待のあまり心臓が高鳴る。口もとは大きく弧を描いていった。
「……貴方は」
小さな声がクラウディア様から漏れ、まぶたが静かに下りる。クラウディア様からの視線が途切れ、私にどんな感情を向けているのかがわからなくなった。
失望感を覚えて私も目を閉じる。クラウディア様が選んだのは嫌いではなく拒絶。もう私に関わる気はないのだろう。結局、無関心で終わったのだ。
――また、私は特別になれなかった。
心の中で深くため息を吐き出す。……セレナの機嫌をどうやって直そうか。結局、学園で私を特別扱いするのはセレナだけなのだろう。
喜び、怒り、悲しみ。色彩豊かなセレナの視線を想い起こし、沈んだ心を浮上させていく。そう、セレナ一人がいればいい。セレナだけでも特別だと想ってくれるのならば、私は――。
「……離してください」
私が小さく抗議の声をあげたのは、数秒後のことだった。両膝を地面につけたクラウディア様、その胸の中に押し込まれていた。
壊れ物を扱うような優しい手つきで抱きしめられる。私は不満げに身体を捩らせた。
「離さない。離してあげないから」
クラウディア様が強く声を張り上げる。背中にまわされた両手の締めつけが強くなった。それでも、拘束は緩い。本気で暴れれば外れる程度だった。
同情なんていらない。内心の不快感を抑えながら、瞳に魔力を集中させる。
両手でクラウディア様の身体を押し出す。すると、躊躇いがちに背中からクラウディア様の両手がずり落ちていった。
――わからない。どうして、この人は好意的に私を見るの?
困ったような笑顔には優しさが滲んでいる。それに、親しみと……懐かしさ? この人が向ける気持ちは何なの?
「貴方は、私に似ているわ。きっと、この出会いは運命ね」
「……意味がわからないわ」私は胡乱げな眼差しを送る。
「いつかわかるときが来るよ。私も、そうだったから」
何かを想い出したのか、クラウディア様の表情が和らぐ。ポンポン、二度三度と優しく頭を叩かれる。別に痛くはないが、私は顔をしかめていた。
クラウディア様は悪戯っぽくウィンクを送る。
「私は今日から貴方の、エリーゼさんの講師になります」
丁寧な口調に反し、その声は弾んでいた。
「これから三ヶ月間、週二回、私の指導を受けてもらいます」
「……そう、ですか」
「私はセレナさんだけを見るつもりはないから、勘違いしないで欲しいの。私はエリーゼさんのことも見るわ……絶対に見捨てたりしないから」
本当だろうか? 視線の色を確認しながら、内心で首をかしげる。
初対面から相手に好意を持つことがあるのだろうか。
私を見たとき一番最初に認識されるのは、スティアート公爵家の一人娘、その事実だけだ。
私を通して公爵家を見ているのであって、私自身を見ているわけではない。
だから、私を嫌いになって欲しい。怒り、憎み、妬み。心から生まれる悪感情は隠すことができても無くすことはできない。それを私に向けてくれるなら、私は安心できる。
その人は確かに私自身を見ているのだから――。
クラウディア様は私を見てくれる……?
考えてみるが、結局はわからない。私がクラウディア様について知っていることが少なすぎるのだ。
嫌われるお手本のような悪質な噂くらいだろうか。噂が真実ならば、私は悩まなかったに違いない。きっと私の望み通りに、私を嫌ってくれたはずだ。
わからない、わからない、わからない。
私は瞳に集中させていた魔力を霧散させる。クラウディア様から逃げるように顔を背けていた。
視線の色で感情がわかる、それが精霊憑きの私に与えられた力だった。この力が常に私を安心させてくれた。誰が私を特別に想ってくれているのか、それがはっきりわかるのだ。
私がこの世界に存在している、生きていることを証明してくれていた。
今、私に好意を寄せてくれるのはセレナだけ。そのセレナも、最初は私のことを嫌っていた。
嫌われて初めて私は存在を認められる。この六年間で私はその経験を積み重ねてきた。嫌われたから、お父様もお母様も私を見てくれるようになった。セレナも嫌悪する貴族の一人として私を見てくれた。
でも、クラウディア様は私を嫌っていない。それなのに、私を見ている。
どうしてなの? どうして? ……どうして?
心を無理やりに掻き混ぜられるようで気持ち悪い。クラウディア様の優しげな眼差しは私を混乱させる――猛毒だった。
「セレナさんも、これから一緒に頑張りましょう!」
「私とエリーゼのことよろしくね!」
セレナとクラウディア様の弾んだ声。線で区切られたかと想うほどに、二人の声がとても遠くに聞こえていた。