046 素顔と、斧と、想い違い
背筋が凍った。仮面で隠された素顔が見たいと想ったが、恐ろしげな黒衣の風貌に私の身体は勝手に震え出していた。
まぶたを切り開かれているのか、黒衣の左目が大きく見える。ギョロギョロと目玉が動きまわり、私を上から下へと観察していた。黒衣の表情からは何を考えているのかが読み取れなかった。
感情豊かな顔の下半分に対し、上半分は人間味がない。その下半分も今は少しも動いていなかった。
多少でも会話をしていた相手だとは想えない。言葉にせずとも、私と黒衣を遮る大きな壁を感じずにはいられなかった。
何かを話さないといけない、そう想いはするが言葉は出て来なかった。口が二度三度とパクパクと動き、力なく閉じられてしまう。
「俺が怖いか」
黒衣は短くつぶやき肩をすくめる。胸の奥がキュッと締めつけられた。
「いや、俺への同情か……お前こそ、俺が敵であることを忘れてるんじゃないか? お前はただ、いい気味だと嗤えばいい」
「そんなこと、できるわけ――」
「――俺は敵だろ」
黒衣はあっさりと言い捨てる。衝動的に出た言葉は上書きされていた。
お前もその事実は理解しているだろ、そう言いたげに黒衣の口元は歪んだ笑みを浮かべている。左目は私を射抜いたままだった。
オロオロと私の視線は左右に揺れていた。黒衣を直視することが、どうしてか胸をざわつかせる。
私の愚かさを映す鏡、そう黒衣を評したのは間違いだったのだろうか。鏡ならば、被写体である私を拒絶するなんて在りえないのだから。
そんな私の気持ちを知ってか知らずか、黒衣は唐突に私の頭に手を置き、グリグリと撫でまわし始めた。
「――止めてよ!」
乱暴で思いやりなんて欠片もない。ただただ痛いだけだった。
気持ちの良かった、幸せな気分にさせてくれたクラウディア様やハンナ様とは違う。私は力一杯に黒衣の手を撥ねのけていた。そして、私は黒衣を睨みつける。
ギョロリと黒衣の目玉が動き、口元が嬉しげに弧を描いていた。
「それでいい、エリーゼ。お前は、俺を敵と認識していればいい」
「気安く名前を呼ばないで!」
私は感情的に叫ぶが、黒衣は愉しそうに肩を揺らすだけだ。
嫌がる私の頭の上に、もう一度黒衣は手を置いて……優しく撫で始めた。
「俺のことは、疑い、憎み、嫌いになればいい。俺はお前の敵で間違いない」
「……それで、将来、貴方と闘えと?」
黒衣の手を私はゆっくりと退かしながら訊ねる。すると、黒衣はニカリと歯を見せて笑った。わかっているじゃないか、そんな声が聞こえてきそうな表情だった。
私は黒衣から視線を外し、真正面に顔を向ける。森の中は右も左も木ばかりだ。ただ遥か先には、領境を示す大きな山脈が見えていた。目的地であるプリムローズ侯爵領までは、まだまだ遠かった。
「貴方の期待する未来はこないと想う」
「さあ、どうだろうな? エリーゼなら面白くなると想うぞ」
だから、名前で呼ぶな! 黒衣の言葉につい苛立つが、グッと我慢する。私が怒ったところで、黒衣が改めるとは想えなかった。
私はため息を吐き出し、それきり黙り込む。隣から不快な笑い声が聞こえるが無視を決め込んでいた。
数秒間の沈黙後、黒衣が手綱を引いて馬車を停止させる。私は想わず黒衣を見上げていた。
「エリーゼ、少しだけ待っていろ」
そう言って黒衣は御者台から降り、荷台に向かって歩いて行く。想わず「どうしたの?」と私は訊ねるが、黒衣は何の反応も返してはくれなかった。
ゴソゴソ、と荷台から音が聞こえていた。
数十秒後、黒衣の満足げな「あった、あった」と笑う声が届いてくる。何を探していたのだろうか、御者台に一人で座った私は頬杖をつく。黒衣の大剣は御者台に立て掛けられたままだった。
「待たせたな」
黒衣は楽しげに声をかけ、妙に元気よく右手を振っている。その左手には手斧が握られていた。
私は返事も忘れて手斧をまじまじと眺めてしまう。わざわざ馬車を停めてまで探したものがそれか、と呆れた気持ちになる。これ見よがしに大きく息を吐き出していた。
「おいおい、お前の武器を持って来てやったのに、その態度はないだろ?」
「それを、私が?」
私はわざわざ一語ずつ区切り、皮肉げにつぶやく。手斧を指差していた。すると、黒衣は「その通りだ」と満足そうにうなずいた。
「エリーゼが使うならば、斧以外の選択肢はないな」
さも当然と黒衣が言い放つから、私は沸き上がる不満を飲み込んだ。
剣でも槍でも弓でもなく、斧。それが私に相応しい、と。
バカにしているのかと想った……が、黒衣を見るに違うのだろう。
将来、私と闘いたい。その想いが本当なら、ここで私を騙す意味はない。むしろ、私を強化することを考えてもおかしくはない。
受け取れ、そう黒衣が差し出した手斧を私は両手で受け取る。刃先がズシリと重く、私は慌てて両手に力を込めていた。
長さは三十センチメートルくらいだろうか。小柄な私でも振りまわせそうではあった。一般的な家庭用品の一つなのだから、当然と言えば当然だった。
「エリーゼ、少しそこで素振りしてみろ」
「本気で言っている?」
「当たり前だろ。本当なら、両手に一本ずつ斧を持って欲しいくらいだ」
黒衣が不満そうに言う。その左目はギョロギョロと動きまわっていた。
両腕を組んで黒衣が待っている。私に馬車の運転ができない以上、従うしかないのだろう。
私は仕方なしに御者台を降りて、少しだけ離れる。そして、両手で手斧を振りかぶり、一息に振り下ろした。
「……お前、下手くそか」
黒衣の独り言だったのだろうが、私の耳には大きく聞こえていた。一回で止めるつもりだったが、悔しさのあまり二回三回と続けてしまう。
十回目を振り下ろした後、黒衣にひょいと手斧が奪われる。見ていろ、とつぶやいた黒衣がお手本を見せてくれた。
その後は、黒衣に師事して手斧を何度も振るっていた。時間も、一時間や二時間ではすまないのだろう。気づいたころには夕暮れになっていた。プリムローズ侯爵領へ急いでいたこと自体を忘れてしまっていた。
「――随分とマシになったじゃないか」
私が切り倒した細い木に触れながら、黒衣が満足そうにつぶやく。私も満更ではなかった。肩で息をしているが、疲労感がどこか心地よい。
悔しいが黒衣の見立て通りに、私には斧を扱う才能があるらしい。途中から手斧が手に馴染んでいたのだ。なんとなくだが、どこに振り下ろせばいいのかがわかる。初めての感覚だった。
「これから毎日、俺が指導してやる。……今日は、頑張ったな、エリーゼ」
黒衣は立ち上がり様に、私の努力を褒める。外したままだった仮面をそっと着け直していた。
私は手斧を見つめ、もう一度だけ素振りをしてみる。ビュン、と鋭い音が響いていた。持ち方も力の入れ方も理解できている。それでも、黒衣と闘えるようになるとは想えなかった。
だから、つい口から弱音が零れ落ちていた。
「私が、貴方と闘えるとは想えないよ」
「今のエリーゼには無理だと言わなかったか? 俺は、お前の将来に期待しているだけだ」
「将来なんて、期待できないよ……」
両手で持っていた手斧が急に重く感じる。どうしようもなくて、私はその場でへたり込んでしまう。黒衣が近づいて来るが、顔を上げる気にはならなかった。
「お前は、何をそんなに悩んでいるんだ?」
黒衣がしゃがみ込み、呆れまじりに訊ねてくる。心底どうでも良さそうな態度が少しだけ心地よい。私も黒衣の考えが理解できないのだからお互い様だった。
私にとってもどうでも良い相手だから、不思議と悩みを口にしていた――。
「――お前、バカか?」
開口一番、黒衣は言い捨てる。一方的に、私の話を聞いていた黒衣は嘲るように見下していた。そして、俯きがちな私の頭をこぶしで小突く。
私は無様に仰向けで地面へ倒れてしまった。私の顔の真横に向かい、黒衣は拾った手斧を突き刺す。突然の凶行に顔が引き攣っていた。
恐怖で固まる私を無視し、黒衣は私の上着の襟を引っ張る。無理やりに身体を起こされてしまう。
空いた手で仮面を外し、黒衣は再び素顔を晒している。大きな左目が私の顔にくっつきそうなほど近づけられていた。
「お前の想いを、他人に委ねるな。正しいか悪いか、お前が自分で決めろ」
低い声で黒衣は言い、私を地面に向かって投げ捨てる。背中から地面に叩きつけられて、じんわりと涙が浮かんでくる。
私はうつ伏せになり、衣服に噛みつく。涙なんて流したくなかった。
「愛されたいだ~、ハッ、バカかよ。他人の気持ちなんざ、どうこうできるもんじゃねーだろ。てめぇが好きなら、それでいいだろうが」
小馬鹿にするような荒々しい口調に耳を塞ぎたくなるが、耳のすぐ横で聞こえた大きな音に身体が固まる。
横目で覗き込むと、黒衣の足がそこにあった。私の顔は情けなくも、くしゃりと歪んでいく。必死に口を閉ざしていた。
「どうしても愛されたいなら、無理やりに従わせろ。エリーゼ、お前にはそれができるだろうが!」
黒衣の足が浮いた、そう想った次の瞬間、背中に鈍痛が襲い来る。我慢できずにうめき声を上げていた。
もう涙も声も我慢できなかった。黒衣の足がグリグリと、私の背中を抉っていく。
苦痛の時間は数十秒だろうか。黒衣の足が背中から離れる。
倒れたままの私の真正面にしゃがみ込むや否や、私の前髪を力任せに掴む。涙でボロボロな私の顔を無理やり上向かせ、黒衣は愉しげな笑顔で見下ろした。
「エリーゼ、愛している……これで、満足か? 幸せか?」
欲しかった言葉だ。でも、ちっとも嬉しくない。歯がカタカタと勝手に音を立てて止まらなかった。
「言葉なんて、ただの道具だ。お前自身はどうしたいんだよ」
「……あっ……あ……あう……」
口から漏れたのは意味のない音。黒衣の顔に不機嫌が表れていく。舌打ちが聞こえると同時に、私の頬は黒衣に叩きつけられていた。右、左、と両頬が痛みと熱さを孕んでいく。
「他人のことなんて、いちいち考えるな。まずは、お前がどうしたいかを考えろ。愛していると伝えたら迷惑に想われるなんて、どうでもいいことだろ」
そう言って黒衣は手を離す。私の頭は地面に叩きつけられていた。
「もしお前が斧を取らなければ、俺はお前を切り捨てていた。お前が俺を殺すべく強くならないなら、お前に用はないからな。お前の都合なんて知るかよ」
涙で汚れた顔を上げ、私は黒衣を睨みつける。両こぶしを怒りのままに握り込んでいた。そして、地面に突き刺さる手斧に向かって右手を伸ばす。
「相手なんてどうでもいいだろ。俺の人生の主役は俺だし、お前の人生の主役はお前自身だ。愛してるなら、愛してると好きに伝えれば――」
私は感情のまま手斧を横なぎに振るうが、直撃の直前に叩き落とされていた。黒衣は愉しげに口元を歪め、私を見下ろしながら言った。
「いい憎悪だな……将来に期待できそうだ。俺を、愉しませてくれよ」




