045 私を映す鏡
「離して! 離してよ!」
ぞわぞわと身体を這いまわる嫌悪感に従って私は力一杯に暴れる。掴まれた両手首が痛くて堪らないが、黒衣の拘束は外れそうにない。
黒衣が上に向かって引っ張るから、私のつま先は辛うじて地面に触れている状態だった。吊り上げられた私の身体は不安定にぶらぶらと揺れている。その勢いで何度も黒衣の足を蹴り飛ばしていた。
私の放った風の刃は、どうしてか黒衣に触れる直前に霧散していった。一太刀も浴びせられず、私は黒衣に捕まえられていた。
一瞬で距離を詰められてしまい、ペンダントに魔力を流し込むこともできなかった。下卑た男たちの嘲笑が聞こえてくるようだった。
「あ~あ、くそ、少し落ち着けよ!」
黒衣が苛立たしげに叫ぶが、私には恐怖でしかない。少しでも早く逃げ出したくて、より激しく身体を暴れさせていく。両手首を締めつける黒衣の力が強くなっても止められなかった。
もう数十秒は経ったのだろうか。
黒衣が何かを叫んでいるが、私の耳には聞こえてこない。泣き叫んで抵抗する、それしか頭になかった。私自身、何を叫んでいるのかはわからなくなっていた。
だから、不意に感じた浮遊感に身体が固まってしまった。
突然に両手首の締めつけがなくなり、空中に放り投げられる。どこかで覚えのある感覚……ああ、アデリナ様の土人形に投げられたとき、か。
涙の膜で薄ぼんやりとしてよく見えないが、私は今から地面に叩きつけられるのだろう。でも、下卑た男たちに売り飛ばされるくらいなら、ここで終わる方がまだ幸せかもしれない。
胸にわだかまる嫌な感情にそっとふたをして、私はまぶたを下ろす。身体は地面へ、意識は深い闇へと落ちていった。
「……起きたか」
気遣わしげな黒衣の声に、私は恐るおそる目を開ける。荷台に寝かされていたのか、衣服や食料を収めた荷包みが見えていた。
隣に座る黒衣が私を覗き込んでいるようだが、顔の上半分が仮面で隠されて表情からは窺い知れない。ただ、私を殺すつもりも売り飛ばすつもりもないのか、手枷と足枷は嵌められていなかった。
それでも、私は黒衣へ聞かずにはいられなかった。
「……私を、縛っておかないの? 殺さないの?」
私が言った瞬間、黒衣は呆れたと言わんばかりに大きなため息を吐き出した。
「その気があったら、とっくにしているだろ。違うか?」
「……ありがとう」
「少しは、落ち着いたみたいだな」
黒衣の声に答えて、私は小さくうなずく。そして、首元にあるペンダントにそっと触れる。ひんやりとしたモチーフを握りしめて安堵してしまう。
「先に言っておくが、もうお前を殺すつもりはないぞ」
突然の言葉に、私は黒衣を見上げる。仮面から露出した口もとの様子は、暗がりの中でもハッキリとわかった。とても愉しげに笑っていたのだ。
私は……モチーフを握る手に力を込める。瞳には魔力を注いでいた。
「どうして? 私は、貴方の敵だよ」
私が絆されると想ったのなら大間違いだ。そんな気持ちで黒衣を睨みつける。
力を貸してくれるならば、私はきっと感謝するだろう。それでも、黒衣が大勢の人を殺した事実は変わらない。王国への反逆を企てた一味だったのは間違いないのだ。
王国兵に捕まった後、黒衣を擁護する証言なんてするつもりはない。私にとって、黒衣は利用するだけの相手だった。
「そんなの当たり前だろ? お前、何を言ってんだ」
黒衣はあっけらかんと言う。私は想わず首をかしげてしまった。
敵だとわかっているなら、どうして私に協力してくれていたの? 見捨てても良かったはずなのに……。
「お前と一緒にいる方が強い奴と闘えそうだったからな。プリムローズ侯爵領に行くまでは付き合ってやるよ」
私はまじまじと黒衣を見つめてしまう。その感情に嘘は見られなかった。
何とも言えない理由に眉をひそめるが、そんな私を黒衣は笑っていた。
「女が着飾りたがるのと同じだろ? 男も最強を目指したがるものさ」
それはお前だけだ、不平の言葉を私はグッと飲み込む。そして、二度三度と深呼吸を繰り返した。
理由はどうあれ、利用できるならば利用するべきだ。そう何度も心の中でつぶやき、私自身に言い聞かせていく。黒衣のことはプリムローズ侯爵領までの護衛だと想えばいいのだろう。
「……また襲われたら、助けてください」
「おう、任せておけよ、主」
そう黒衣は冗談めかして言うが、私は少しも笑えなかった。
胸の奥で不安の芽がムクムクと大きくなっていく。その感情から逃げるように、私は目を閉じていた。
黒衣との旅を続けているうちに理解できたことがある。それは、この男が戦闘バカだと言うことだった。
魔法が通用しない事実を私に知られたからか、黒衣は勝手な自己主張を始めていた。闘うか逃げるか、どちらを選ぶか私に訊ねるのは変わらない。ただ、闘うことを催促する言葉が付け足されるようになっていた。
『あの男は強そうだな、ここで潰すべきじゃないか?』
『リーダーのようだな、叩いておかないか?』
『俺の手にかかれば、あの大男なんてわけねぇな。構わないか?』
口元を見るだけで黒衣が何を期待しているかは明らかだった。
本当に闘いたいならば、私の意見なんて聞かなければいいのに……。言葉にはしないが、黒衣の行動は不可解だった。
私が逃走を選択するたびに残念そうな声で黒衣は不満を伝える。一方、仕方なしに戦闘を選択すると歓喜の雄叫びを上げていた。
ある意味で黒衣は凄く素直な性格をしているのだろう。
私も気持ちを素直に伝える努力をしているが、黒衣のようになりたくはないと切に想う。悪いお手本のような男だった。
誰かを殺したい、強い奴と闘いたい、そんな気持ちを伝えられても迷惑でしかない。戦闘狂ではない私に、黒衣の思考を理解することはできなかった。
ただ、黒衣を見ていて気づいたこともある。
素直に気持ちを伝えることは大切、それは間違いない。しかし、それだけではないと想ったのだ。結局は、言葉を受け取る相手がどう想うのかが大事だと感じてしまった。
私にとって黒衣は、私自身を映し出す鏡だった。
愛して欲しいから、まずは私を嫌いになって欲しい。クラウディア様に出会う前、私はこの考えに支配されていた。
無関心を何よりも嫌っていた。だから、関心を惹くために、嫌われる行動をしていた。嫌われた先に、愛される未来があると妄信していたのだ。でも、こんな思考を理解してもらえるわけがない。
『エリーゼは、病気だよ』
いつかセレナが告げた言葉が想い出される。唯一人の友人にさえ、理解はされていなかった。クラウディア様やハンナ様も、この考えは否定していた。
嫌いなものは嫌いなままで、嫌いから好きには変わらない。それが自然な形だった。
だから、私はお父様にもお母様にも愛されていない。
私が黒衣を嫌がっているのと同じことだ。私の独善的な思考を受け入れてもらえなかった。それだけのことだった。
黒衣は私自身を映す鏡。それに気づいても、どうしても私は好きになれなかった。愉しげに闘う黒衣を見るたびに、軽蔑するような想いが強くなっていく。
それと同時に、胸の奥深くを締めつけるような重苦しい感覚が襲ってきていた。気持ち悪さのあまり泣き出したくなるが……これは罰なのだろう。泣く資格があるとは想えなかった。
勝手に、■■■■■の記憶に踊らされた。
勝手に、お父様やお母様に嫌われようとした。
誰かに命じられたわけでもない。悪いのは私でしかなかった。
ふと想い返すと目が潤み始める。そのたびに、何度も何度も下唇に歯を突き立て、両こぶしを力一杯に握り込んでいた。
黒衣が話しかけてきても、どうにも話を続ける気分にならなかった。
会話は二言三言で簡単に途切れていく。申し訳なさを覚えていたが、話題は広げられなかった。
ちっぽけな私は御者台に俯きがちに座るだけだ。重苦しい沈黙が、胸の奥深くを抉るようだった。
「――お前は、自分に自信がないのか?」
唐突な黒衣の言葉は断定的だった。それに、私は何も答えられなかったが、黒衣も答えは期待していなかったのだろう。だろうな、と小さくつぶやいていた。
うなずくつもりはなかったが、靄がかかったような視界の中、鉛みたいに重い頭が下へと落ちていった。
「まあ、今のお前はつまらんが……将来はなかなか面白そうだがな」
そう言ったきり、黒衣は黙り込んでしまう。独り言だったのだろうか。
数秒、数分、と時間が経っていくが会話は始まらない。だから、私の方から聞いてしまっていた。
「……私の将来が、面白いの?」
辛うじて出た声は小さく弱い。私の知る未来は……ハンナ様から暴いた処刑される未来だけ。少しも面白くなんて――。
「面白いだろ? 俺は期待しているんだがな」
他人事だからと勝手なことを。私はのろのろと顔を上げる。黒衣の視線は馬車の進行方向のさらに先へと向いていた。
「将来のお前は、殺しがいがありそうだからな」
「……バカじゃないの」
「そうか? 他人を好きに支配できるなんて、反則技みたいなもんだろ。使いこなせれば、かなりの強敵になりそうだ」
歯を見せてニカッと黒衣は笑う。仮面で上半分はわからないが、満面の笑みを浮かべているのは容易に予想がついた。
私の口からは大きなため息が漏れ出していた。諦めまじりに瞳へ魔力を込めて、私は小さく言った。
「私に、従いなさい」
一秒……二秒……三秒……。
何も言わずに私と黒衣は見つめ合い、唐突に黒衣は笑いを噴き出していた。私はそっと背中を後ろに倒して空を仰ぐ。曇りがちな私の心に反し、空はとても蒼かった。
お前の力は黒衣に通用しない、そんな声が聞こえるような気がした。
口を固く閉ざした私に反し、黒衣の口からは愉しげな声が漏れている。十数秒ほど笑った後、黒衣は一つ大きく息を吐き出す。
そして、荒々しく仮面を外し、真剣な眼差しで私を見下ろした。
「俺がお前の敵だってことを忘れているのか?」
漆黒の髪に、血染めの真紅の左目。……火で炙られたのか、肌が溶けて右目は塞がれている。左目がギョロリと私の姿を映し出していた。




