043 愚かな選択
違う小説を間違えて投稿していましたので差し替えました。
申し訳ありませんでした。
震える両手でペンダントを握りしめる。妖しく光る赤い宝石はひんやりと冷たい。手枷で動きを制限されているからか、祈りを捧げるように両手で包み込みしかなかった。
黒衣が外に出てから数分は経ったのだろうが、私は未だに何も決断できていなかった。黒衣だけでなく、ハンナ様も……お父様も、私に死を勧めるとわかっている。この後に待ち受ける私自身の未来が決して明るくない、黒衣の言葉が脅しでないことも理解できている。
それでも、死ぬのが怖い。死にたくない。でも、死なないといけない。
握った宝石に魔力を流し込もうとはしているが、途中で止めてしまう。戸惑っても解決しないのに、身体が拒絶し続けていた。
同じことを何回繰り返しているのだろうか。頬を伝い落ちる涙の理由が、死の恐怖からなのか、弱虫な私自身への情けなさからなのか、もう私には判断がつかなかった。
黒衣は酷い男だ。いっそのこと、私が気を失っていた間に殺してくれていれば良かったのに。そうしたら、私は悩まなかった――。
「……バカだ、私、そんなことされても、嬉しくないくせに」
言葉を口にすると余計に惨めになる。黒衣への八つ当たりにしかなっていない。むしろ感謝しないといけないのに。本来ならば、死ぬ選択肢すら与えられないと想うから……。
そっと握りしめた両手を開いていく。三日月のモチーフの上に大きな星が飾られ、赤い宝石が輝いている。
初めてのお父様からの贈り物だと喜んだことも、自害用の贈り物だと知って絶望したことも、なんだか遠い昔の出来事に想えてしまう。『公爵家の恥となる前に潔く死ぬ』、それがお父様の願いならば、私は叶えるべきなのだろう。私の瞳から零れ落ちた涙が、三日月のモチーフを濡らしていた。
泣いてばかりの自分が嫌になる。でも、涙の止め方なんてわからない。
呼吸の仕方を忘れたように息苦しく、胸に襲いかかる重苦しい感覚も強まっている。カチカチと勝手に歯が音を立てていた。
私はキュッと強くまぶたを下ろし、再びペンダントを握りしめる。そして、一気に魔力を注ぎ込んでいく。下唇が切れるほどに強く歯を押し立てていた。
まぶた越しに眩い光を感じ、私の心臓は痛いぐらいに脈動する。
数秒後、目を開けると真紅の針が宙に浮いていた。両手を開くと星のモチーフに組みつけられた宝石は灰色に変わっている。
私の魔法は成功したらしい。人差し指を立て、私自身から遠ざかるように折り曲げていく。その瞬間、真紅の針が一直線に飛んでいった。
震える指先を戻し、私自身に向かって裏返す。それだけで、呼吸は荒くなっていく。真紅の針先は、私へと狙いを定めていた。
「あっ、あ、ああ、あ、あっ」
まるで吸い込まれるように視線は針先に固定されていた。口から勝手に音が漏れている。
終わる、終わってしまう。私の命が終わる――。
頭の中を渦巻いたのは、『死にたくない』の想いだけだった。だから、躊躇いがちに折り曲げた指先は止まってしまった。
「――!」
声にならない悲鳴が飛び出る。真紅の針と私の距離はわずか数センチメートル。右眼を貫く直前で、針先は止まっていた。
衝動のままに魔力供給を止める。すると、初めから存在しないように、真紅の針は霧散していった。
私の覚悟は口先だけだった。私に……自害はできない。こんなの無理だ。
堰を切ったように涙が流れていく。幼子のように泣き喚いた。でも、泣いても泣いてもスッキリなんてしない。
許しを請うように蹲る。誰の許しを求めているかは知らない。ただ、誰の救いも得られないことだけは確かなのだろう。
自覚してしまうと、全てがダメになっていた。何もできずに泣き続ける。約束の十分間が過ぎ去ったことにも気づけなかった。
頭の上から降りそそぐ黒衣の声は酷く同情的なものだった。
「それが、お前の決断でいいんだな?」
「……うっ、うう」
「これからは地獄のような日々だろうが……頑張れよ」
言い聞かせる口調で話す黒衣に、私は目の前が真っ赤になるような気がした。
そもそも、お前が私を捕まえなければ――。
「……良いわけない……良いわけない!」
不自由な身体を引き摺って黒衣に近づく。両手で鉄格子を掴み、顔を上に向ける。涙でクシャクシャに歪んだ顔で睨みつけた。
何が面白いのか、黒衣が笑い声を上げる。そして、しゃがみ込んで私と目線を合わせた。
「言いたいことがあるなら言ってみろよ。最期だからな、聞いてやるよ」
私が私でなくなる、そう決めつけた言い方が気に入らない。お前さえ現れなければ、何も起こらなかった。アラン殿下の誤解を解いて、王都に戻っていたはずなんだ。お前が、お前さえいなければ――。
激情のままに鉄格子へ顔を押しつける。仮面越しだが、黒衣の瞳はハッキリと見えていた。
瞳に魔力を集中させながら、鉄格子を握る黒衣の手の上へ私自身の両手を重ねる。訝しげに首をかしげる黒衣の姿に、苛立ちが強まっていった。
「――私に従え!」
黒衣の手に両手で爪を立てると同時に、私は力一杯に叫ぶ。ようやく黒衣の瞳に警戒が宿るが、もう遅い。絶対に逃がさない。
罪悪感なんて少しも感じはしない。目の前の黒衣を支配して使い捨ててやる、私の心の中には悪意しかなかった。
「ふんだ、バーカ!」
子供染みた罵倒だとわかってはいたが、言わずにはいられなかった。私に支配された黒衣は何も答えず、跪いて指示を待っていた。
手枷がこすれて赤くなった手首を擦りながら、私は黒衣を見下ろしていた。
下着の上に黒衣から奪ったコートを纏う。自由を奪っていた手枷も足枷も外し、檻の外に出ていた。
本来ならば決して敵わない相手を、私が支配している。
黒衣は完全に私を侮っていた。いつでも殺せる弱者としか見ていなかっただろう。それが今、逆転している。
少なくとも今の私を、黒衣は見下すことができない。歪んだ優越感が胸に灯っていく。これが望ましい感情ではないと理解していても、心の高揚に浸っていたいと想えてしまう。
コートの裾を引き摺って歩き、荷台からひょっこりと外へ向けて顔を出す。そこは、深い峡谷だった。
馬車一台が通れる程度の道幅しかなく、片側にはゴツゴツとした岩肌が、もう片側には険しい崖が広がっている。洞窟の片側だけを繰り抜いたように、岩天井が昼の太陽を遮っていた。
想わずゴクリと喉が鳴ってしまう。ここがどこか全く検討もつかない。一人で逃げ出せる状況とは想えなかった。
数分間は呆然と見つめていたが、ふと正気に返る。車輪と蹄の音が遠くから近づいてきていた。
私は慌てて踵を返し、黒衣の元へと向かう。最後の命令を守り、黒衣は跪いたまま顔を伏せていた。何か意見をくれるとは期待できない。何を命じれば危機を脱するか、私は考えなければならなかった。
しかし、相手の人数も力量もわからない。黒衣一人で倒せる相手ならば良いのだけれども……。
戦いをまともに知らない頭を必死に巡らせていく。黒衣が敗北した時点で、私の敗北が確定する。その事実だけは絶対だ。それなら、黒衣を勝たせるためにどうすればいい?
蹄鉄の音が大きくなっていく。心臓の鼓動も痛いほどに速くなっていた。
咄嗟に考えついた案は、酷く単純だった。でも、一案しか出せない以上、他の作戦には移れない。羞恥心をかなぐり捨てて、私は急いでコートを脱ぎ去り、下着姿に戻る。
そして、たった一つの作戦を伝えていた。
この選択は、本当に正しかったのだろうか?
男たちの値踏みする眼差しで射抜かれるたびに後悔が強くなった。敵の人数は五人で、どれも屈強な兵士に見える。
大剣を背中に担ぐ黒衣に従い、私はのろのろと足を動かしていた。
手枷を嵌められた下着姿は不安にさせられる。黒衣が支配下にあるとは言え、手枷から伸びた鎖を引かれて歩かされるのは屈辱的だった。まるで罪人か奴隷のような扱いで、気分は最悪だった。
「それが、件の公爵令嬢か……高く売れそうだな」
たったの一言で私の足は止まる。男の言葉が頭の中で何度も繰り返されていた。
売れる……私が、売られる……誰に?
瞬間、思考が恐怖一色に染まった。踵を返して走るが、たったの数歩で鎖が伸び切ってしまう。そして、黒衣に想い切り鎖を引っ張られ、背中から地面に叩きつけられていた。
喉を切り裂くような悲鳴が漏れる。同時に、男たちの嘲笑う声が聞こえてきた。
背中が痛くて堪らない。それよりも、何とも言えない悔しさと悲しさが込み上げて辛かった。
全てから逃げ出したくなった。痛みからも、男たちの声からも。
薄ぼんやりな視界を閉じ、身体を小さく丸める。聞きたくないのに、男たちの声は大きくなっていた。
伸び切っていた鎖が弛んでいき、足音が大きくなる。今は味方のはずなのに、勝手に身体が震え始めていた。
そんな私の上にふわりと何かが覆い被さる。頭からすっぽりと隠されていた。
「すぐに終わらせる。少しだけ待っていろ」
優しい声でささやかれ、私は小さくうなずく。命令主への言葉とは言え、安心してしまった。
男たちの笑い声が消えるまでに、数秒もかからなかった。
「終わったぞ、主」
その声を聞き、私は恐るおそるに身体を起こす。コートを除けて覗き見ると、黒衣がしゃがみ込んで見つめていた。その真横には血で赤く汚れた大剣が地面に突き立てられていた。
「……全員、殺したの?」
「指示通りに奇襲したが、問題があるか?」
「い、いえ……何も、ないの。助けてくれて、ありがとう」
私の命令で死んだ――私が、殺した。
濃厚な血の匂いに気分が悪くなる。間違った選択ではないはずなのに、憎いと想えた敵だったはずなのに、気持ちは少しも晴れなかった。
私が生きるためには必要な選択だった。あのまま売られていたら、私は生きたまま殺されていた。……だから、正しいはずなんだ。
俯きがちな私を無視し、黒衣は手枷を外していく。そして、コートを私の背中から掛けて立ち上がり、背中を向ける。
私はそっとコートの袖に手を入れ、身体を隠していた。




