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042 試される覚悟

 私は静かにまぶたを下ろし、身体を前へと倒す。庇うように立つハンナ様の背中へ額を押し当てていた。

 脳裏をよぎるのはハンナ様が語った未来。今の私は何もしていないのだから、拷問を受ける言われはない。首を切り落とされる理由もない。それでも、怖いと想うのは臆病だからなのだろうか。


 アラン殿下の瞳に敵意が宿る瞬間を見つめたくなかった。クラウディア様に向ける優しい眼差しを向けて欲しかった。あの瞳が、私は好きだった。

 坂から転がり落ちるような、どうにもならない喪失感を覚えてしまう。

 何か説明をしなくてはならない、それをわかっていても口にする気が起きない。縋るようにハンナ様の背中にしがみついていた。


 「エリーゼ嬢、俺は――」

 「――邪魔するぜ!」


 唐突に男性の声が響き、何かが破壊される音が聞こえる。瞬間、私の身体は宙に浮き、ふわりと横抱きにされていた。


 目を開けると、無表情のハンナ様の顔が近くに見えた。私たちのいた窓際には大きな穴が空いている。部屋の角まで移動していた。

 笑い声のもとを見れば、壊れた入口を通って黒衣の男が立っていた。不気味な仮面で顔の上半分を隠し、抜き身の大剣を肩に担いでいる。……刀身は赤く染まっていた。


 「……お前か、どこから湧いて出た」

 「ああ、王太子殿下か……また会ったな」


 怒りを押し殺したような声でアラン殿下は訊ね、黒衣は飄々と答える。

 アラン殿下は私たちとは逆側の角に立っていた。すぐ横にはザレイン伯爵と、ぐったりと引き摺られたエルムントがいる。気絶しているのかもしれない。


 「我が同胞が、その命を燃やし尽くし、この俺を呼んでくれたのさ。潔い、実に立派な騎士だとは想わないか?」

 「あの騎士が召喚魔法を使ったのか……愚か者が」


 苦々しくアラン殿下がつぶやいた。

 召喚魔法や転移魔法は、使用する魔力量が多い。実際、王都から伯爵領への転移魔法だけでも、何十人もの魔法師が協力している。

 特に召喚魔法は術者が命を捧げ、代わりの誰かを呼び寄せる魔法だ――。


 「貴方は、私の騎士をどれだけ殺したのですか?」


 エルムントを床に放り投げ、ザレイン伯爵が問いかける。いつの間に描いたのか、その両手の先に魔法陣が見えた。

 黒衣は大剣を振り下ろし、剣先をザレイン伯爵に向ける。振り払われた血が床を汚していた。


 「いちいち殺した数なんて、数えていると想うか? お前が素直に死ぬならば、それで終わりにしてもいいぜ」

 「……私を殺しても、魔の森へ続く門は砕けませんよ」

 「知っているさ。だが、辺境伯の抑えが弱まれば、王国にとっては痛手だろ?」


 件の騎士から聞き出した通りだ。目的は魔の森に棲む、魔物たちを解き放つこと。そして、王国に混乱を齎し、自分たちは他国へと鞍替えする。

 魔物の氾濫の結果、弱体化した王国に戦争を仕掛けるのか、それとも救援の代償として不平等な条約を結ばせるのか。他国の思惑はわからないが、王国が危機に瀕するのは間違いない。


 きっとクラウディア様の豹変も策の一部なのだろう。

 王妃となったクラウディア様が失態を犯せば、王国に責任を問い、不利な条約を結ばせることもできるのだ。魔物の氾濫で王国に恩を売ることはできなくとも、その影響は無視できないはず。


 王国を捨てるから、王国の民がどれだけ不幸になっても気にしないのか。

 魔物に殺され、他国に苦しい生活を強いられても構わないのか。

 同じ人間が考えていることだとは想いたくなかった。


 「私を殺せる、と。つまらない冗談ですね」

 「……ああ、心地よい殺気だな。お前みたいな強者と、ようやく闘える」


 憎々しげなザレイン伯爵の声に反し、黒衣はどこまでも愉しげだった。大剣を両手で持ち、静かに構えをとる。

 激しい戦闘の予感に、ゴクリと私は喉を鳴らしていた。抱き上げるハンナ様の腕を強く掴んでいた。


 「ハンナ様、皆を……守って」


 私の口から漏れた声は小さかった。それでも、無表情のハンナ様は、私の願いに応えてうなずいてくれた。

 そっと横抱きにしていた私を下ろし、ハンナ様は指先で魔法陣を描き出す。一触即発の空気が漂う中、ふわりと吹いた優しい風が私とハンナ様を包み込んでいく。私も倣うように魔法陣を描き始めていた。


 ザレイン伯爵と黒衣が睨み合い、アラン殿下が遊撃の立ち位置にいる。警戒しているのは、私とハンナ様だった。……事実、ハンナ様の警戒はアラン殿下へと向かっていた。


 「どうしましたか? 怖気づいたのですか?」


 数秒の沈黙が過ぎ、ザレイン伯爵が嘲笑まじりに訊ねる。


 「俺が、そんな軟弱な男に見えるか?」

 「そうですね……愚かだとは想っていますよ? 私と殿下、二人を相手にして、本当に勝てると想っているのですか?」


 ジリジリとザレイン伯爵は距離を縮めていく。反して黒衣は後退っているように見えた。確かに、ザレイン伯爵とアラン殿下を同時に相手にするのは難しいかもしれない。


 黒衣の登場に動揺していたが、冷静に考えてみれば負ける要素はどこにもない。安心したからか、強張っていた私の肩から少しだけ力が抜けた。


 「二対一ならそうだな。だがよ、二対三ならどうだ?」


 黒衣が恫喝するように言う。全く何を言っているのだろうか、二対一どころか四対一の状況で動転でもしているに違いない。威圧しているつもりだろうが、少しも怖くなんてない。

 こちらが有利だと自覚したからか、どうにも気が大きくなっている。私は初めて見下した目を黒衣に向けていた。


 ――だから、黒衣の蠢く口元に警戒をしていなかった。


 失敗を悟ったころには、全てが遅すぎた。思考は薄ぼんやりとし、視線を逸らすこともできなくなっていた。

 私自身の身体なのに、私の意思ではちっとも動きやしない。


 「殺せ、小娘ども!」


 黒衣の叫ぶ声が聞こえると同時に、ぷつりと何かが切れた音が聞こえる。視界が真っ黒に染まっていった。




 目覚めた瞬間、倦怠感が身体中に襲いかかる。どうしてか吐き気も込み上げるし、肌寒くて身体が震える。寝起きは最悪だった。

 開きかけたまぶたを再び下ろし、気持ちを落ち着けるように息を吐き出す。どうやら私は横向きに丸まって寝ていたらしい。枕になっていた右肩がズキズキと痛んだ。


 一回……二回……三回……。私は繰り返し息を吐き出す。

 気分は悪いままだが、少しは和らいできたのだろうか。鉛のように不自由で重い身体を、ずるずると引き摺って起こす。ジャリジャリと金属同士がぶつかる甲高い音が響いていた。


 不思議に想って目を開いた瞬間、私の意識は凍りつく。どこかの部屋にいるのだと想っていたが、明らかに違っていた。


 薄暗い中、上下左右に伸びる鉄製の棒が不気味に輝いている。動物を捕らえておくための檻だと気づくのに時間は要らなかった。檻の外から厚い布が被せられ、刺し込む光は制限されていた。

 恐るおそるに視線を下へ向ければ、どこかで見覚えのある手枷と足枷が嵌められている。身につけていた騎士服も剥ぎとられ、下着とお父様から貰ったペンダントしか残されていなかった。


 立ち上がることも足を伸ばして寝転がることも、小さな檻の中に閉じ込められた私には許されていない。朝なのか夜なのかさえも、私にはわからなかった。

 それでも、誰に捕まったのかだけは、簡単に想像がついていた。

 本当は少しも望んでなんていないけれども、アラン殿下に拘束されたいと望んでしまう。そう想い込みたかった。絶望的な気分のまま、私は膝を抱えて身体を小さく丸めていた。




 ガタン、ゴトン。どこかに向かって動く音が聞こえてくる。檻の中にまで振動が伝わっていた。

 恐らく荷馬車に乗せられているのだろう。車輪が石に引っ掛かるのか、時折大きく揺れ動いていた。そのたびに、御者らしい男性の悪態も聞こえている。

 ……人数は一人なのだろう。御者以外の声は聞こえてこなかった。檻の中から小さく声を上げても反応がなかったから、きっと同じように檻に閉じ込められた人はいない、と想う。


 私と御者の二人きりだ。それが、答えを示していた。

 王国軍の騎士たちに護送されているならば、一人だけが付き従うことはない。その人数は有りえないのだ。


 私はこれからどうなってしまうのだろう?

 不安と恐怖が頭の中をぐるぐると何度もまわり続けている。檻の中にいるのが私だけ――アラン殿下やハンナ様が捕まっていないことを喜ぶ余裕があるはずもなかった。


 助けて、タスケテ、たすけて――。

 心の中で何度も叫び、声に出して何度も願う。誰でもいいから、助けて欲しかった。ポロポロと涙が零れ落ちていくが拭う元気もない。

 ちっぽけな私に追い打ちをかけるように、重苦しい感覚が胸を支配する。息苦しくて……気分が悪くて……。小さく、少しでも小さく、まるで急かされるように私は身体を丸めていた。




 どれだけの時間が経過したのだろうか。急に檻の中へと光が刺し込み、私は目をまたたかせる。檻を包み込んでいた布が外された先に、恐ろしい黒衣が見えた。

 その瞬間、飛び跳ねるように身体を黒衣から遠ざける。震える背中を限界まで強く檻に押し当てていた。


 「まだ生きていたのか」


 黒衣はどこか悲しげな声を上げる。


 「もうすぐ俺の仲間が到着する。それまでに、死んでおけ。……そのペンダントは、今、お前がここで死ぬためのものだろう?」


 黒衣がまるで言い聞かせるような口調で言う。ドシリ、と檻の前で座り込み、私を見つめていた。


 言葉の意味を理解するのに十秒は必要だった。からからに喉は乾いている。


 「……私は、死なないといけないの?」

 「死にたくないなら、それでも構わないんだぞ。だけどな、死ぬべきだったと後悔するのは間違いないな。……ああ、そう言えば、随分と可愛らしい下着を履いてるんだな。これは、役得だったかな」

 「えっ? ――あっ」


 冗談めかした黒衣の声。だが、認識した瞬間に羞恥が激しく込み上げてくる。身体を小さく縮こまらせていた。


 「俺一人に見られただけで、その反応だと先が想いやられる。このまま生きるつもりなら、何十人もの男の前に晒されることになるんだからな」


 声のトーンを落とし、黒衣は淡々と語る。冗談には聞こえなかった。


 「い、嫌……嫌だよ」

 「それなら、死んでおけ。生きることよりも、死ぬことの方が幸せなときもあるさ。その決断は、誇るべき立派なことだ。俺は、それを邪魔する気はない」


 そう言って黒衣は立ち上がる。踵を返して出て行ってしまった。

 十分後にまた来る、その言葉に私は何も答えられなかった。鉄格子越しに黒衣の大きな背中を見送るしかなかった。

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