039 覚悟の在処
「……私はいざとなったらエリーゼを殺すよ」
お父様が応接室を出てから数分は経過したのだろう。私の涙を拭っていたハンナ様が苦しげに言った。
「どうして、そんな酷いことを言うの? お父様も、ハンナ様も、私が死んだらいいと想って――」
「――違う! 私は、エリーゼを殺したくなんて……」
吠えるような口調が弱々しく途切れていく。ハンナ様は泣き出しそうな顔で、私を見つめている。私の両肩を掴んだハンナ様の両手には、痛いくらいに力が入っていた。
私の死を望んでいないのなら、『殺す』なんて言葉を使って欲しくない。そんな言葉を聞きたくなんてない。悲しみのあまり私の顔は歪んでいるのだろう。拭っても拭っても涙が流れ落ちていった。
数秒後、堪えるような顔で黙り込んでいたハンナ様が重々しく口を開いた。
「王国の女騎士の必需品はね、剣でも盾でもない。エリーゼは、何かわかる?」
突然、ハンナ様は何を言っているのだろう?
脈絡のない質問に涙が止まる。想わずハンナ様の顔をまじまじと見つめてしまっていた。しかし、真剣なハンナ様の眼差しで射抜かれるだけで、冗談で言っているようには想えなかった。
上手く働かない頭で私は答えを探すが、数秒後には力なく首を左右に振っていた。
「答えはね……毒だよ。自害するために、自分で用意しておくの」
驚きで固まる私に向かい、ハンナ様は自嘲気味に微笑む。
「戦で負けた後の日々は屈辱的なものになる。楽に殺してくれるのならいいけれど……救いのない、終わりの見えない拷問を受けるかもしれない。男ならば過酷な肉体奴隷、女ならば惨めな、愛玩奴……いえ、男も女も酷い扱いを受けるの。だから、苦しまないためにも毒が必要なのよ」
「……本当に? 嘘、じゃないの?」
「本当だよ。私はよく知っているから。……公爵様が渡したネックレスもそうなんだよ」
そう言ってハンナ様は床に落ちていたネックレスを拾って差し出す。三日月と星のモチーフがキラリと輝いていた。
ハンナ様は星に埋め込まれた紅い宝石に触れる。そして、魔力を流し込み始めた瞬間、宝石は光を放ち出す。眩い光に私は目を閉じてしまっていた。
「エリーゼ、見てくれる?」
恐るおそるにまぶたを開けると、赤い宝石は消えていた。代わりに細い十センチくらいの真紅の針が宙に浮いている。
ハンナ様は音楽団の指揮者のごとく、指揮棒替わりに人差し指を動かしていく。すると、指の動きに合わせて真紅の針は踊り出す。しかし、緩やかな指の動きに反して、針の動きは高速で、指先の動きをトレースしている割にはやけに大きく動いていた。
真紅の針、あれはきっと毒針なのだろう。それも、簡単に命を奪う猛毒。
ハンナ様がハッキリと説明しなくても、頭が死の恐怖を理解していた。指先一つで簡単に動かせるから、うっかり自分に向かって指を動かすだけで死ねる。
ナイフを自分で刺したり、毒を自ら口にするよりは、心の抵抗は少ないかもしれない。ほんの少し指先を動かすだけでいいのだから。
「使い方は、理解できたみたいだね。……ごめんね、怖がらせて」
そう言ってハンナ様は魔力供給を止める。すると、深紅の針は星のモチーフに吸い込まれていき、元の赤い宝石へ戻っていった。
ネックレスを持ったハンナ様の両手が私の首の後ろにまわされ、そっと私の首を飾り立てた。
「エリーゼに、これを使わせるつもりはないよ。でも、もし使うと決めたときは、絶対に迷わないで欲しいんだ。もう、あんな苦しい想いを……私は、エリーゼにして欲しくない」
私からのもらい泣きとは違うのだろう。ハンナ様の顔はクシャリと歪んでいた。
未来の私は、処刑されるまでに拷問を受けていたの? もしそうならば、私の最期はどれだけ惨めだったのか。
ポツポツ、ハンナ様の瞳から涙が落ちていく。今の私を通して、未来の私を想い出しているに違いない。悲しげで、苦しげなハンナ様の顔つきに、私は何も言えなかった。
ごめんなさい、ハンナ様。私は心の中で謝る。
どこかで高を括っていたかもしれない。ハンナ様がいるのだから命までは奪われない、最悪な展開にはならない、と。
今と、ハンナ様の知る未来とは違う。でも、ハンナ様と一緒にいた未来の私は死んだのだ。無条件に信頼して私が命を預けても、それはハンナ様の負担にしかならない。そもそも最初から、ハンナ様は私が闘うこと自体に否定的だった。
忘れてはいけないのだ、ハンナ様は一度も私に闘えとは言っていないことを。
クラウディア様を助けると決めたのなら、私は自ら命を終わらせる覚悟を決めないといけない。
私は■■■■■の知識にあった英雄たちとは違う。
誰かを守ると決めて、必ず勝利するほどの強さはない。勝利を妄想する前に、現実的な敗北を心配するべきだった。
私は首から下がったペンダントのモチーフを握りしめる。突き刺さった手のひらがジクジクと痛み出していた。
「覚悟はできたか?」
心配そうなアラン殿下の声が聞こえてくる。足元の魔法陣を眺めていた顔を上向かせると、軽く膝を折って私を見つめるアラン殿下と視線が交わった。
今、魔法陣の中にいるのはアラン殿下と供にザレイン伯爵家へと赴く者だけだ。その数は私とハンナ様を含めて五人だけ。非戦闘員に近い私を除いた四人だけで、アラン殿下を護衛するのは少し心許なく想えてしまう。
応接室から転移魔法陣の描かれた部屋へと移動した後、私とハンナ様は会話らしい会話をしていなかった。
悪いのは私なのだろう。初めて見る転移魔法陣に、不安が溢れ出していた。
命の危険があるとは限らない。何も起こらずに終わるかもしれない。それでも、首から下がったネックレスが何度も私に問いかけてくる。お前は本当に自害できるのか、と。
私の答えは決まっている。自害できる、ハンナ様の手を煩わせない、と。……でも、本当にできるのだろうか。最近、死にかけることは何度もあったが、一度たりとも死にたいと願ったことはなかった。
ダイアウルフに弄ばれたときも、黒衣の男に大剣で斬りつけられたときも、そうだった。死にたくない一心で勇気を振り絞ったのだ。死ぬために勇気を出せるかは、私にはわからない。
――お前の覚悟は口だけではないのか。
ハンナ様が言ったわけではない。他の誰かから言われたわけでもない。私自身の心が私自身を責め立て続けていた。
「……大丈夫です。覚悟は、できています」
「そう不安になるな。エリーゼ嬢は俺の隣で、嘘を見抜いてくれればいい。荒事になっても、俺がお前を守ってやる」
元気づけるようにアラン殿下が言う。そして、冗談めかした笑い出した。
「それに、エリーゼ嬢に何かあれば、俺がクラウディアとスティアート公爵に責められてしましな」
私は想わぬ言葉を聞き、目をパチパチと動かしてアラン殿下を凝視していた。
「……お父様が、殿下を怒るのですか?」
「ん? そんなの当たり前だろ。エリーゼ嬢は、大切な娘なんだから」
私のことでお父様が怒るなんて……ああ、そっか。アラン殿下の手前、私への本心を隠したのか。
クラウディア様だけでも、私を心配してくることに喜ばないと。
「きっと、お父様はお怒りになりますね」
アラン殿下に向かって微笑んで見せる。本当に、怒ってくれたらいいのに……。
「エリーゼ嬢は……」
「殿下?」
「いや、何でもないんだ。ただ、今回の視察が終わったら、少しだけ時間を貰ってもいいか?」
何かあるのだろうか? 不思議に想いながらもうなずく。すると、アラン殿下は優しく微笑んで私の頭を撫でる。
もし私にお兄様がいたら、こんな風に撫でてくれたのだろうか。目を閉じてされるがままになっていた。
「では、そろそろ行くとするか」
アラン殿下はそう言ってもう一度私の頭を撫でると立ち上がり、転移魔法の準備をしている魔法師たちのもとへ向かった。
遠く離れるアラン殿下の背中を見ながら、そっと頭に触れる。なんだか名残惜しい。男性に頭を撫でられるのは、初めての経験だった。
クラウディア様の優しい手つきとは違う。アラン殿下の撫で方はどこか強引だった。でも、痛くはないし、嫌でもなかった。
「あの、エリーゼ……」
どこか不安そうな声。私が振り返ると悲しげに顔を歪めたハンナ様が立っていた。私は慌てて頭の上から手を下ろす。
どうしてかハンナ様に見られていたことが気恥ずかしかった。
「殿下はクラウディア様の婚約者、ちゃんとわかっているよね?」
「うん? わかっているけど……それがどうかしたの?」
「別に何もないよ。エリーゼがわかっているなら、それでいいの。……お願いだから、一人で悩まないで、何かあったら私に相談するんだよ」
意味がわからないままにうなずくが、ハンナ様の表情は曇ったままだ。そんなハンナ様を私は怪訝な顔で見つめてしまう。
アラン殿下とクラウディア様は婚約者同士で、二人はお似合いのカップルだ。今更、ハンナ様に確認されるとは想わなかった。
私がアラン殿下と話すことに、何か不都合でもあるのだろうか?
思考を巡らせてみるが、特に問題があるとは想えない。強いて言うならば、私が精霊憑きの力でアラン殿下を支配する可能性があることくらいか。でも、そんな明らかな反逆行為をするつもりはない。
ハンナ様が何を不安がっているのか、私にはさっぱりわからなかった。
「――準備が完了した! これより、ザレイン伯爵家へ向かう!」
アラン殿下の声に、私の思考は途切れる。堂々と宣言するアラン殿下の姿に、私の視線は釘づけになっていた。
気合を入れるように両こぶしを強く握りしめる。アラン殿下から与えられた役割を果たすために、精一杯頑張ろうと私は心に決めた。




