003 未来の王太子妃①
「――あれ、今回は間に合ったんだ」
私の隣にムスッとした表情のセレナがドスンと座る。横目でセレナが強く睨みつけてくる。それは、威圧しているつもりなのだろうか?
クスクスと小さく笑いを零し、私は正面へと顔を向ける。不満げなセレナの声が聞こえていたが反応するつもりはなかった。
セレナの声は平坦ではなく、いつもの調子を取り戻している。きっと想うところはあるのだろうが、セレナの中では折り合いがついたに違いない。それは、私が口出して良いことではないはずだ。
講義室の扉が開かれ、講師がゆっくりと教卓へと歩いて行く。私はセレナへの意識を捨て、これから始まる講義へと思考を切り替えていた。
「――素敵な組み分けだと想わない?」
私は配られた組み分け表を確認しながらつぶやく。隣のセレナからは大きなため息が吐き出されていた。
「……私と同じ組が嫌なの?」
「それは冗談で言っているの?」
笑い混じりに訊ねると、セレナが苦々しく顔を背ける。
セレナ、貴方も組み分けの意味に気づいているのでしょう?
「……私のせいだよね」セレナが顔を俯かせた。
「ええ、セレナの友人だから……いえ、監視役としてかしら? やっと問題児として認められたわけね。おめでとう、セレナ」
パチパチ、と小さく両手を打ち鳴らす。三日後から始まる魔法実技、その組み分け発表で講義室内は騒々しい。私とセレナの会話を聞き咎める者はどこにもいなかった。
「うるさいよ! エリーゼだって問題児のくせに!」
「あら、私の場合は身分の問題でしょう? セレナとは別問題よ」
セレナも理解しているのか、悔しげに下唇を噛んでいる。反論の言葉は聞こえてはこなかった。
この学年で身分への配慮が必要なのは、公爵家の私と隣のクラスに在籍している侯爵家の跡取り息子だけだ。当然のように私と彼の組は人数が少なく、同じ組に配属されたのは親しい関係だと名前が知られている者ばかりだった。
もっとも、私の組にはセレナしか所属していない。私への配慮か、それともセレナへの警戒か。どちらが本当の目的かは曖昧に想えた。
まあ、この組み分けの狙いは別のところにもあるのでしょうね――。
「次期王太子妃様、直々にご指導いただけるとは光栄の極みだわ」
私とセレナの実技班に記載された、講師の名前を指先で撫でる。
『担当講師 クラウディア・グレスペン』
グレスペン侯爵家の第一子にて宰相令嬢。私よりも一つ年下の異母妹がおり、姉妹まとめてグレスペン侯爵に溺愛されいる、と社交に疎い私の耳にも届いていた。それは、クラウディア様と王太子殿下の不仲の噂も同じだった。
王太子殿下の寵愛を男爵令嬢に奪われた。そして、男爵令嬢に悪辣な制裁を加えている――。
噂は私の通う基礎学部にも届いている。私の聞き及ぶ範囲だけでも、両手では収まらないほどにクラウディア様の悪評は流れていた。
十五歳から十八歳までの三年間を過ごす高等学部は、将来に向けて各個人の才覚を伸ばす場所だ。それなのに、色恋にかまけて目的を忘れているのだろうか。
国の将来に一抹の不安を感じる……が、どうでもいいか。私に興味はない。
クラウディア様は風と火、水の三属性持ちであり、魔法の腕は確からしい。私は風属性のみ、セレナは風と火属性の両方が使える。
指導者教育の一環とは言え、クラウディア様は講師なのだ。私とセレナを正しく指導するならば、性格の問題には目を瞑ろう。私は問題視する気はなかった。
もし、そうでないならば……クラウディア様、わかっていますよね?
この組み分けは明らかに作為的だ。貴族嫌いのセレナに、将来は貴族女性の頂点に立つクラウディア様を接触させる。相性が良いとは想えない。まるで問題行動を起こせと期待しているようだった。
実際、セレナが問題を起こしても私には止める気がない。むしろ、噂通りの態度をクラウディア様がとるならば、私はセレナを強引に巻き込むつもりでいる。
次期王太子妃は指導者の資質に欠ける、そんな責め文句を欲しているとしか想えなかった。
「エリーゼ、また悪い顔してる」
諦め口調でセレナがつぶやき、これ見よがしに大きなため息をつく。そして、剣呑な眼差しを送りながら、重々しく口を開いた。
「お願いだから、バカなことはしないでよね」
――それは、クラウディア様次第ね。
私がセレナを安心させるように満面の笑みでうなずくと、セレナもぎこちなく微笑み返してくれた。
三日後、魔法実技当日を迎えた。
学園指定の運動着を身につけ、セレナと二人並んでクラウディア様の到着を待つ。講義の開始時刻はすでに十五分は過ぎていた。
演習場のそこかしこで講師と同級生たちの自己紹介が聞こえてくる。私とセレナの二人だけが演習場の入口で立ち尽くしていた。
私には同情的な視線、セレナには侮蔑的な視線。自己紹介の合間にチラチラと向けられる視線が鬱陶しくて仕方がない。
セレナも苛立っているのか、憮然とした表情のまま口を開かない。気まずい沈黙が流れていた。
自己紹介の時間が終わったのだろう。緩んだ空気は霧散し、張り詰めた空気が漂い始める。
基礎学部、それも第一学年で学ぶ魔法は初級に過ぎない。しかし、初級魔法とは言え立派な魔法だ。使い方を誤れば大怪我をしかねない。
同級生たちの顔つきは真剣そのものだ。講師たちも緊張しているのか、各組での魔法指導が始まった途端、強張った表情に変わっていた。
諦め混じりにため息を吐き、顔を横へと向ける。セレナは羨ましげに演習場を眺めていた。
「……これ以上は時間の無駄よ」
怒りを押し殺して私がつぶやくと、びくりとセレナは肩を揺らす。しかし、恐るおそるにうなずき返してくれた。
「いつものように、私に魔法を教えてくれるかしら?」
「……わかった、任せてよ」
パンパン、とセレナは二度両頬を叩く。元気よく「エリーゼ、行こう!」と声をかけ、私の手を引いて歩き出した。
早歩きで横へと並び、二人で演習場の端へと向かう。
身分では私が上だが、魔法では圧倒的にセレナが優れている。自然、私とセレナの上下関係は講義中に限って逆転していた。
セレナは善人だか、聖人ではない。そして、友人のカテゴリーに入るとは言え、私はセレナの嫌いな貴族だった。
無意識のうちに貴族へ劣等感を抱いているのだろう。初めてセレナに指導をお願いしたとき、その視線には軽蔑の色が混じっていた。朗らかな笑顔にもどこか歪さがあったのだ。
憎い貴族の一人が頭を下げる。その事実に、セレナは愉悦を感じている――。
本当は怒るべきだとわかってはいた。それでも、セレナは私を見ていた。無関心でないのならば、少しでも私に歩み寄ってくれるのならば、その理由はどうでも良かったのだ。
昔も今も、そしてきっと未来も、私は変わらない。セレナの瞳に私が映っている。それだけのことが、とても嬉しい。
まだ出会ってから三ヶ月に過ぎないが、私への感情は憎悪から親愛へと変わっている。セレナの視線が優しげな色を帯びていることを知っているのだ。
だから、過去に嫌われていたことは問題にもならない。
――セレナは学園でできた初めての友人。
軽やかな足取りで進むセレナに置いてかれないように、私は足を早めていく。ちらりと覗いたセレナの横顔はニコニコと笑っていた。
どうやら魔力には味があるらしく、その味が魔法属性を決めている。
美味しい食事を提供できれば、それに見合った魔法を精霊たちは返してくれる。精霊たちが支払った食事代、それが私たちの学んでいる魔法らしい。
魔力は食材で、魔法陣はレシピ。魔法使いは、精霊専門の料理人と言い換えても良いのだろう。
どんな料理を作るのかを考える、それはとても楽しいことだ。精霊に祈りを捧げる、そんな曖昧な説明よりも理解しやすかった。
学園入学時には下位グループだった私が、中位グループまで成績を上げられたのはセレナの功績で間違いない。セレナにとっては何気ないアドバイスだったのだろうが、私の魔法観を一変させるには十分だった。
漠然としたイメージが具体的なイメージへと変わり、私の風魔法は少しずつ洗練されている。
今日のセレナからの課題は、同時に複数の風の刃を発生させることだった。
指先で宙に魔法陣を描き、地面に向かって刃を放つ。同じ動作を何度繰り返したかもわからない。地面にはいくつもの爪痕が刻まれていた。
汗を拭うのも何度目だろうか。じっとりと濡れた衣服が気持ち悪い。荒れた呼吸を整えるように天を仰ぐ。雲一つない青空が凄く、遠かった。
「少しいいかしら?」
「――誰っ!」
突然、後ろから声をかけられて私は想わず飛び上がる。慌てて振り返った先には見知らぬ女性が立っていた。
一歩……二歩……三歩……。警戒心を最大まで高めたまま後ずさる。右手は魔法陣を描き始めていた。
女性の背中に隠れて瞑想するセレナが見えた。周囲に十数個もの火球を発生させ、上下左右に動かしている。修練に集中しているセレナは女性に気づいてはいなかった。
「彼女、凄いわね」
気取った様子もなく女性が話しかけてくる。その視線は私の右手が描く、魔法陣へと向けられていた。
女性の余裕は私の実力を見切ったからだろうか。柔らかな笑みは崩れていない。
私レベルの魔法ならば対処できる。その自信が女性にはあるのだろう。弱いことは自覚している。それでも、女性の余裕ぶった態度は不愉快だった。
眉根を寄せ、私は女性を睨みつける。
輝きを放つ空色のかかった銀髪はふんわりしており、優しげな印象を与えた。その一方で、透けるような紫の瞳は気品を感じさせる。それだけで、目の前の女性が誰であるかは、簡単に察しがついていた。
高等学部の運動着を身につけ、私とセレナを気にかける人物。そんな人物、クラウディア様しか考えられない。
噂話は誤りだったのだろうか。目の前のクラウディア様からは、傲慢さも残虐さも感じられなかった。
それでも、魔法陣を描く私の右手は止まらない。むしろ、その動きは加速していく。不審者の正体に気づいた後も、敵意は少しも損なわれなかった。
理由は単純。ただクラウディア様が気にいらない。その澄ました顔を傷つければ、少しは私を意識するだろうか。余裕ぶった笑顔が、私に関心がないと示しているようだった。
同時に四方八方から風の刃で刻みたいところだが、今の私には風の刃を同時に発生することはできない。
できないのならば仕方がない。息の続く限り風の刃を連続で放つ。……一太刀くらいならば浴びせられるはずだ、きっと。
「貴方は……面白いわね」
満面の笑みでクラウディア様は称賛する。その響きに侮蔑を感じたのは、私の被害妄想だろうか。クラウディア様はゆっくりと一歩を踏み出した。
その瞬間、私は魔法陣へと魔力を流し込む。クラウディア様との距離はたったの二歩。この至近距離で回避は不可能に近かった。
それならば、クラウディア様に取れる手立ては――。
「貴方の刃では、私の盾は壊せないわ」
「……うるさい!」
涼しい顔で話すクラウディア様。その銀髪が舞い上がる竜巻に乗って踊る。
真っ向から防がれると予想はしていたが、全く太刀打ちできていない。私は魔法陣を描いては風の刃を放つが、クラウディア様の竜巻に飲み込まれるだけだった。
十回……二十回……三十回……。繰り返すが状況は変わらない。身体中から汗が噴き出していた。
慈しむような眼差しを送るクラウディア様に気づかない振りを決め込む。悔しいが、少しも相手にされていなかった。
……私をバカにしているのかしら? 苛立ちが募っていく。
欺瞞を暴いてやろうと、私は瞳に魔力を集中させる。風の刃を振るいながら、私はクラウディア様を睨みつけた。
赤と橙色を織り交ぜたピンク色。どこか愛おしげな雰囲気に、想わず私は顔をしかめる。初めて見る感情線だった。
――気持ち悪い。そんな目で私を見るな!
衝動的に沸き上がった嫌悪感に従い、クラウディア様からの視線を断ち切るように風の刃を振り下ろす。
次に、クラウディア様の背後に向かって風の刃を放った瞬間、ゾクリと本能的な恐怖が私の背筋を凍らせる。射殺さんばかりにどす黒く染まった感情線が真っすぐに伸び、私の胸を射抜く――。
荒れ狂う風音と、轟く爆音。
鼓膜が破けたと錯覚するほどの衝撃に呼吸が止まる。心音が今すぐに逃げろと早鐘を打つが、それは叶わない。
腰砕けになった私はその場でへたり込んでしまっていた。
「……貴方、精霊憑きなのね」
鋭い声が静かに響く。私を背中に庇い、クラウディア様が立っていた。
「そうだけど、悪い?」
訊ねる声は愉しげで、私には聞き慣れた響きだった。
クラウディア様の風で巻き上げられた砂埃。そのカーテンが開いた先に、セレナが姿を現す。その両腕は炎で覆い隠されていた。