036 少女、逃走中
小休止の後、ダイアウルフの背中に再び乗って森の中を疾走していく。当初の予定通りに学園へ向かって大まわりで移動していた。
ハンナ様の助言に従ってダイアウルフには魔法を重ね掛けしている。どうやら持続時間は三時間ほどらしく、反抗的になるたびに魔法を使っていた。
今、私は背中からハンナ様に抱きしめられ、振り落とされないように支えられている。背後から聞こえるハンナ様の指示に従い、ダイアウルフへ命令を下していた。
黒衣の男に追跡能力がないとは言え、他の仲間に発見される可能性は高い。どれだけのダイアウルフを飼育しているかはわからないが、相当数を調教して従えているのは間違いなかった。
陽の光を浴びて草木は輝いているが、不安で陰った心は少しも晴れてはくれない。どうしても気楽に会話をする気にはなれなかった。
空腹で頭がふらふらしているのも要因の一つかもしれない。
結局、朝から何も食べてないのだ。何か水分を口に含むこともできていなかった。辛いのはハンナ様も一緒、そう弱い心に言い聞かせて我慢しているが苦しいことに変わりはない。
太陽はすでに頭の真上にまで昇っている。
そろそろお昼の時間、ご飯にしようよ! ……そう言えたら良かったのだろう。逃走中の今、どうしても告げることが躊躇われていた。
数十分後、疲労も空腹も我慢の限界を迎えていた。
いつの間にか耳元でささやかれるハンナ様の声が聞こえない。視界もグニャグニャと歪んでいる。
「――!」
身体が前へと倒れていくが、留まる力が出てこない。なんだか眠くて仕方がなかった。
頭の真上から小さな寝息の音が聞こえてくる。
私がそっとまぶたを開けると、無邪気な顔でコクリコクリと船をこぐハンナ様の姿があった。ハンナ様を起こさないように視線を左右に動かせば、今の状況はすぐに理解できた。
ハンナ様の両膝を枕にして私は寝転んでいた。青々と生い茂る木々が陽射しを遮り陰をつくる。時折吹く風は涼やかで気持ちが良かった。
私はどれだけ眠っていたのだろうか。太陽は真上から随分と傾いて見えた。
そっとハンナ様の膝上から抜け出して身体を起こす。乗り合わせていたダイアウルフはどこにも見えなかった。
大きく背伸びをして身体をほぐしていく。周囲を見渡すが、辺り一面は草木で覆われるばかりだ。今、私とハンナ様がどこにいるのか見当もつかなかった。
どの方角に進めば学園にたどり着くのだろうか?
キュルルル、お腹の虫が元気よく声を上げる。恥ずかしさのあまり想わずお腹を両手で押さえてしまう。急に空腹感を想い出してしまった。しかし、食べられそうなものを持ち合わせてはいなかった。
疲れて眠っているハンナ様に申し訳なく想いつつ、私は静かに近くの草木を探っていく。昨日訪れた沢のまわりには、木の実や果実が育っていたのだ。このまわりにも育っているかもしれない。探せばきっと見つかるはず、そう信じて歩き始めていた。
探し始めて十数分後、私は両腕一杯に木の実と果実を抱えていた。
昨日の採集でハンナ様のお墨付きが出たものだけを採集してきたのだ。全部がとは言わないが、八割くらいは食べられるのではないだろうか。
帰る足どりは、どこまでも軽やかだった。笑顔のハンナ様を想い浮かべ、ホクホク顔になっていた。
「ハンナ様、起きて。ご飯にしようよ」
眠ったままのハンナ様に声をかける。二度三度と声をかけると、寝惚け眼がゆっくりと開かれていく。パチパチとまぶたを動き、澄んだ瞳が私を捉えていた。
「おはよう!」
「……ええ、おはよう」
ゴシゴシと目元を擦りハンナ様が身体を起こす。私は自信満々に両腕の中の木の実と果実を見せる。
ハンナ様は数秒ほど固まっていたが、ふいに朗らかに笑った。
私の両腕からありがたそうに果実を受け取って表面の汚れを拭う。そして、ハンナ様は豪快に齧りついていた。
「美味しい。ありがとう、エリーゼ」
幸せそうなハンナ様の顔に、私まで幸せな気持ちになっていた。
魔力の使い過ぎが原因で、私は気を失っていたらしい。感情の色を視るのと比べて、誰かの心を支配するのは魔力消費が激しいようだ。もともとの体力が少ないことも要因の一つなのだろう。
少し眠って元気は戻っている。それでも、ハンナ様は私に力を使わせるつもりはないみたいだ。私がエリーゼを連れていく、その一点張りだった。
私が起きていなくとも魔法は発動したままになるらしく、私が気絶した後もダイアウルフは走り続けたようだ。
魔力が限界を迎えたタイミングで、ダイアウルフは私とハンナ様を背中から振り落とそうと暴れた。だから、ハンナ様が討ち取ったそうだ。
それからは、ハンナ様が私を横抱きにして安全な場所まで運んでくれた。緊張感が緩み、小休止の間に眠ってしまったのだと恥ずかしそうに教えてくれた。
――私の疲れは心配するのに、ハンナ様自身の疲れは無視するの?
心に浮かぶ言葉を飲み込み、私はお互いに休めて良かったと笑って見せる。
体力でも魔力でも、ハンナ様は私より何倍も上だ。どちらかが無理をするならば、ハンナ様の方が良いのだろう。
ただ、頭で理解はできても気持ちでは納得できなかった。
私の不満を察したのか、強引にハンナ様は私を横抱きにする。
監禁されていた洋館から脱出したときと同じだ。風魔法を発動させたハンナ様のまわりに風が吹き荒れている。
「私は大丈夫だから、しっかり掴まって」
真剣な顔つきのハンナ様に、私は何も言えずにうなずく。ハンナ様の首に両手をかけ、そっとまぶたを下ろした。
数回の小休止を挟みながら、ハンナ様は疾走する。太陽はすっかりと沈んでしまっていた。夜目の効かない私には暗い森の中は恐怖でしかない。
ハンナ様の向かう先が北か南かもわからない。本当に学園へ近づいているのかも定かではなかった。
それでも不安を口にしなかったのは、ハンナ様の顔に迷いがなかったからだ。真剣な横顔を見つめているとホッと心があたたかくなる。どうしてかハンナ様に任せておけば大丈夫、そんな気持ちになったのだ。
「――そんなに熱く見つめられると、少し恥ずかしいかな」
唐突なハンナ様の声に、私は想わず目を見開く。クスクス、と小さくハンナ様が笑っていた。
「私に惚れちゃった? でも、相手がエリーゼなら、嬉しいかな」
「バッ、バカ言わないでよ。惚れるなんて、そんなこと……」
「冗談だから怒らないで」
悪びれた様子を少しも見せずハンナ様は小さく舌を出す。顔はニヤニヤと緩んでだらしない。少しもカッコよくない姿に、私は不満を露わに睨みつける。
黙々と走っていたハンナ様が久しぶりに口を開いたと想えば、つまらない冗談でがっかりする。ついついため息が漏れていた。
「ごめんね、エリーゼ。……ほら、前を見てよ」
どこか得意げに笑うハンナ様に、私は眉根を寄せてしまう。そして、顔を向けて呆然と固まってしまった。
「やっと戻ってこれたんだよ」
ああ、この景色を私は知っている。ここは学園の裏側にある丘だ。
確かセレナがクラウディア様を慰めていたのは、あの辺りだったろうか。随分と昔の出来事に想えてしまう。
丘から覗く校舎は真っ暗で、どこか寂しく物悲しい。たったの二日ぶりに見たが、それでも泣き出したくなるくらい嬉しかった。
ハンナ様がそっと下ろすや否や、私は頼りない足どりで丘を降りていった。一歩、二歩と踏み出すたびに少しずつ大きく見える校舎に、弱い心が我慢できなくなっていく。
気づけばペタンと座り込み、声を出して泣き喚いていた。幾筋も涙が零れ落ちるが構いやしない。
数分間、私は泣き続けていた。グスンと鼻を鳴らしながら目元の涙を拭う。何度も何度も拭うが、なかなか止まらなかった。
「少しはスッキリした?」
そう言ってハンナ様が私の隣に座る。俯きがちな私の頭を優しく撫でまわしていた。泣き出した私を何も言わず見守ってくれた、そのお礼が言いたい。でも、すすり泣くので精一杯の私は何も言い出せなかった。
感謝しているけれど、ハンナ様は意地悪だと想ってしまった。
止めようと我慢しているのに、優しく撫でられたりしたら涙腺がまた決壊してしまう。涙目が恥ずかしくて顔を上げることはできなかった。
涙が少し落ち着き、私はハンナ様に手を引かれて歩いていた。
ハンナ様が秘密にしていた『協力者』のもとへ向かうらしい。泣き疲れて少し重い身体を引き摺って後ろからついて行く。丘を降りて学園へと進んでいた。
さらに数分歩くころには、私の涙は止まっていた。唐突にハンナ様が手を強く引っ張り、私を抱き留める。
「少し飛ぶから、抱き着いてもらっていい?」
想わずうなずく私の身体を風が攫う。気づけばハンナ様の腕の中に包まれていた。ハンナ様の得意げなウィンクに目をしばたかせながら、私はハンナ様の首に両手をかける。
小さく私の身体を揺すり、ハンナ様は抱き方を変えていく。
入念に準備するハンナ様の姿に不安が込み上げてくる。森の中を移動したのとは違うのだろうか。私は両腕に力を入れ、ハンナ様に身体を押し当てる。私の動きに合わせるようにハンナ様の両腕が締めつけ、ガッチリと支えられていた。
「……さあ、飛ぶよ!」
大きく息を吸い込み、ハンナ様が叫ぶ。次の瞬間、学園全てを一望できるほどの遥か上空まで飛び上がっていた。
あまりにも一瞬の出来事に、私は目をギュッと閉じたまま固まっていた。ハンナ様に「目を開けても大丈夫だよ」と言われるまで、宙に浮いているとは気づかなかった。
夜空を煌めく星々が澄んで見える。あまりの輝きに目を奪われてしまった。
十数秒後、私とハンナ様の身体がゆっくりと下りていく。風魔法でハンナ様が制御しているのだろう、その表情はどこか誇らしげだった。
静かな降下は、星々に見惚れた私へのサービスだったのかもしれない。
満足感に浸りながらハンナ様にお礼を言うと、降下速度が速くなっていった。丘の遥か上空から風に流されて学園へと進んでいく。目的地は『協力者』のもとに違いない。
基礎学部の敷地を超え、高等学部の敷地へと入る。研究活動で残っている学生がまだいるのか、高等学部の建物からは光が漏れていた。
「やっぱり、まだ残っているのね」
嬉しそうにハンナ様をつぶやく。視線を追うと、何度もハンナ様たちに会いに行った研究棟が見えた。
「舌を噛むといけないから、口をしっかり閉じてね」
顔を向けるとハンナ様は悪戯っぽく微笑んでいた。私は言われるままに口を閉じる。すると、急に身体が地上へと引き込まれていった。
数十メートル上空から一気に降下していく。
着地の瞬間にふわりと風で浮かんだから衝撃はない。それでも、突然の降下で気分は悪くなっていた。ハンナ様の腕の中から下ろされた私はペタンと座り込み、口を両手で押さえてしまう。必死で吐き気を堪えていた。
そこは研究棟の一角、どこかの部屋に続くバルコニーだった。
カーテンの隙間から部屋の明かりが漏れている。ハンナ様の『協力者』は高等学部の学生なのだろうか。
小走りでハンナ様は窓に近づき、コンコンと軽くノックをする。その後も繰り返してノックをしているが、リズムもノックの強さも同じではなかった。
ハンナ様は何をしているのだろう? 考えてみるがわからない。頭の中でいくつもの疑問符が踊っていた。
数秒後、カーテンが勢いよく開かれる。現れたのは、両手に描いていた魔法陣を霧散させるアラン殿下だった。




