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034 穏やかな夜、慌ただしい朝

 「エリーゼ、私の許可なしで力を使ったらダメだからね!」

 「……もう、何度も約束したよ?」


 ハンナ様の忠告を聞くのは、いったい何度目だろうか。そのたびに私は約束を重ねていた。すっかりと日は沈み、空には薄闇が広がっている。ポツポツと星が瞬き始めていた。


 私の人形状態からハンナ様が脱したのは三十分前のことだ。だから、ハンナ様が意識を手放した時間は、推測だが五時間を超すのではないだろうか。

 予想通り私の精霊憑きとしての力は、クラウディア様に使われている精神魔法の上位互換らしい。私に支配されていた間の記憶は、ハンナ様の中に残ってはいなかった。


 『私はエリーゼを信じているから、別に話さなくてもいいよ』


 そう言って微笑むハンナ様に、私は真実を告げることができなかった。

 秘密を暴いた罪悪感で胸がチクチクと痛いが、破滅の未来を知った衝撃の方が大きい。いつもと変わらないハンナ様との会話で多少は気が紛れるが、重苦しい気分は晴れやしなかった。


 結局、私がハンナ様から聞き出したのは五年後に迎える私自身の死だけだった。未来を知ることが怖かったのだ。自分が破滅する話を誰が進んで聞きたがるだろうか。……私には聞けなかった。

 殺されることもそうだが、お父様やお母様に捨てられるなんて考えたくもなかった。


 ハンナ様が語った未来と同じ道を進んでいないことは理解している。それでも、少しでも起こるかもしれない未来だと考えてしまうと不安になってしまう。妄想話だと笑って捨て置くほど豪胆にはなれなかった。


 「エリーゼ、聞いてるの? ……大丈夫?」


 いつの間に自分の世界へ入っていたのか、心配顔のハンナ様が下から私を覗き込んでいた。


 「ごめんなさい、聞いてなかった」

 「……そっか」


 隣り合って座るハンナ様はふわりと優しく笑う。軽く私の頭を撫でた後、立ち上がって焚き火のもとに向かった。

 そこでは、魔法で尖らせた枝で貫かれた二羽の野ウサギが焼かれている。

 私が命じてハンナ様に捕まえさせた、今日の晩御飯だ。それは、人形化したハンナ様を利用した事実を示す、私の罪の証でもあった。


 実際、私一人では野ウサギを一羽すら捕まえられなかった。

 きっとハンナ様も野ウサギを捕まえたのが、私ではないことに気がついている。それでも、何も言わないのは……『未来』の私と親交があったからだろうか。

 ハンナ様が何を想っているのかを知ることが怖くて、私に向ける感情を覗くこともできなかった。


 ただ、野ウサギ以外にも収穫はあった。

 どうやら私の力は万能ではないらしく、対象は一つに限定されているようだ。ハンナ様に続き、野ウサギにも試してみたが何の影響も受けてはいなかった。

 この事実はハンナ様も未来で知っていたのか、それとなく忠告されていた。だから、推測は確信に変わっていた。


 もしかしたら、未来の私は複数に使用して失敗したのかもしれない。そう疑いたくなるほどに、ハンナ様の念押しは執拗だった。


 「ほら、焼けてるよ。とりあえずさ、食べて元気出しなよ」


 そう言ってハンナ様は笑みを浮かべた。香ばしい匂いを放つ肉にパクリと噛みつき、私の分を差し出してくる。

 私は小さく息を吹きかけた後、ハンナ様を真似て串に齧りついていた。




 夜空を彩る星々に見守られながら、私は恐るおそるに右足を伸ばす。足先を沈めた瞬間、心地よい温かさが広がっていく。すぐに肩まで身体を沈めていた。

 目を閉じてボンヤリと身体を温める。二人用に作られた天然の浴槽の中で、力なく手足を投げ出してしまう。たっぷりと三分間は脱力感を楽しんでいた。


 「……そろそろ、振り向いてもいいよね? もう十分でしょう?」


 湯が波打つと同時に、ハンナ様の不満げな声が聞こえてくる。

 女性同士だからと裸になることを恥ずかしがらない方がおかしいのだ。一緒に湯へつかること自体、私には抵抗がある。

 堂々と立ち上がり、腕を組んで見下ろすハンナ様の心境を理解できるとは想えなかった。


 「……ハンナ様、静かにしようよ」


 私は小さくつぶやき、身体を反転させてうつ伏せになる。そして、組んだ両腕を土の壁の縁に置き、枕にして頭を休ませる。

 ハンナ様が土、風、火の魔法を使って築いた露天風呂を堪能していた。

 一辺が二メートルほどの正方形だろうか。私とハンナ様が使うには十分すぎる大きさだった。一日の疲れが漏れ出しているのか、全身から力が抜けきっていた。


 「このころから、お風呂好きだったのね……」


 ため息まじりのハンナ様のつぶやきが聞こえる。

 昨日までの私だったら、何を言っているのかと疑問を抱いたに違いないが……どうやら『未来』の私もお風呂好きだったようだ。


 ハンナ様は私の横に座り、土の壁に背中を預ける。チラリと横目で見ると、夜空を仰ぎ見ていた。

 それから数分間、私もハンナ様も話はしなかった。ただ隣り合って寛いでいるだけだった。私は数十分前のハンナ様が言った言葉を想い出していた。


 『明日、学園に帰るから、エリーゼもそのつもりでいて』


 もう学園に戻るだけの魔力は回復したと判断したのだろう。想わず顔を強張らせた私に向かって、ハンナ様はキッパリと宣言した。

 瞬間、脳裏に浮かんだのは黒衣の男だった。下卑た笑い声が頭の中で木霊する。私は一度殺されかけているのだ。学園に戻った後、何事も起こらずに平穏な日々が送れるとは、どうしても想えなかった。


 それに、ハンナ様だって裏切り者として粛清されるのではないか――。


 『協力者のもとへ身を寄せるから……だから、講義には参加させてあげられないの。……ごめんね、エリーゼ』


 私の不安とは別な心配をしてハンナ様は頭を下げた。

 正直、私自身の命と比べれば講義への出席はどうでも良かった。むしろ、ハンナ様の言う協力者の方が気になる。しかし、話をはぐらかすばかりで、誰が協力者であるかはわからずじまいだった。


 その一方で、再三にわたって精霊憑きの力を不用意に使わないことを約束させられた。心配されることは嬉しいが、少しだけ面倒に感じてしまう。

 ハンナ様と約束したことは、たったの二つだ。

 一つ目は、ハンナ様の許可なく力を使わないこと。

 二つ目は、力のことは誰にも話さないこと。

 心を支配する力を、私は怖いと想った。だから、ハンナ様と誓約を交わすことに異論はない。ハンナ様に言われなくとも、本当に危険が迫ったとき以外は使うつもりはなかった。


 「エリーゼ、何を考えてるの?」


 不意にハンナ様から声をかけられ、私はゆっくりと顔を上げる。軽く手をパタパタと扇ぎながらハンナ様が蕩けるように微笑んでいた。

 私は湯船の中で身体を回転させ、背中を土の壁に当てる。ハンナ様と隣り合って座り直した。


 「ハンナ様との約束について……守らないとダメだなって」

 「わかっているならいいんだよ」


 満足そうに言った後、ハンナ様は私の頭を撫で始める。なんとなく気恥ずかしくて、肩口から首元の位置まで私は身体をお湯に沈めていた。




 「恥ずかしがらないで、もっとこっちに寄りなよ」


 何の気なしに言うハンナ様を少しだけ恨めしく想う。

 土魔法で地ならしされた柔土の上に、寝そべってハンナ様が待っている。洞窟内で風は遮られるとは言え、やはり夜は冷える。だから、抱き合って一緒に眠ることに否やとは言わない。

 それ自体が間違っているとは、私は想わないけれど……。


 躊躇いがちにジリジリと寝たまま近づいていると、急に私の手が引っ張られる。気づけばハンナ様の腕の中に納まっていた。

 してやったりと悪戯っぽく微笑むハンナ様。恥ずかしがっている私がバカみたいに想えた。


 ここには布団も枕もない。快適な睡眠は望めないだろう。でも、ハンナ様の腕の中はとても温かかった。

 これ見よがしに置かれたハンナ様の腕を枕とし、私はそっと頭を乗せる。そして、私は身体を小さく丸めて目を閉じた。ポンポンと優しくハンナ様に背中を触られるのが気持ち良かった。




 私が目を覚ましたとき、隣にハンナ様はいなかった。ガバリ、と身体を起こし、慌てて視線を巡らせる。小さな洞窟の中に、ハンナ様の姿は見当たらなかった。

 急いで洞窟から外に飛び出す。まだ朝日は昇っていなかった。薄明るい空のキャンパスに、夜を名残惜しんだ星がかすかに輝いている。


 ハンナ様の行き先なんて、私にわかるわけがない。深い森の中、下手に探せば迷子になるのは私の方だ。

 だから、自然と足が向いたのは、昨日ハンナ様と一緒に過ごした沢だった。歩いて十分、走れば五分でたどり着く。その間もキョロキョロとハンナ様の姿を探して頭は揺れ動いていた。


 結局、ハンナ様は沢にはいなかった。代わりにいたのは――。


 「――どうして?」


 悲鳴染みた声が漏れる。しかし、走り出した足は急には止まらない。急ブレーキをかけて一歩、二歩と私はつんのめって倒れてしまう。


 勢いよく倒れ伏した今、もう身を隠すには遅すぎた。

 発見された、その事実を示すように威嚇にも似た遠吠えが響く。その瞬間、鋭い牙と爪が脳裏を掠める。私に向かって駆け出すダイアウルフの姿を見た刹那、背筋は凍てついた。


 十メートルほどの距離が一瞬で詰まる。

 手前に一匹、奥に二匹。威嚇の声が重なり、私を穿つ。腰が抜けてしまったのか、ペタンと座り込んでしまい立ち上がることができなかった。

 

 私は急いで右手で魔法陣を描き出すが……間に合わない!

 咄嗟に、頭を慌てて抱えて上半身を前に倒してしまう。すんでのところで、ダイアウルフが頭上を飛び越えていった。死神に握しめられたように心臓がギュッと縮こまる。


 次の瞬間、私は吹き飛ばされて地面に叩きつけられていた。生存を確かめるように、顔を後ろに向けた私は愚か者だったのだ。

 ダイアウルフは先行した一匹だけではない。後続のダイアウルフに轢き殺さんばかりに体当たりされていた。


 空中で一回転して背中から地面に落ちた。口から漏れるうめき声に被せ、ダイアウルフたちが威嚇の声を上げている。


 痛みで濡れた瞳は、私を取り囲む三匹の姿を捉えていた。咳き込みながら、私は身体を小さくしてしまう。

 このままだと……殺される! 考えるよりも先に、身体が生存に向けて最善手を打つ。瞳にありったけの魔力を注ぎ込んでいた。


 そして、獲物を嬲るように牙を剥き出しにしたダイアウルフへ向かい、私は力一杯に叫んだ。


 「私に、従いなさい!」


 私とダイアウルフの視線が交わったのは一瞬。でも、私の力には十分すぎる時間だった。命令を待つようにダイアウルフは動きを止めたのだ。


 「倒して!」


 短い命令に反応し、私に従うダイアウルフが他の二匹へと飛び掛かった。

 一対二の戦闘を横目に、恐怖で震える両脚に力を入れ、私は立ち上がる。右手と左手、それぞれの指先で魔法陣を描いていた。

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