031 拝啓、愚かでバカな私へ
目を開けた先には、ゴツゴツとした岩天井が広がっていた。何の気なしに顔を左右に動かすと、どちらも岩壁がそびえ立っている。
私は夢でも見ているのだろうか? 確か、ダイアウルフに噛みつかれて……殺されて……。
ボンヤリとした頭を働かせ、少しずつ直前の出来事を想い出していく。額を軽く押さえて身体を起こした瞬間、私は想わず固まってしまう。
正気に戻るまで数秒間が必要だった。
身体を守るように私自身を抱きしめながら、慌てて岩壁に背中を押しつけて座り込む。羞恥で顔を赤らめながらキョロキョロと周囲を見渡していた。
――私が身につけているのは、下着だけだった。
誰に服を脱がされたのだろうか。そこに考えが至った瞬間、羞恥が絶望に塗り替えられる。寝ぼけた頭が一気に覚醒していく。私は森の中にいたはずだ。洞窟の中にいること事態がおかしい。
そこで、はたと気がついた。私は恐るおそる首元に触れる……触れる……?
何度もダイアウルフに噛まれた場所に触るが傷痕がない。今度は顔を左に向けて肩を見る。そこにも、噛まれた後が残っていなかった。
どうして傷痕が残っていないの?
私はその場で立ち上がって身体を調べていく。露わにされた素肌のどこにも傷痕は残っていなかった。
「エリーゼ、起きたんだ。良かった」
身体を捩って背中を向け、慌ててしゃがみ込む。顔を向けるとハンナ様が笑顔で歩いていた。……ハンナ様も下着姿だった。
堂々と歩く姿に私は顔をしかめる。そんな私を見て、ハンナ様は不思議そうに首をかしげていた。そして、納得顔を浮かべた後、ニヤニヤと揶揄うような顔へと変わっていった。
ハンナ様は隣にしゃがみ込み、ポンポンと私の頭を軽く叩いた。
「心配しなくても、五年後のエリーゼの胸は大きくなっているよ」
瞬間、カッと苛立ちが込み上げる。私は力一杯に睨みつけるが、ハンナ様は愉しげに笑うばかりだった。
どうやら私はダイアウルフの下敷きになって気絶していたらしい。
目を覚ましたハンナ様が急いで私を救い出したが、赤と青の血で汚れた姿は凄惨で、死んだと錯覚するほどだったようだ。
夜明け前に目覚めたとすると、だいたい一時間から二時間くらいは下敷きになっていたことになる。その間、他の魔物に襲われなかったことは幸運だったとしか想えなかった。
再び私を横抱きにして、ハンナ様が安全な場所を探しまわり、この洞窟にたどり着いて今に至る。
衣服はハンナ様が脱がして、近くの川で洗ってくれていた。恥ずかしいけれども、衣服が乾くまでは下着姿で我慢するしかないのだろう。
それで、ダイアウルフに傷つけられた身体は――。
「私に光魔法が使えることは、秘密にしておいてね」
悪戯っぽく微笑むハンナ様が、冗談めかして立てた人差し指を口に添える。どうやら二人だけの秘密らしい。ぷらぷらと力なく揺れていたハンナ様の左手も、今や綺麗に治っていた。
火、土、風に加えて珍しい光を含めた四属性。もし公表すれば、ハンナ様の価値はどれだけ高まるのだろうか? 四属性持ちは王国の歴史でも二人しかいない。ハンナ様を取り込みたいと考えてもおかしくはないだろう。……それは、きっと王家も同じに違いない。
今の悪評塗れのクラウディア様ならば、ハンナ様との交代を望む声が出てきても不思議ではなかった。だから、私はこの秘密を口にはしたりはしない。クラウディア様はアラン殿下の隣にいるのが自然だと想うから。
「エリーゼなら理解してくれると想ったよ」
ハンナ様は満足そうに笑う。その笑顔に嘘はないように見えた。
クラウディア様を押し退ける力があるのに、何もしないことが不思議で仕方がない。王太子妃に、ゆくゆくは王妃に成りたくはないのだろうか。
王妃に成ることが幸せだとは想わないけれど、それを望む女性が多いのも事実だ。王国内の女性で一番高い地位につく、大きな責任を負うがとても名誉なことだと想う。ハンナ様みたいに能力があるならば、国を動かす王妃の地位は魅力的に映るはずだ。
本当にハンナ様は興味がないのだろうか?
私は口から飛び出しかけた質問を飲み込む。そして、両膝を強く抱きしめてコツンと額を当てる。下着姿を隠すように身体を小さくして座り込んでいた。
クスクス、ハンナ様の笑い声が聞こえていた。隣り合って座るハンナ様が私の肩を抱いてくる。抱き寄せられて私とハンナ様の身体はピタリとくっついていた。
どうしてかハンナ様の腕の中はあたたかくて心地よい。私はゆっくりと目を閉じていた。
薄っすらと血の跡が残る制服に袖を通す。ダイアウルフに裂かれ、所々に素肌が覗いている。それでも、下着姿よりは何倍も良かった。
「学園に戻ったらお泊り会でもしよっか?」
私の髪を指で梳きながらハンナ様が声をかける。上から下へ優しく触れられて気持ちがいい。何度も何度も繰り返されていた。
コクン、私がうなずくと後ろから軽く抱きしめられる。そして、飛び跳ねるように前へ出たハンナ様が私と手を繋いで歩き始める。顔だけ振り返ったハンナ様は満面の笑顔を浮かべていた。
洞窟を出てみれば、眩いばかりの日差しが出迎える。涼やかな風が青々とした木々を揺らしていた。
私とハンナ様は依然として森の中――学園裏に広がる森の奥深くにいた。
ディルクと遭遇した崖よりもさらに奥まった場所にある洋館で私は監禁されていたらしい。ハンナ様は学園から遠ざかるように逃げたため、どれだけ深い場所にいるかはわからない。
私が闘ったダイアウルフは群れから逸れていたのだろうか。ディルクが五十匹を超すダイアウルフを従えていたことを想えば可能性は十分にある。
アラン殿下たちの証言もあり、近く森の中で魔物狩りが行われる予定らしく、それまでは森への立ち入りは制限されているそうだ。それは、私が入院している間に決まっていたことだ。
運が良ければ、魔物狩りの際に私とハンナ様を見つけてくれるかもしれない。しかし、救出をずっと待ってはいられない。
ハンナ様に手を引かれて私は歩く。目的は食料の確保だった。
木の実を採り、魚を掴まえ、花の蜜を探す。ハンナ様の魔力が完全に回復するまでは、洞窟を拠点に野宿をする方針だった。
体力と魔力、それに気力を充実させてから森を大回りして学園に戻る。ハンナ様が堂々と宣言したのだった。
魔物も怖いが、黒衣の味方との遭遇が何よりも怖い。
私を守りながら勝てる相手ではない、そうハンナ様に言われてしまえば、早く帰りたいと願う気持ちを抑えるしかない。
弱い心を隠して私はコクンとうなずいていた。今、私の命を握っているのはハンナ様だった。
洞窟から歩いて十分は経過しただろうか。水の流れる音が聞こえてくる。
小走りになったハンナ様を追いかけるように私も走る。そして、想わず景色に見惚れてしまっていた。言葉は何も出てこなかった。
左右の至るところから湧水が流れ落ち、いくつもの沢が造られている。岩造りの天然の階段を水が下り、祝福するように青々とした草木が覆い被さっていた。
涼やかな水の音に、優しげな葉擦れの音。一歩を踏み出すたびに、身体全体に染みわたるようだった。
「泳いでみる?」
「……泳ぎません」
愉しげなハンナ様の顔を見ていられなくて、私はそっぽを向く。小さな笑い声が聞こえてきた。
「別に我慢しなくてもいいのに。食べ物なら私が探すから、エリーゼは遊んでてもいいんだよ」
その言葉を聞いた瞬間、私は不満たっぷりにハンナ様を睨みつけていた。
森の中に二人きり。この状態でハンナ様に仕事を任せて、私一人だけが遊ぶなんて考えられない。それは、役立たずもいいところだ。
ハンナ様は表情を綻ばせ、私の頭を可笑しそうに撫でまわす。
自然と私は唇を尖らせてしまう。ハンナ様は完全に私を子供扱いしていた。遭難状態の中、対等なパートナーとは想ってくれていない。一人で全ての仕事をこなすつもりだった。
「私は木の実を探します。ハンナ様は魚を掴まえてください」
「……撥ね退けなくてもいいのに。本当に遊んでいてもいいんだよ?」
痛くもないくせいに、手をぷらぷらと揺らしながらハンナ様が訊ねてくる。私は踵を返して歩き出していた。
「遠くに行ったらダメだからね! 何かあったら大きな声で呼ぶんだよ!」
声を張りあげるハンナ様、その声に答える気にはならなかった。私は足早に沢を後にしていた。
森の中をゆっくりと進んでいた。注意深く視線を巡らせて探せば、食べられそうな木の実や果実をいくつも見つけられる。気づけば、両腕で抱きかかえるほどの量になっていた。
赤色、青色、黄色……私の腕の中は色彩豊かだ。ただ、本当に食べられるものかどうかはわからない。結局、ハンナ様の判断に頼らなければならないのが情けなかった。
それに、少しだけ後ろめたさもある。
遊んだりしない、私は仕事をするんだ。そう意気込んでハンナ様から離れたのに、私は採集にのめり込んでいた。
仕事であることを、すっかり忘れてしまっていた。
不思議な形の木の実を見つければ枝でつつき、綺麗な花を見つければ香りを楽しみ、風や鳥の声に耳を傾ける。まるで幼いころに戻ったように、好奇心を爆発させていた。
「……私、やっぱり子供なのかな?」
大きな石に腰掛けたまま、私はため息まじりにつぶやく。
ハンナ様と別れてから一時間は経過しただろうか。沢へ戻る前に小休止を取っていた。
同年代の中でも身体は小さく、知識は平均並みでしかない。精霊憑きと言っても、セレナのような突出した存在ではない。
もし、私ではなくセレナがこの場にいたら、ハンナ様は遊んでてもいいなんて言っただろうか?
「……私だから、きっと言ったんだよね」
自嘲的な笑みがこぼれる。両腕の中にある頑張りの成果をギュッと抱きしめた。
これだけ集めてくれば、少しは役に立てるだろうか? ……ハンナ様は、誉めてくれるだろうか?
私はそっとまぶたを下ろす。すると、退屈そうな顔をした私自身の姿が浮かび上がってきた。冷めた眼差しにどこか懐かしさを覚えてしまう。
昔の私自身と比べてみると、今の私は大きく変わっていた。
そうだ、以前の私だったら、誰かに何かをしようとは想わなかったはずだ。
誰かが私を見てくれることを、私を愛してくれることを望んでいた。望んでいたくせに、誰も私を見てくれないと諦めていた。
――私はエリーゼ・スティアート、前世の■■■■■ではない。
困ったときに口ずさむ、私だけの魔法の言葉。もう前世のことなんて、全く想い出せない。想い出そうともしないからか、突発的に走っていた頭痛も久しく起こってはいなかった。
前世の私自身を、嫌って、嫌って、嫌い抜いた。
今更、前世の記憶なんてどうでもいい。■■■■■のことなんて知りたいとも想わない。それなのに、いつまで私は前世を引き摺っているのだろう。
私に劣等感を植えつけた■■■■■の知識の中にある成功者たち。前世の記憶を活用して成功した彼らと比較して、勝手に私は卑屈になって、『本物のエリーゼ・スティアートならば成功するはず』と妄信していた。
だから、夢見た姿と違う私自身が、『エリーゼ・スティアート』なのか『■■■■■』なのかがわからなくなった。不安で仕方がなくて、いつの間にか私は自分を見失っていた。
でも、考え直して見れば、答えは一つしかない。とても当たり前のことだった。
「初めから、私は『エリーゼ・スティアート』だった」
口にしてみればストンと胸に落ちてくる。わざわざ嫌われるようなことをして、確かめる必要もない。結局、私は私なんだ――。
「……やっぱりバカなのかな、私」
呆れた笑いが漏れる。当たり前のことに気づくまで十二年間もかかった。
別に二重人格でもあるまいし、不確かな『■■■■■』の存在を尊重する必要もない。なんであんなに執着してしまったのかも、今はもうわからなかった。
捨てると決めても心に波風ひとつ立たない。
大切な想い出を失うと心にポッカリ穴が空いたような気持ちになると言うが……どうやら大切でもないらしい。心は少しも痛まなかった。
私が『エリーゼ・スティアート』を演じていたのではなかった。
私に『■■■■■』が入り込んでいた。
その事実を認識した瞬間、瞳から涙が零れ落ちていく。嬉しいのか悲しいのか、ひとりでに流れ落ちていた。




