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030 弱者の挑戦

 「――エリーゼ!」


 唐突にドアが開かれ、私の名前が呼ばれる。私が待っていた人の声だった。しかし、顔を上げた瞬間、私の表情は強張っていく。

 血で汚れたハンナ様、その左手はぶらぶらと力なく揺れていた。

 左手が痛むのか、私に駆け寄るハンナ様の顔は険しい。呆然とベッドに座ったままの私の手を掴み、荒々しく横抱きにされる。ハンナ様は痛みを堪えるように、歯を強く食いしばっていた。


 これは、どういうことなの? 状況の変化についていけず、頭がチカチカする。

 ハンナ様は何も話してくれない。ただ、私を抱えて走り続けていた。

 部屋を飛び出し、廊下を進む。窓から覗いた先は光の見えない薄闇だった。私が捕まってから、どうやら半日は経っているらしい。昼から夜へと様相を変えていた。


 「――あそこだ、捕まえろ!」


 聞こえた瞬間、私は身体を震わせる。飛び交う怒号が何度目かはわからない。手枷を嵌められた不自由な両手でハンナ様に縋りついていた。

 応えるようにハンナ様が両腕に力を込める。ハンナ様にぴたりと私の身体は寄せられていた。




 荒々しく短い呼吸を繰り返すハンナ様、もう限界は超えているのだろう。追手と戦闘を繰り返して、私を横抱きにしたまま走り続けていた。その顔色は青を通り越して、もう真っ白になっている。

 ハンナ様の両腕から私は何度もずり落ちそうになっていた。走る足もどこか頼りない。木の根に引っ掛かり転びそうになったのも一度や二度ではなかった。


 今、私とハンナ様がどこにいるのかはわからない。

 見知らぬ洋館から抜け出した先には、月明りを遮るほどに長大な木々が生い茂っていた。深い森の中に閉じ込められていたみたいだ。


 私の監禁場所は地下室ではなく洋館の三階だった。ハンナ様が階段を駆け下りていたので、それは間違いないはずだ。

 追手の人数は十数人だと……想いたい。足手まといの私を抱えながら、ハンナ様が打ち倒してた人数がそれくらいだったのだ。黒衣の姿を見なかったことが気掛かりだが、洋館の二階の窓から飛び降りた私たちを、誰かが追いかけてくる気配はなかった。


 少しでも距離を稼ぐつもりなのか、ハンナ様は風を身に纏っている。

 洋館を飛び出してから、ゆうに数十分は経っているのだろう。もう洋館を見つけることは叶わない。森の中を一目散に駆け抜けていた。


 「――っ」


 小さな悲鳴、それと同時に身体が前へと倒れていく。

 ハンナ様が足を躓かせた、その事実に気づいたのは衝撃の後だった。身体を捻って位置を入れ替えたハンナ様が私を庇って下敷きになっていた。


 「――ハンナ様!」


 慌てて身体を起こし、私はハンナ様の上から退く。ぐったりとしたハンナ様が弱々しく微笑んでいた。


 「……大、丈夫?」


 辛うじて聞こえるハンナ様の小さな声。

 勝手に涙があふれて、私の瞳から零れていった。ハンナ様の右手が優しく拭ってくれるが止まってはくれない。声だけは漏らすまいと下唇を強く噛んでいた。


 ハンナ様の右手が私の頬に触れる。次に、私に嵌められたままの手枷にそっと触れていく。触りやすいように私が軽く両手を持ち上げると、ハンナ様の目がスッと細くなる。そして、右手で魔法陣を描き始めた。


 パキン、唐突な音と供に手枷が二つにわかれて落ちていく。急に私の両手は自由になっていた。

 驚いて目を見開く私に向かってハンナ様が唇を動かす。声は聞こえなかったが、何をして欲しいかは簡単に予想がついていた。


 私は重ねて横座りしていた両脚をハンナ様に向かって伸ばす。すると、足枷の鎖を挟み込むようにハンナ様は指を開いて閉じる。その瞬間、足枷を繋いでいた鎖が断ち切られてポトリと垂れてしまう。


 ハンナ様が優しく笑い、のろのろと右手を私に向かって伸ばす。ペタンと座り直し、私は両手で包み込むようにハンナ様の手を掴んでいた。


 「……ごめん、ね……逃げて……エリーゼ」


 私は大きく首を左右に振る。両手にも力が入っていた。


 「変わらない、ね……エリーゼは……私の、大切な……」


 するりと抜け落ちそうになったハンナ様の右手を慌てて握りしめる。糸の切れた人形のように、いきなりハンナ様は動かなくなった。


 必死にハンナ様の身体を揺り動かすが、閉じたまぶたは開こうとしない。手も握り返してはくれなかった。

 泣いても何も解決しない。それはわかってるのに、零れる涙は止まらない。ハンナ様の身体に縋りつくように泣きついていた。




 鼻をクスンクスンとならし、涙で濡れた目元を強く擦る。そして、両手でパンパンと頬を叩き、真正面を睨みつける。


 ――今度は私がハンナ様を助ける番だ。


 たっぷりと一分間は泣いた。もう泣くのは十分だろう、そう弱い私の心に向かってつぶやく。

 弱い■■■■■とは違う。私は、エリーゼ・スティアートなんだ。

 もう一度両頬を叩き、私は立ち上がる。今、私にできることを頑張るしかない。


 青白い顔のハンナ様は死んだように眠っている。左手の傷は痛ましく、固まった血がべったりと貼りついていた。

 小さく上下するハンナ様の胸は、今にも止まりそうで心もとない。しかし、命までは失わないとわかっている。医学に詳しくない私でも、ハンナ様の状態がどうなのか予想はついていた。


 魔力欠乏状態――脱出のために魔法を限界まで使い切ったから、意識を保つことができなくなったのだろう。怪我の影響もあって余計に体力を消費していたのだから間違いない。魔力は自然と回復していく。ハンナ様も安静にしていれば、いずれは目を覚ますはず。問題は――。


 ワォーン、遠くから威嚇するような遠吠えが聞こえる。その瞬間、私は歯をカチカチと鳴らしていた。

 聞き覚えのある嫌な鳴き声。血で濡れた鋭い爪と牙が脳裏をチラつく。忘れたくとも忘れられない、声の主はダイアウルフに違いない。


 嫌な予感はよく当たる。魔物に見つからなければいい、そう願っていたが叶わないらしい。ハンナ様から漂う血の匂いを嗅ぎつけたのだろうか。

 私ではダイアウルフの群れに勝てないことは知っている。仮に一匹だったとしても倒せない可能性の方が高い。でも、私が逃げたらハンナ様が殺されてしまう。いや、私が走っても逃げられるとは想えない。闘って勝てなければ、私もハンナ様も……ここで食い殺される。


 怖くて怖くて仕方がない。心臓が痛いぐらいにバクバクと鼓動していた。

 それでも、頑張るしかない。気合を入れるように両頬を叩いた。


 倒れたままのハンナ様の腰に手を掛け、近くの木に寄りかからせる。そして、ハンナ様の前に立ち、瞳に魔力を集中させていく。

 草木が生い茂る森の中、ダイアウルフが身を隠す場所はどこにでもある。出現先を予想することは不可能に近いだろう。この瞳で私への敵意をいち早く察知する、それしか私に手はなかった。


 私は指先で魔法陣を描く。使うのは風魔法、それも初級の風刃だ。命中精度も悪く、同時に展開できるのも四つだけ。

 ダイアウルフを一匹倒せるかどうかだ。二匹以上ならば最悪の展開を覚悟しなくてはならない。


 「私は強い。強いから……負けないんだ、負けない」


 お願いだから一匹だけにして。そう願いながら言葉を口にする。遠吠えが聞こえてから、もう数分は経っているだろうか。

 そろそろ仕掛けて来てもおかしくはなかった。傷を負った獲物をみすみす見逃す、そんな選択をダイアウルフがするとは信じられない。必ず襲いかかってくるはずだ。


 私はキョロキョロと視線をさまよわせる。そして、私とハンナ様へ向かう強い感情を視つける。それは、ご馳走を前に興奮するような高揚感だった。

 ダイアウルフの鋭利な牙を想い出して気分は重くなっていく。ただ、視つけたのは一本だけ、敵は一匹だけだった。


 距離は三十メートルくらいだろうか。まばたきをする間に、私との距離はぐんぐん縮まっていた。

 二十メートル……十メートル――。

 射程距離に入った瞬間、私は風の刃を放つ。ダイアウルフの退路を塞ぐように四つの刃を並べる。一つでも当たればいい、その願いは叶わなかった。


 本能的に斬られることを嫌ったのか、ダイアウルフは急に進路を変える。しかし、勢いを殺し切れずに大木に向かって体当たりしていた。衝撃で木が大きく揺れている。


 私は慌てて第二陣を用意し、ダイアウルフが隠れる大木を睨みつける。怒りに満ちた声が聞こえてきた。

 右から出てくるか。それとも、左から出てくるか。

 迷いながらも私は魔法陣を描き切る。とりあえず、視線を左右に動かしながら、ダイアウルフの出方を窺っていた。


 重苦しい緊張感は十秒ほど続いただろうか。唐突に、ダイアウルフが右から顔を出す。風の刃を即座に放ち……全てが空を切った。

 左へ身体の向きを転換し、ダイアウルフが飛び出してくる。私は無防備だった。


 「――」


 身体に襲い来る衝撃。左脇腹に激痛が走る。視界がぐにゃぐにゃと歪み、気づけば地面に横倒しにされていた。口から飛び出すように何度も咳き込む。そんな私の左肩にダイアウルフの爪が食い込んだ。


 「~~!」


 ダイアウルフが私の上にのしかかり、爪が深く深く突き刺さっていく。燃えるように左肩が熱い。仰向けに倒された私の顔に、ダイアウルフの唾液が降り注いでいた。牙、牙、牙。鋭い牙に目が不安定に踊り始める。


 狩るものと狩られるもの。身体の位置がお互いの役割を示すようで納得がいかない――死にたくない!

 私は倒れた拍子に拾った石でダイアウルフの横顔を殴りつける。追撃に風の刃を放つと、ダイアウルフが慌てて飛び退く。私は急いで起き上がった。


 抉られた左肩から血が伝う。指先で描いた魔法陣に血が混じって赤く染まっていた。残りの風の刃は二本だけだった。

 私とダイアウルフの距離は三メートル、その距離を保って睨み合う。


 先に動いたのは――私だった。握ったままの石をダイアウルフ目掛けて投げつける。すると、ダイアウルフは回避することなく飛び掛かってきた。振りかぶられるダイアウルフの腕、その先で血塗れの爪が鈍く輝く。

 しかし、迎撃の準備はできていた。私は風の刃を放った後、想い切って横跳びして地面を転がる。


 ダイアウルフの悲鳴に安堵しつつ、私は身体を起こして立ち上がった。

 空いた右手で魔法陣を描きながら、三本足で立つダイアウルフを観察する。やはり威力が足りないのか、切り落とすまでには至らなかった。


 でも、闘えている。一対一ならば、私にも勝機がある。

 ダイアウルフの感情にも恐怖が滲みだしていた。舌なめずりする余裕もないのか、吠えて威嚇している。


 私自身の血で汚れた姿を見ると、どうしても怖いと想ってしまう。しかし、三十匹に及ぶダイアウルフの群れに弄ばれた絶望と比べれば、一匹の恐怖は堪えられる。あの時の絶望を想えば、手負いのダイアウルフ一匹なんて怖くない。


 私は勇気を奮い出し、じりじりと距離を縮めていく。呼応するようにダイアウルフも近づき出した。

 先に攻撃を仕掛けた方が敗ける――不思議とそんな予感がした。

 一秒……二秒……三秒……。時間とともに距離が近づいてくる。心臓の鼓動も大きく強くなっていた。


 「――!」


 剥き出しの牙、噛み砕かんと開かれた口腔が晒される。その瞬間、魔法陣へありったけの魔力を流し込む。同時に四つの風の刃が放たれ、ダイアウルフの身体から血が噴き出していく。

 身体に深い傷を負ったダイアウルフが地面に沈んでいた。


 「……私の、勝ち。……勝ったんだ!」


 私は心の底から安堵する。前回の雪辱を果たし、ハンナ様を守ることもできた。

 これが、私の初勝利だった――。


 唐突な痛みに思考が途切れる。張り裂けんばかりに喉から声が漏れ出した。目を大きく開いた先に広がるのは、ダイアウルフの口腔だった。

 ――噛み殺される!

 恐怖が込み上げた瞬間、首元に激痛が走る。視界は真っ黒に染め上げられ、プツリと音を立てて消え去っていった。

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