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029 弱った心は、素直な心

 窓ひとつない部屋の中、私はボンヤリと椅子に座っていた。両手に嵌められた手枷は重く、両脚にも短い鎖で繋がった足枷が嵌められている。

 部屋のドアには鍵が掛けられ、室内には薄汚れたベッドと小さな丸椅子があるだけだった。


 目が覚めてから、どれだけの時間が経ったのだろうか。

 どうにか脱出できないかと、部屋中を探しまわったが何もなかった。風魔法で拘束を外そうともしたが、私程度の魔法では傷もつけられない。ドアを破ることも叶わなかった。

 悔しいことだが、私には脱出する術が何もなかった。ただ、誰かが助けてくれるのを待つことしかできない。


 セレナは無事に逃げ出せたのだろうか。

 意識を失う直前まで黒衣は近くにいた。だから、セレナの後を追ったりはしていないと想うけれど……。

 嫌な想像を振り払うように私は大きく首を振る。

 不安がっても仕方がない。もうセレナが逃げ切ったと信じることしか、私にはできないのだから。


 気持ちを落ち着けるように大きく息を吐き出す。そして、胸元にそっと両手を押し当てる。

 トクントクン、私の心臓はまだ規則正しく動いていた。

 無理やり飲まされた毒物にどんな効果があるかはわからない。しかし、その効果は即効性ではないらしい。脱出路を探すのに合わせて身体をいろいろと動かしていたが、不調は特に感じられなかった。それでも、心に巣くった不安は消え去ってはくれない。


 死にたくない、死にたくない、死にたくない――。

 何度も何度もつぶやいたが、心が晴れることはなかった。一時の気休めにもなりはしない。声は少しずつ弱く、間隔も長くなっていた。……考えることに、すっかり疲れてしまっていた。


 助けがいつ来るのかも、毒物の効果がいつ現れるのかも、私が知ったところで何も変わらない。何の役にも立たないのならば、いっそのこと何も知らない方が少しは気分が楽だった。


 だから、思考を手放して私は目を閉じる。

 セレナやクラウディア様、アデリナ様たちとの想い出を脳内で再生していった。もう何度繰り返したかもわからない。逃避するように楽しい想い出を掘り返していた。




 カチャリ、唐突にドアが開いた。


 「……エリーゼ、起きてる?」


 優しい声が聞こえる。好きだった声、でも今は嫌いになった声。

 のろのろと顔を上げれば予想通りの人物がいた。悲しげな顔つきのハンナ様が窺うように見つめていた。


 ――どうして私たちを裏切ったのですか?


 顔を見た瞬間、私の心の中に糾弾の言葉が浮かび上がる。

 聞きたいことはいくつもあった。知りたいと想っていた。でも、知ることが怖かった。ハンナ様の答え一つで、一緒に過ごしてきた時間が嘘で塗りつぶされてしまう。


 始めはクラウディア様のための監視だった。でも、いつの間にか楽しくなっていた。ハンナ様たちと過ごす時間が好きになっていたのだ。それが、嘘だったなんて想いたくはなかった。

 私は顔を俯かせ、固く口を閉ざす。何も話したくはなかった。


 カチャン、ドアの閉まる音が聞こえる。次いで、私に近づく足音が響いた。戸惑うような小さな足音は途絶え、視界にハンナ様の足先が映る。

 足枷を嵌められた私と、自由なハンナ様。立場の違いを見せつけられるようで辛い。私はギュッと目を閉じた。


 「ごめんね、エリーゼ……ごめんね……」


 耳元で聞こえたハンナ様の声は苦しげだった。背中にまわされた手は弱々しく、私が少し抵抗するだけで外れてしまいそうだった。

 恐るおそる私はまぶたを上げる。両膝を床につけたハンナ様に抱きしめられていた。


 何度も何度もハンナ様は謝罪の言葉を繰り返す。次第に、その声は涙声へと変わっていった。

 どうして? どうして、ハンナ様が泣くのですか?

 顔を横に向け、私に縋りつくハンナ様を見つめる。そこにあるのは、寄る辺を失った迷子のような頼りない表情だった。


 こんなハンナ様を私は知らなかった。だから、放っておけなかった。気づいたら受け入れるように身体を前へ――ハンナ様に身体を預けていた。

 手枷がなければ、両手が自由ならば、抱きしめられたのに……。

 私は頭を横に倒す。コツン、ハンナ様の頭に寄り添った。どうしてかあたたかい。自然と目を閉じていた。

 ハンナ様が力任せに私を抱きしめる。腕の中にいるのは心地よかった。




 不意に、私の身体がふわりと宙に浮いた。両脚の下に手がまわされ、もう一方の手が背中を支えている。

 見つめた先には優しげな笑みのハンナ様。横抱きにされた私はゆっくりとベッドに下ろされた。その隣にハンナ様が腰かける。手枷が嵌まった私の両手に、ハンナ様の手が重なっていた。


 「エリーゼ、私を視てくれる」


 真剣な顔のハンナ様に押され、私はうなずく。瞳に魔力を注いで見つめれば、信頼と覚悟、二つの色が織り交ざっていた。


 「今は、まだ何も言えないんだ。でも、エリーゼにはいつか全てを話すから……だから、今は、待っていて欲しいんだ。私は、エリーゼを裏切らないから」


 嬉しいけれど……どうしてハンナ様は、こんな私を信頼してくれるの?

 魔法を教え、悩みを聞き、間違いを正す。ハンナ様から私は多くのものを貰った。でも、私はハンナ様に何も返せていなかった。


 私は下唇を強く噛む。情けなさのあまり目を伏せていた。

 数秒後、切り替えるように心の中でため息を吐き出し、私は顔を上げる。視界に映ったハンナ様の感情には、不安が色濃く表れていた。

 悲しげに揺れる瞳には元気がない。そんなハンナ様の顔を見つめて……私ははたと気がついた。


 ――ああ、私はハンナ様の決意を信じてあげればいいんだ。


 きっと人は誰かに認めてもらえないと頑張れないんだ。

 ハンナ様も正しいと信じたからこそ、行動すると決めたのだろう。でも、正解か間違いかなんて最後までわからない。答えは一つでないし、その道程も一つではないのだから。

 不確かゆえに不安が生まれる。正しい方向に進んでいるのか、目安になる指針が欲しくなる。間違っていないと安心したくなる。


 ハンナ様が不安なら、私は肯定してあげる――。


 両手が使えないのがもどかしい。抱きしめる代わりに、私はハンナ様の胸元に飛び込む。子供みたいだなと想いながらも、頭をグリグリと押し当てた。

 私はニッコリと微笑んで見せる。パチパチと目をしばたかせるハンナ様と見つめ合っていた。


 「私はハンナ様を信じます。だから、いつか全てを話してください」


 隠していることも全部を話す、約束ですよ?

 黙ったままのハンナ様の胸元に、もう一度だけ頭を押しつける。今度は少し悪戯っぽく笑って見せた。


 「……変わらないね、本当に」


 表情を緩めてハンナ様が小さくつぶやいた。


 「何がですか? いえ……これも、いつか話してくれますか?」


 小さく首を振り、私は質問を変える。今のハンナ様は答えてくれない気がした。もしかしたらハンナ様は、私と誰かを重ねているのかもしれない。


 私とハンナ様の接点は学園に入ってから、それもクラウディア様との一件以降にできたものだ。まだ昔を懐かしむような関係ではないはずだ。

 ハンナ様と、その人はどんな関係だったのだろうか。家族? 友人? 私とどこが似ているの? ……話さないと言われると、不思議と気になってしまう。


 そこで、ハッと気づく。ハンナ様は楽しそうに笑っていた。


 「約束する。エリーゼには、いつか話してあげるからね」


 そう言って、ハンナ様は私の頭を撫で始める。少し力が入っているのか、私の頭は右へ左へと動いて忙しい。


 十秒ほどが経ち、ハンナ様の手が私の両肩をしっかりと掴む。抜け出すことはできそうにもなかった。

 スッと表情を引き締めたハンナ様を、私も真っすぐに見返していた。


 「私を信じて」


 短いハンナ様の言葉に、私は静かにうなずいた。

 両肩を引かれて私とハンナ様の顔が近づいていく。口づけを交わせそうなほどの距離に、どうしてもドキマギしてしまう。私の瞳はハンナ様しか映していなかった。どうするつもりなのだろう? ドキドキと心臓がうるさくて仕方ない。


 数秒間、ハンナ様はまぶたを下ろす。そして、ゆっくりと私を見た。

 パクモニュ、パクパク、モニュモニュ……。

 綺麗な唇が動いていく。どうしてだろう。その動きから目が離せなかった。そして、霧がかったように視界が薄ぼんやりとしていく。


 あれ、おかしいな? 何も見えない、何も聞こえない、何も話せない……何も、考えられない。心が沈み込むような不思議な感覚。恐怖も不安も何もない。流されるままに、ただ身を任せていた。




 「……ハンナ様?」


 気づけば見慣れない天井が目に映る。ハンナ様の顔は見当たらなかった。

 私はゆっくりと身体を起こす。いつの間に眠っていたのだろうか、ベッドの上で仰向けになっていた。

 キョロキョロと視線を巡らせるが、部屋にハンナ様はいなかった。


 まどろみの中にいるのか、なんだか頭が上手くまわらない。意味もなくベッドの端をジッと眺めていた。

 再び私一人になった部屋を静寂が支配する。今が朝なのか夜なのかもわからない。私の息づかいだけが聞こえていた。世界から切り離されてしまったのでは、そう想いたくなるほど部屋の中は静かだった。


 寂しい、悲しい、苦しい。誰かに助けて欲しい、そう心は変わることなく叫んでいる。絶望していたはず……なのに、どうしてだろう。

 もう大丈夫だよ、そんな声が身体の内側から聞こえてくる。これは、誰の声? 落ち着いた大人の女性の声だけれど、私の声に似ている気がするのは勘違いだろうか。


 「私は信じます」


 小さく言葉が漏れる。私自身が言ったと気づいたのは、数秒後だった。


 「私はハンナ様を信じます」


 今度はハッキリと言葉にする。すると、心にストンと落ちるものがあった。

 私は顔を上げ、部屋のドアを見つめる。固く閉ざされたドアを破ってハンナ様が助けに来てくれる気がした。

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