027 ハニートラップ
女子寮の私の部屋へと移動し大きく息を吐き出す。
まずはセレナの両頬をパンパンと強く叩き正気に戻させる。そして、人差し指に魔力を注ぎ込んで宙に向かって文字と絵を書き出していった。
叩かれて呆然としたセレナも、数秒遅れで想い想いに書き始めた。
カルラ様の唇の動き、それを忘れてしまう前に残さなければならない。
私とセレナは黙々と書き続けた。文字と絵で埋め尽くされ、部屋はごちゃごちゃとしている。しかし、綴られた線がどこか誇らしげに輝いていた。
「……とりあえず、書き終えたね」
「そうね、疲れたわ」
バタリとベッドの上に倒れ込んだセレナがつぶやく。私は壁に背中を預けてずり落ちるようにしゃがみ込んでいた。
力なく手足を投げ出し、両目を閉じる。背中越しに感じる壁の冷たさが心地よい。今は、何も考えたくはなかった。
数分は経っただろうか。唐突な痛みを額に感じて目を開く。指を弾いた姿勢のまま悪戯っぽく微笑むセレナが目の前にしゃがんでいた。
「お寝坊さんだね、エリーゼ」
「……痛いわよ」
「ごめんね……ほら、立ってよ」
セレナが差し伸べた右手を掴み、ゆっくりと立ち上がる。そのままセレナに手を引かれて歩き、隣り合ってベッドに座った。
視線をぐるりと巡らせ、宙に描かれた文字を読み解いていく。予想できたことだが、私とセレナが記した内容には齟齬があった。一致しているのは七割くらいだろうか。完全とは言い難かった。
「さて、擦り合わせていくわよ」
「うん……でも、私の方が合ってそうだよね。まあ、私の方が頭はいいから、当然なんだけどね」
「つまらない冗談だわ。私の方が正しいに決まっているでしょう?」
満足げにつぶやくセレナを横目に、私は冗談めかして反論する。視線を交えた後、私とセレナはどちらからともなく笑い出していた。
ああ、やっぱり素のセレナが好きだな。
ベルント様に恋する乙女の振りをしていたセレナを想い出して改めて想った。
魔力を込めて感情を視なくても、今のセレナが自然に振る舞っていることはわかる。なんとなく感じていた息苦しさも感じない。居心地がとても良かったのだ。
しばらく笑い合い、お互いに表情を引き締めていく。
さあ、頑張ろうか。
エールを送り合うようにニカッと歯を見せて笑う。そして、顔を正面に広がる文字と絵に向けた。
「こんなところかしら?」
宙に描いた文字と絵を書き写した三枚の紙を見つめながらつぶやく。
お互いの意見を擦り合わせた結果、三パターンも残ってしまったのだ。どれが正しいのかを決めることはできなかった。
当然、この三パターンの中に答えがないことも考えられる。結局は実際に試してみるしかない。
もしベルント様を操ることができるならば、カルラ様が精神操作の実験に関与していることは確定だろう。
「問題は、どうやってベルント様に接触するかね」
大きなため息が出る。今回の件で、カルラ様は警戒を強めているに違いない。簡単にベルント様に接触できるとは想えなかった。
「えっ? 普通に話しかければいいと想うよ」
「……セレナ、カルラ様がそれを許すと想う? 敵認定されているわよ」
「『私』はそうだと想うけど……『エリーゼ』は大丈夫じゃない?」
不思議そうにセレナは首をかしげるが、私には納得できなかった。
セレナが敵認定されて、私が敵認定されないことがあるのだろうか?
私にはどうにも信じられなかった。
「だって、エリーゼはベルント様が嫌いでしょ?」
断定口調でセレナは訊ねる。唐突な問いに理解が追いつくまで、数秒の時間がかかったが、私はコクリとうなずいていた。
セレナは「やっぱりね」と楽しげに笑い、びしりと右手の人差し指を突きつける。
「明日、エリーゼは私の非礼を謝りに行くんだよ。そして、ベルント様で試してみるの。恋心のないエリーゼなら、追い返されたりはしないはずだから」
そんなに上手くいくのだろうか。カルラ様の性格ならば女性なら誰でも追い返しそうだけど……。
私は胡乱げな眼差しを送りながら、人を指差す失礼なセレナの手を掴んで下ろしていた。
「――昨日は、私の友人が失礼なことをしました。申し訳ありません」
昨日と同じベンチで語らう二人に向かって私は頭を下げる。セレナの読みは、どうやら正しかったらしい。
不快げに顔をしかめているもののカルラ様は拒絶しなかった。精神操作の魔法が解けているのか、ベルント様の態度も友好的だ。昨日の別れ際に見せた敵意は感じられなかった。
そもそも、身分で言えば公爵令嬢である私が一番高い。伯爵令息と子爵令嬢の二人が配慮してくれたのかもしれない。
本心は知らないが、ベルント様もカルラ様もあっさりと許してくれた。昨日の一件については、これでお終いでいいのだろう。
まあ、ここからが今日の本題となるわけだけど……。
演技は得意ではないけれど、逃げ出すわけにはいかない。私は心の中で大きく息を吐き出し、ゆっくりと口を開いた。
「あの、昨日はお話しできなかったので、私ともお話しできませんか?」
ベルント様は怪訝な顔で私を見つめ、考え込むように数秒黙り込む。そして、ふわりと柔らかく笑った。
「ええ、構いませんよ。ぜひ、こちらに」
「――ベルント様!」
カルラ様が声を荒げるが、ベルント様に気にする様子はない。私の手を取って隣に座るよう促される。
ベルント様を中心に私とカルラ様が挟むようにベンチへ腰掛けた。
「ありがとうございます」
私は笑顔でお礼を言い、ベルント様の瞳をジッと見つめる。警戒の色は視られなかった。だから、私は――。
「……どうかしたかな?」
「いえ、すみません……緊張してしまって」
不思議そうに訊ねるベルント様に謝罪する。別に構わないよ、そう笑って流してくれたベルント様に、私は胸を撫で下ろしていた。
「ベルント様は、カルラ様の婚約者ですよね?」
「婚約者ではないよ。仲良くしていることは間違いないけどね」
軽く肩を竦めてベルント様は否定する。それにカルラ様が突っかかってくるが、ベルント様は簡単にいなしてしまった。話しぶりに違和感は何も感じられない。
この唇の動きは間違いだった、そう結論づけて心のメモ帳に大きなバッテンをつける。残りは二パターンだった。
カルラ様も好きでもない男性によく身体を密着させるものだ。ベルント様の腕を胸に挟み込むようにして抱き着いている。
私の瞳に視える感情にも好意はない。あるのは執着心だけだ。
『エリーゼは、ボディタッチ厳禁だから。清楚アピール大事だよ』
作戦参謀のセレナの指示は、カルラ様の真逆を攻めることだった。
題して、待てば勝手にチャンスが飛び込むぞ作戦。
……要するに、余計なことはせずに待機していろ。それだけの指示だった。
カルラ様は私に盗られまいと、ベルント様に必死に話しかけるはず。そうなれば、一方的な会話に疲れたベルント様は私へと逃げ出すに違いない。
そのチャンスでベルント様に唇の動きを試してみればいい。そうセレナは力説していたのだ。
最悪はカルラ様に勘づかれることだが……これは、もうどうしようもない。
他に手立てが想いつかない以上、危険は承知で作戦を敢行することになった。
激昂したカルラ様が攻撃する可能性を考え、セレナには隠れて待機してもらっている。場所は知らないが、今も私たちの様子を窺っているはずだ。
私はセレナの指示を想い返しながら、聞き役に徹していた。しかし、気疲れがして気分は良くなかった。
カルラ様の責めるような話しぶりに、私は正直うんざりとしていたのだ。
曰く、カルラ様以外の女性と話すな。
曰く、カルラ様以外の女性に優しくするな。
他にもいろいろと主張してはいたが、私には何を言っているのか理解ができなかった。まだ仲が良いだけで、カルラ様はベルント様の婚約者でも何でもないのだから。
そもそも、好きでもないベルント様に執着する意味がわからないし、ベルント様の浮気を責める被害者のような振る舞いにも納得がいかない。
婚約者だったクリスタ様からベルント様を奪った事実を忘れているのだろうか? 自分勝手が過ぎるカルラ様が苛立たしい。
聞き役の私ですら気分が悪いのだから、当事者のベルント様ならば尚更だろう。顔は笑顔のままだが、視線には不快感が色濃く表れていた。
セレナが立てた予想通りの展開に、私は心の中でほっと息をつく。
早く作戦を遂行して帰りたい、そう切に願っていた。
「――エリーゼさんとも話がしたいな」
強引にベルント様が私に声をかけてくる。身体ごとカルラ様に背を向けていた。
ちらりと見えたカルラ様の顔は今にも人を殺さんばかりに歪んでいた。
私は引き攣りそうな顔に力を込めて微笑んで見せる。そっと身体を横に動かして、ベルント様の身体でカルラ様の視線を遮った。
ここがチャンスなのだろう、そう想い私はベルント様に顔を寄せる。そして、唇を動かしていった。
沈黙は数秒間。目を大きく開いたまま、ベルント様は固まってしまう。
一回目と明らかに様子が変わったことで成功を察する。認識した瞬間、心臓はバクバクと早鐘を打ち始める。望んでいた結果だが、咄嗟に何を話していいかがわからなくなっていた。
だから、カルラ様へのごまかしが効かなかった。
「――ベルント様に何をしたの!」
目を怒らせたカルラ様の手が伸び、私の服を掴む。一気に引き倒され、ベンチから地面に叩きつけられていた。
痛みを堪えて顔上げる。二人の姿は対照的だった。
ベルント様は彫像のように動きを止めている。何の感情も視えてこない。
ゆらりと立ち上がったカルラ様は冷めた瞳で私を見つめていた。焦燥と、明確な殺意。私は当たりを引いた――。
その瞬間、強い衝撃がお腹に走って口から一気に空気が出て行く。小さな浮遊感を感じると、再び背中から地面に叩きつけられていた。
痛みのあまり体がくの字に折れ曲がる。勝手に涙が溢れ出す。薄ぼんやりとした視界の先には、カルラ様の靴が見えていた。
蹴り上げられた、そう認識した瞬間、今度はお腹を踏みつけられていた。
痛い、重い、イタイ、オモイ――。
うめき声が口から漏れる。無理やり仰向けに倒され、お腹をさらに潰されていく。衝動的に足を殴りつけるが、重みが増すばかりで緩む気配はない。
不意に視界から光が薄れていく。本能的に私は目をギュッと強く閉じていた。
顔を踏みつけられる――嫌な想像が脳裏をよぎった。
一秒……二秒……三秒……。
衝撃を覚悟していたが、一向に訪れて来ない。それに、お腹への圧迫感もなくなっている。
恐るおそる目を開いた私は、想わず二度見してしまった。
地面と口づけを交わすカルラ様、その背中に乗ったセレナ。
痛みに悶えるカルラ様の声が聞こえるが、セレナは無視を決め込んでいるらしい。カルラ様の後頭部に手を置いて地面へ押しつけていた。
私の視線に気づいたセレナが悲しげに顔を俯かせる。
「……すぐに助けられなくてごめんね」
「そんなことないわ、助けてくれてありがとう」
ズキズキと痛むお腹を両手で押さえ、私は空を見つめる。そして、大きく息を吐き出していた。




