023 病室での目覚め
今、私はどうなっているのだろう?
薄繭に覆われたようにハッキリしない視界の中、私はボンヤリと考える。気怠げな思考は満足に働いていなかった。
意味もなく目を開け続けてから、どれだけの時間が経ったのかはわからない。
凍りついたように固まっていた手足の感覚が少しずつ戻ってきた。それに合わせて、視界がようやく晴れてくる。
包帯塗れは変わらないが、身につけているのは病衣だった。どうやら私は医療院で眠らされていたらしい。
「……目が覚めたのね」
もぞもぞと身体を動かす私に女性が話しかけてくる。元気はないが、聞き覚えのある声だった。私が顔を横に向けると、同じ病衣を着たアデリナ様が見つめている。ベッドに背を預けるアデリナ様の頭には包帯が巻かれていた。
ぐるりと視線を巡らせて見れば、病室には二つのベッドしかない。私とアデリナ様の二人部屋だった。
「ごめんなさい、私は……エリーゼを守れなかった。それどころか……」
苦しげに顔を歪めるアデリナ様。言葉は最後まで続かない。でも、何を言いたいのかは予想がついた。
「私の方が、何もできませんでした。エドヴィン様とアデリナ様に助けてもらっていただけ。……私も、戦えたら良かったのに」
「エリーゼは! ……頑張っていたわ。だから、気にしなくていいの」
「邪魔にならないようにしていただけです」
私でなくセレナだったら、きっとエドヴィン様とアデリナ様と一緒に戦ったはず。私みたいに土人形の上でビクビク恐れたりはしなかった。
弱さに目を背けて蛮勇を振るうのと、弱さを直視して臆病を晒す。
どちらが正しかったのだろうか。私の選択した後者が正しいとは、断言できそうになかった。
無様な私の姿を想い出していくにつれ、急激な吐き気がこみ上げてくる。
嘲笑うディルクの――首だけの姿が脳裏に浮かんでいた。
「ディルク先生は、亡くなったのですか?」
「……エリーゼは覚えているの?」
アデリナ様が気遣わしげな眼差しを向ける。私がうなずいた瞬間、アデリナ様の顔が悲しみに染まっていった。
慌てた様子でアデリナ様は自分のベッドから降りる。そして、私のベッド横に置いてある椅子に座る。アデリナ様の両手で私の右手は包み込まれていた。
「想い出さなくていいの。エリーゼ、そのことはもう忘れなさい」
「……でも、クラウディア様を助けるためには――」
「――もう、エリーゼは協力しなくていいわ。だから、頑張らなくてもいいの。危険はないと楽観的に誘った私が……浅はかだったのよ。私の考えが足りていなかったわ、私が全部悪いのよ」
眉尻を下げたアデリナ様が早口で言い募る。自信に満ちて堂々とした――私が憧れた姿はなかった。
『私と一緒にクラウディアを助けようか』
私が差し伸ばした手を力強く握ったアデリナ様と、目の前にアデリナ様が同一人物とは想えなかった。私の右手を包むアデリナ様の両手は、痛々しいほどに震えていた。
アデリナ様が罪悪感を覚える必要はないのに……。
結局、決めたのは私なのだ。誘ったアデリナ様が悪ならば、受け入れた私も悪なのだ。クラウディア様を助けることがどれだけ危険なのか、真剣に考えていなかったのは、私も同じだった。
「アデリナ様は、もうクラウディア様を助けないのですか?」
私は左手を上から重ねて力任せにアデリナ様の両手をベッドに押しつける。困惑顔のアデリナ様を強く睨みつけた。
「助けないんですか? アデリナ様、見捨てるんですか?」
「……ふざけないで! そんなわけないでしょう! ……でも、私は、エリーゼを……貴方を巻き込みたくないの、心配しているの。傷つけたくないのよ、わかりなさい!」
「私だって、クラウディア様を助けたいんだ! アデリナ様の力になりたいんだ! わかってよ、アデリナ様!」
「――エリーゼ!」
アデリナ様が怒鳴ると同時に、私の身体は再びベッドに沈んでいた。ひりつく痛みの走る頬に、強い熱がこもっていた。
痛みを堪えて私は見上げる。手を振り切ったアデリナ様が、怒りと悲しみが混ぜこぜの複雑な顔で睨みつけていた。
「アデリナ様が止めるなら、私一人でクラウディア様を助けますから!」
私が宣言した瞬間、アデリナ様が私の両肩を押さえつけてベッドに縫いつける。感情任せに掴んでいるのか、両肩に鋭い痛みが走った。
下唇を噛み、私はキッと睨み返す。お返しとばかりに、アデリナ様の手首を力一杯に握りしめた。
睨み合いは数十秒間だろうか。気まずい沈黙を破ったのは、アデリナ様だった。
「……エリーゼは怖くないの?」
ポツポツ、と涙が頬を濡らす。アデリナ様は泣いていた。
「私は、怖かった、怖かったの。……私は貴族なのに……国を、民を守るために、戦わないといけないのに……」
私の両肩を掴むアデリナ様の手が緩んでいく。アデリナ様の手首を締める私の力も弱くなっていた。
有事の際には最前線に立つ――それが貴族の義務だ。
「相手は、魔物かもしれないし、敵国かもしれない。でも、逃げるわけにはいかないのよ。戦って勝たないといけないの。でも……私は、逃げた。エリーゼを、守らないといけなかったのに」
ああ、アデリナ様は義務を果たせなかったことを後悔しているのか。
あの場で戦えないのは、私だけ。だから、私を守るべき『民』に見立てていたのだろう。……私も、公爵家の、貴族令嬢の一人なのに。
義務を果たせなかったのは、アデリナ様でなく私の方だ。最初から戦えていなかったのだから。
「初めて死ぬと想ったわ。勝てない、殺される……そう想ったら、逃げることしか考えられなくなったのよ。無様、だったでしょう?」
アデリナ様が自嘲的に微笑んだ。あまりにも痛々しい顔に慰めの言葉は何も出て来ない。その代わりに、私の瞳からも涙が流れていた。
「私は自分が優秀だと信じていたわ。ハンナやクラウディアに及ばなくても、エドヴィンには負けないって。でも、完敗だった。無様に、足を引っ張っただけ。……もう、きっと私を信用してはくれない。逃げ出した臆病者なんて、嫌われて当然だわ」
――私とアデリナ様は似ている。
いつか感じた気持ちを想い出した。きっと私もアデリナ様も無関心であることに、相手にされないことに耐えられないのだろう。
私は嫌われることで、私自身を見てもらえると信じていた。
アデリナ様は役に立つことで、見てもらえると信じていたのだろう。
方法は違うが、目的は同じなのだ。今ならば、わかる気がする。私もアデリナ様も……寂しい人だ。
『素直に気持ちを伝えることは、大切なことだよ』
クラウディア様とハンナ様、どうしてか二人の声が重なって聞こえる。脳裏に二人の笑顔が想い起こされていた。
確かにその通りなのだろう。今、ようやく実感できた。
アデリナ様の心は弱り切っているに違いない。普段ならば絶対に言わない弱音を晒している。ありのままのアデリナ様を見せてくれているのだ。アデリナ様の考えに沿うならば、私は嫌いにならないといけないのだろう。アデリナ様は、戦いで役に立てなかったのだから――。
でも、私はちっとも嫌いにはならない。むしろ、アデリナ様のことが、もっともっと好きになった。
私もアデリナ様も、きっと何かを求めてばかりだった。しかし、今のアデリナ様は何も求めていない。慰めの言葉を聞くつもりもないだろう。
ただ、想いの丈をぶつけているだけだ。
それが、不思議と心地よかった。なんとなく、本当のアデリナ様に触れている気がするのだ。
私はそっと手を差し伸ばす。涙で濡れたアデリナ様の頬に触れた。
「アデリナ様のこと、私は好きです。嫌いになったりはしません」
いつかハンナ様に言わされた言葉とは違う、私の素直な気持ち。
アデリナ様は目を丸くして私を見つめる。ツンとした強気な顔とは違う、少し幼げな愛嬌のある顔だった。
私は心からの笑みを浮かべる。今のアデリナ様に遠慮するつもりは欠片もなかった。
「好きです、アデリナ様」
「……何を言ってるのかしら? 私は――」
「――大好きです。私はアデリナ様と一緒にいたい」
戸惑うアデリナ様の言葉に重ねて告げる。すると、パチパチとアデリナ様のまばたきが多くなっていく。少し照れた様子でアデリナ様はそっぽを向いた。
「……告白なら、意中の男性なさい。恥知らずだわ」
「だって、アデリナ様を尊敬しているから……だから、私はアデリナ様と一緒に頑張りたい、一緒にクラウディア様を助けたいです。私を仲間外れにしないでください!」
私は表情を引き締めてアデリナ様の瞳を覗き込む。
ここで断られたら、正直に言って私は何もできないのだ。アデリナ様には協力してもらえないと困る。
沈黙は十秒ほどだろうか。アデリナ様がポツリとつぶやいた。
「……私は、弱いわ。危険から、エリーゼを守ることはできない」
「それは、私も同じです。私の方がずっと弱い。だから、臆病者と言われないように二人で頑張るんです。……私は、アデリナ様と一緒に頑張りたい」
一緒に頑張る、口にすると嬉しいような恥ずかしいような不思議な気持ちになる。
同意を求めてアデリナ様を見ると、泣き笑いのような表情をしていた。
「……ありがとう、エリーゼ」
小さなアデリナ様のささやき声が、私の心にはとても大きく響いていた。
黒衣との邂逅は惨敗とも言える結果に終わったらしい。
容疑者のディルクは殺害され、証拠品のサティプラは焼き払われた。崖に群生していた分はもちろん、アデリナ様が採集した分も含めてだ。
アラン殿下の二人の護衛以外は負傷しなかったことは幸いだったのかもしれない。しかし、何の手掛かりもなく黒衣を取り逃したことに変わりはない。黒衣の正体を突き止めるための情報は何もなかった。
意識を取り戻したアデリナ様に事情を語ったのはエドヴィン様。その顔色は、明らかに悪かったそうだ。
そんなエドヴィン様は、私とアデリナ様に代って事情聴取を受けている。
ディルクの死で失神した私も頭を強く打って血を流していたらしい。アデリナ様と仲良く検査入院が決まったのだった。
クラウディア様を助ける、そう豪語したが何の見通しも立っていなかった。
短絡さを嘆いていた私を、アデリナ様は得意げな顔で笑ったのだ。
『証拠品なら、私が持っているわ』
アデリナ様が病衣のポケットから取り出したのは手のひらサイズの袋だった。袋の中にあるのは真っ白な花びら――サティプラだった。
驚く私を見るアデリナ様の表情は満足そうだった。しかし、私がどこに隠し持っていたのか訊ねた瞬間、気まずそうに目を逸らしてしまった。
そんなに話しにくい質問だろうか?
なんだか納得ができずに、何度も訊ねる私に観念したのか、アデリナ様は消え入りそうな声で教えてくれた。
『……下着に隠していたのよ』
耳まで真っ赤にしたアデリナ様に、私まで顔を赤らめてしまう。
申し訳なさのあまりに、私の謝罪もか細くなっていた。




