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022 本心と、黒い闖入者

 今、私はハンナ様に横抱きにされていた。

 クラウディア様の上着で包まれているのは変わらない。ただ、ダイアウルフの牙と爪で抉られて傷ついた肌はほとんど元通りになっていた。それは、アラン殿下の光魔法のおかげだった。

 傷痕が残らない程度に治療し、残りは私自身の治癒力に任せるらしい。体中に包帯がまかれて酷い姿だが、ズキズキと走る痛みは治まっていた。


 回復や補助は光魔法の領分だ。

 火、水、土、風。この四属性への適性が多く、光と闇は希少だ。アラン殿下は珍しい光魔法の使い手だった。


 クラウディア様とハンナ様が身軽な格好だったのも、後続のアラン殿下に治療を任せていたためらしい。現在位置を示す発信機を二人は身につけ、アラン殿下に場所を教えていたのだ。

 事前に、エドウィン様はハンナ様に発信機を渡していたらしく、私たちの行動は筒抜けだったようだ。アラン殿下とクラウディア様がいる理由は、どうしてかハンナ様は教えてくれなかったけれど……。


 発信機を頼りに、アラン殿下は学園長と護衛二人を連れて現れた。

 五十匹を超すダイアウルフの死体に、血塗れの私とエドウィン様、倒れたままのアデリナ様。そのあまりにも悲惨な状況に、四人は顔を引き攣らせていたが、行動は本当に早かった。


 アラン殿下はすぐに治療を始め、すでに私とアデリナ様への処置は完了している。今は、エドウィン様の治療に当たっていた。当たり前のように、アラン殿下の横にはクラウディア様が寄って治療のサポートをしている。私の包帯もクラウディア様が巻いてくれたものだった。


 ディルクは厳重に拘束され、学園長たちに監視されている。

 学園に戻った後、厳しい尋問が待っているのだろうが、同情する気持ちは少しも起きなかった。


 「……あの、降ろしてもらえませんか?」


 治療が終わるや否や、私はハンナ様に抱きしめられていた。それから、ハンナ様は一向に放してくれない。何度目かも知らない不平にも微笑むばかりで気にした様子はなかった。

 赤ちゃんをあやすように背中を擦られる。心地よさを覚えていたから、必死に抵抗する気は起きなかった。


 「クラウディア様に味方するのですか?」


 抵抗の代わりにハンナ様へ訊ねる。クラウディア様の敵か味方か、これだけはハッキリとさせなければならないだろう。


 何を言っているのか、そう困惑を露わにしてハンナ様は「当然だよ」と言った。


 「やっぱり疑っていたの?」

 「だって、噂だと……それに、医務室で魔法を使って、クラウディア様が変になっていたから……」

 「……ああ、エリーゼには視えて当然だったね」


 ハンナ様は納得した様子でうなずくが、すぐに失敗したと顔を歪めていく。

 どうしてかハンナ様は私が精霊憑きであることを知っているらしい。

 もしかして、アデリナ様が話した? 性格的にアデリナ様の口は堅いと想っていたのだけど……。


 「クラウディア様に……発散してもらおうと想っただけなんだよ」


 罪を告白するようにハンナ様はつぶやく。その視線は、アラン殿下に寄り添うクラウディア様へ向けられていた。


 「どうして性格が変わるのか、その原因がずっとわからなかった。でもさ、わかっていたことも少しはあるんだ。怒りを爆発させてあげるとね、数日間は豹変しなくなるんだ」

 「……わざと、嫌われていたの?」


 悲しげに眉根を寄せたハンナ様は、私の問いには答えなかった。


 「始めは酷かったんだ。誰にでも怒鳴りつけるし、無理難題を言いつけるし……女帝みたいだった。……あんなクラウディア様を、見たくなかったんだ」

 「……ハンナ様は、怒りを引き出すの? 私と同じ……精霊憑き、ですよね?」

 「そう精霊憑きだよ、私は。……でも、エリーゼの予想は少し違っているかな」


 まぶたと供にハンナ様は口を閉ざして黙り込む。

 沈黙はほんの十数秒間だろうか。まぶたに隠されていた、何かを決意した真っすぐな瞳が私に向けられた。


 「エリーゼ、私を信じてくれる?」


 真剣な顔つきのハンナ様に、私は恐るおそるうなずいた。

 何をするつもりなのだろう? 戸惑いがちにハンナ様を見上げていた。


 「私を視てくれるかな?」


 私は想わず眉根を寄せていた。気持ちを暴いてくれ、そう自分から頼むなんて信じられない。……どういうつもりなの?

 ハンナ様はジッと私の顔を――瞳を見つめ続けていた。

 パチパチと戸惑いのあまり何度もまぶたを動かすが、ハンナ様の強い眼差しは変わらない。先に根負けしたのは、私の方だった。


 意図がわからないまま瞳に魔力を集中させていく。そして、ハンナ様の感情が視え始めた瞬間、私は目を大きく開いていた。親愛の情が色濃く表れていたのだ。

 どうしてかハンナ様に私は気に入られている。でも、その理由がわからない。好かれるようなことをした覚えはなかった。私がハンナ様に向ける視線は不安一色だった。


 動揺する私にハンナ様は微笑む。そして、数秒ほどまぶたを下ろした後、私を見つめ返した。


 「――っ」


 口から漏れかけた悲鳴を必死に飲み込む。ジワリジワリと私の感情を食い尽くすように、ハンナ様の食虫植物が浸食し始めていた。

 信じたい気持ちはある。でも、恐怖の方が大きい。

 私はどうなってしまうのだろう? ハンナ様が私を傷つけるとは想わないが、本能が逃げろと告げていた。


 数秒にも満たない葛藤。食虫植物に私の感情は飲み込まれていた。

 私からハンナ様に向ける感情は真っ黒に染まっていた。

 クラウディア様のときも信じられない気持ちだった。それが今、私にも起きている。心臓がバクバクとうるさい。黒に染まった感情を見ていられず、私は瞳の魔力を霧散させてしまう。


 もう止めて、そう懇願するようにハンナ様を見つめる。ハンナ様はどこか寂しげだった。


 「……エリーゼ、私が怖い?」


 ハンナ様が訊ねる。私の答えは――。


 「怖い、怖いよ! 酷いことしないで!」

 『怖くなんてないけど、何をするのかは教えてくれないと不安になります』


 あれ? 今、私は何を言ったの?


 「エリーゼは、私のことが好き? それとも、嫌い?」


 そう言ってハンナ様は痛ましげに微笑んだ。


 「嫌いじゃないけど、好きかどうかはわかんないよ!」

 『ハンナ様のこと好きです。今日も助けていただいて……信頼しています』


 違う、違う、違う! 違うの、ハンナ様!

 心の中で何度も否定の言葉を重ねるが、私の口からは想い通りに声が出て来ない。勝手に言葉が漏れていた。


 ハンナ様は小さくうなずき、私の頭を一撫でする。そして、ハンナ様の腕の中から私は降ろされていく。嫌々と駄々をこねるように、私はハンナ様の袖口を掴んでいた。


 「エリーゼ、わかっているよ。私は、貴方の気持ちを知っていたから」


 ハンナ様が腕を後ろに引くと、袖口を掴んだままの私は前に倒れていく。ハンナ様に抱きしめられていた。


 「知っていても、傷つくことはある。でもそれはね、私の心が弱いから。エリーゼが悪いんじゃなくて、私が悪いんだよ」


 両膝を地面につけてハンナ様が私と目線を揃えた。


 「前は素直になった方がいい、そう言ったけれど、気持ちを隠すことも大切だよ。言葉にすると、それで関係を決めつけてしまうから。そうあるべきだって、勝手に想ってしまうんだろうね。でもね……」


 ハンナ様は言葉を区切る。そっと私の身体を押し、目と目で見つめ合った。


 「エリーゼとなら決まった関係にはならない。それも、私は知っているから」


 悪戯っぽく笑うハンナ様。重苦しい雰囲気はどこかに消え去っていた。


 「エリーゼは私を好きになる。これは、宣戦布告だから……覚悟しなさい!」


 自信満々に言い放つハンナ様は、私の鼻先に人差し指を突きつける。

 一方的な宣言を私は呆然と眺めていた。ハンナ様の言葉が頭に染み渡るまでに、数秒間はフリーズしていた。


 本当に不思議な人だ、ハンナ様は。私が面倒な性格をしていることは知っている。だから、セレナ以外でこんなに強引に迫る人は初めてだった。でも、嫌な気持ちにはならない。むしろ、嬉しい。


 「私もハンナ様を好きになれたら、きっと嬉しいです」

 『私もハンナ様を好きになれたら、きっと嬉しいです』


 自然と口から言葉がこぼれる。ハンナ様につられて私も笑っていた。

 一瞬だけクシャリと泣き出しそうな顔をしたハンナ様。でも、すぐに晴れ渡るような笑顔を見せてくれる。

 身体に纏わりついていた違和感は消え去っていた。


 ひとしきり二人で笑い合った後、ハンナ様がこっそりと私に耳打ちする。

 誰にも教えたらダメだよ、そう前置きするハンナ様は楽しげだった。


 「私はね、見つめた相手を素直にさせるんだ。だから、私に嘘は通用しないよ」


 どうしてもエリーゼが素直になれなくて苦しいなら相談して――そう告げるハンナ様の微笑みに、私は大きくうなずいていた。




 「――貴様、何者だ!」


 唐突にアラン殿下の護衛が声を荒げる。エドウィン様の治療が終わり、学園の帰還に向けて緩んでいた空気が凍りつく。


 意識の戻らないアデリナ様を除いた全員の視線が集中する。

 森から姿を現したのは、顔を仮面で隠した黒衣の男性だった。両手で扱う大剣を右手一本で構えている。

 黒衣の視線は拘束されたディルクに向いていた。


 私とアデリナ様、ディルクを庇うように展開していく。アラン殿下を中央に両翼をクラウディア様とハンナ様が占め、その前にエドヴィン様が立つ。さらに、二人の護衛を先頭として学園長が補佐するように備えていた。


 打ち合わせもなく即席の陣が構築されていた。動かなかったのは、座ったままの私とディルク、そして眠るアデリナ様の三人だけだった。


 一触即発の空気を何とも感じないのか、黒衣はゆっくりと近づいてくる。

 先に仕掛けたのはアラン殿下の護衛たちだったのだろう。私の目にはいつ斬りかかったのかすらわかりはしなかった。


 剣を抜いた二人の護衛が倒れ伏している、その事実を認識しただけだった。


 「……引いてはくれないだろうか?」


 学園長がため息まじりに告げる。しかし、ただ聞いただけなのだろう。学園長の両手はせわしなく動き続けている。魔法陣が完成しつつあった。

 一瞬だけ学園長が強い眼差しを向けたからか、背後のアラン殿下たちは静観を保っている。ただ、戦闘態勢を緩めてはいなかった。


 「そこで拘束された男を引き渡せ。それが条件だ」


 獣が唸るような威圧感のある声が響く。黒衣は大剣を構えたまま、さらに距離を詰めてくる。


 学園長は飄々と「それはできない」と答える。

 その瞬間、強烈な熱気を感じて目を閉じていた。恐るおそるまぶたを上げると、私たちを守る水のドームが形成されている。その外側に真紅の炎が覆いかぶさっていた。


 「見事だが……それで防げると想ったのか!」


 黒衣の叫びが聞こえた瞬間、爆音とともに衝撃が襲ってくる。突然のことに想わず私は目を瞑っていた。

 次いで聞こえてきたのは、劈くような絶叫と押し殺した悲鳴、怒号、そして――。


 「スティアート公爵令嬢、お前はいつも傷だらけだな」


 侮蔑的な黒衣の声が、私のすぐ隣で聞こえてくる。嫌な予感しか覚えない。クラウディア様たちが私の名前を呼ぶ声も聞こえてくるが、どこか強張っていた。


 荒くなった呼吸で息苦しさが強まっている。私はゴクリと喉を鳴らし、一息にまぶたを上げた。


 「――ひっ」


 私は慌てて口を押さえる。真っ先に視界に飛び込んできたのは、血で真っ赤に染まった大剣だった。

 背筋が凍てつく。どうにもならない吐き気を堪えながら、顔を背けた瞬間、それを見てしまった。


 ――恐怖で歪み切った表情のディルクの首が転がっていた。


 認識した瞬間、視界がどす黒く染まっていく。身体が後ろに倒れている自覚はあったが、少しも手足が言うことを聞いてくれない。

 背中に感じる衝撃、それと同時にプツリと意識が途切れていった。

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