020 険悪な二人
私は特別な存在ではない。それは、前世の■■■■■を捨てると決心したときには認めていた。そんなことは、わかっていたのだ。
でも、悔しいものは悔しい。私も特別な存在でありたかった――。
ダイアウルフの突撃に土人形は為す術もなく崩れ落ちていた。意気消沈していたアデリナ様は満足に受け身もとれずに落ちていった。頭を打ったのか、地面に倒れ伏したまま動こうとしない。
エドウィン様の状態は全くわからなかった。土人形から落とされた時点で、上から俯瞰して見ることは不可能だった。それでも、壊れかけた私の耳に戦いの喧騒は聞こえている。エドウィン様は、まだ頑張っている。
そして、私は今、ダイアウルフの玩具にされていた。
痛みで悲鳴を張り上げるのは何度目だろうか。喉は焼けついたように痛い。
体当たりで転がされ、足蹴にされた。
鋭い爪で肌を切り裂かれ、騎士服を咥えられて放り投げられた。
蹲って身体を縮こまらせてみれば、背中に噛みつかれて無理やり転がされた。
何度も何度も同じことを繰り返されていた。
身体と心に敗北を刻みつけられる。抵抗する気力は、私の中にはもう残されていなかった。
アデリナ様に似合っていると褒められた騎士服はズタズタで、私の血とダイアウルフのよだれで汚れている。破れた騎士服はわずかに身体を隠すだけで、もうほとんど裸と変わらない。
目に映るのは、私の血で汚れた牙と爪。逃げたいのに……逃げられない。
ダイアウルフに弄ばれた身体が恐怖で震え、私の想い通りに動かない。
終わりの見えない苦しみを味わう、地獄のような時間だった。
そんな時間をどれだけ過ごしたのかはわからない。
反応が薄れてきた私に飽きてしまったのだろう。まだ死んでいないことを確かめるように、ダイアウルフに顔を何度も踏みつけられる。
そして、首元を咥えられ、地面に引き摺られながら私は連行されていった。
「――っ」
突然、私は地面に叩きつけられる。さらに、ダイアウルフに蹴り飛ばされて仰向けに転がされていた。
見上げた先には、好色な視線を向けるディルクがいる。……気持ち悪い笑顔だった。
「ああ、やっぱり貴方は実にいい。素敵な姿だ」
跪いたディルクが私の頬に触れて好き勝手に撫でまわす。ねっとりとした手つきに鳥肌が立つ。
ダイアウルフから感じた恐怖とは別の――生理的な嫌悪感がこみ上げてくる。拒絶したくても声は出ないし、手足には力が入らない。辛うじて目が見えているだけだった。
枯れ果てたと想った涙が、再び瞳から零れ落ちていった。
「そんなに喜んでもらえて嬉しいよ。貴方は、私が貰って――」
「……ディルク先生、何をしているのですか?」
地の底を這いまわるような低い声が響く。それに続いて、ダイアウルフの絶叫がそこかしこで聞こえてきた。
ディルクの背中越しに見上げると、侮蔑を隠しもしない歪んだ表情をしたクラウディア様が立っていた。羽虫を見るような目がディルクを射抜いていた。
「エドウィン様は血まみれで、アデリナは倒れている。エリーゼも傷だらけ……この状況について、説明していただけますよね?」
クラウディア様はゆっくりと、有無を言わさぬ口調で訊ねる。月光に照らされ、白銀の髪が妖しく煌めいていた。
しかし、ディルクは余裕の笑みを浮かべている。顔を強張らせたのはダイアウルフの絶叫が聞こえた一瞬だけだった。
「私は、あの二人に誘拐されたスティアート公爵令嬢を介抱していただけですよ。クラウディアさんなら、理解できますね」
振り返ったディルクとクラウディア様が見つめ合う。時間は数秒にも満たないが、変化は劇的だった。
爆発させていた怒りを治め、クラウディア様が朗らかに笑った。
「ディルク先生がおっしゃるなら納得できます。エドウィン様とアデリナが罪を犯すとは……本当に残念です」
悲しげにクラウディア様は目を伏せる。そこには、ディルクへの怒りも不信感も見られない。クラウディア様は……豹変していた。
私は信じられない気持ちでクラウディア様を見つめていたが、すぐに残った魔力を搔き集めて瞳に注ぎ込む。嘘だと否定して欲しくて、もう一度クラウディア様を凝視する。
ディルクに向ける強い信頼と尊敬、そして、エドウィン様とアデリナ様への深い失望。私の願いとは、真逆の感情を抱いていた。
「スティアート公爵令嬢は、私の大切な友人です。詳しいお話を後で聞かせてくださいますか?」
「ええ、構いませんよ。クラウディアさんにも証言してもらいたいですから」
「――その話、私も混ぜてもらえます? いいですよね、ディルク先生」
唐突に、別方向から聞き覚えのある女性の声が聞こえてくる。その瞬間、クラウディア様は不快げに顔をしかめていた。
クラウディア様は大仰にため息を吐き出し、皮肉げに言い放った。
「やっと、終わったのですか?」
「初手で派手にやりすぎなんですよ。もう少し丁寧に殺すべきです」
「結果は変わらないのだから、どうでもいいでしょう? 違うかしら?」
「それは、そうですけど……」
何か言いたげだったが、女性はそれ以上は何も言わない。私が痛みに耐えながら顔を向けると、痛ましそうな表情の女性――ハンナ様が早足に近づいて来ていた。
「……ダイアウルフを、全滅させたのか?」
呆然とつぶやくディルクの声を聞き、私もようやく気づく。ダイアウルフたちの咆哮が聞こえてこないのだ。夜の森は静寂を取り戻していた。
しかし、ハンナ様の背後に広がる光景を見直して、私は顔を引き攣らせていた。
ダイアウルフの腹部を貫くように土の槍が咲き乱れている。槍の根元に向かって流れる青い血が、至るところに水たまりを作っていた。
「ディルク先生、スティアート公爵令嬢をこちらに」
クラウディア様が上着を脱ぎながら言うが、ディルクは一向に動こうとはしなかった。
「……あの、ディルク先生?」
戸惑いがちにクラウディア様が訊ねる。隣に立ったハンナ様も胡乱げな眼差しで見つめていた。
「いや、私が面倒を見ようと想ってね」
「……ディルク先生、本気で言ってますか?」
ディルクが言葉を発した瞬間、女性二人の目つきがゴミを見るような軽蔑したものへと変わっていく。きっと私も同じだろう。……本当に気持ち悪い男だ。
二人の剣幕に押されて、ディルクは未練がましく場所を譲る。その瞬間、私はクラウディア様に上着で包まれて、強く抱きしめられていた。その背中越しに、私とクラウディア様を庇うように立つハンナ様が見えた。
「どうしてこの場にディルク先生がいるのか、教えてもらえますか?」
ハンナ様の口調は、ディルクを犯人だと断定するものだった。
「それは、スティアート公爵令嬢を救うために――」
「――嘘は止めた方がいいですよ。エリーゼの証言と一致しなかったらどうなるか……わかりますよね?」
「……ハンナさんは、何が言いたいのかな?」
「ディルク先生、貴方がエリーゼを傷つけた。違いますか?」
まるで見てきたかのように、ハンナ様は堂々と問いかける。ディルクは不快げに舌打ちをした。
私に声が出せれば、ディルクにやられたことを証言できる。しかし、悔しいことに今の私には何もできない。何も伝えられない。
ハンナ様の詰問も予想の域を出ていない。だから、ディルクの反論に対して責め切れていなかった。
しばらく二人の口論を黙って聞いていたクラウディア様が、私の耳元にそっと口を近づけた。
「私の言うことが正しかったら、うなずいてくれる?」
真剣な表情でクラウディア様が訊ねる。私は迷うことなくうなずいていた。
クラウディア様からの質問は、たったの三つだけだった。
一つ目は、私を傷つけたのがディルクであるか?
二つ目は、エドウィン様とアデリナ様を傷つけたのがディルクであるか?
三つ目は、ダイアウルフの主がディルクであるか?
私は全ての質問にうなずいていた。
「助けに来るのが遅くなって、ごめんなさい」
クラウディア様が泣き出しそうな声で言う。私は力一杯に頭を左右に振った。
助けに来てくれた、それだけで充分すぎる。私を想ってくれる、その優しさが心にしみた。本当に嬉しかったのだ。
私を抱きしめるクラウディア様の両腕には力がこもっていた。その痛いぐらいの締めつけに、私は安心感に満たされていた。もう大丈夫なのだと、やっと信じられた。
数秒間の抱擁後、壊れ物を扱うような手つきでクラウディア様は私を地面に横たえる。優しく私の頭を一撫でしてから立ち上がった。
「ディルク先生、貴方がエリーゼに手を出したのですね」
「クラウディアさんまで、そんな冗談を――」
「――私は、エリーゼに確認しています! ……どうしてなのですか?」
クラウディア様の声は、ディルクに弁明を求めていた。
重苦しい沈黙が漂う中、嘘は許さないと言わんばかりにクラウディア様はディルクを睨みつけて――。
「クラウディア様、私を見てください!」
突然、ハンナ様がクラウディア様の両肩を掴んで顔を寄せる。口づけを交わせるほどの至近距離で、二人は目と目を合わせていた。
ハンナ様が魔法を使っているのは明らかだった。結局、私はハンナ様の魔法については何も知らない。ハンナ様にクラウディア様を害する気があるかどうかもわからない。どちらにせよ、身体をまともに動かすことのできない今の私には止める術はなかった。
何も起こらないことを願って、私は痛む首を動かして二人を凝視した。
「……ハンナ、様……貴方、どうして?」
「話は後でします! クラウディア様はディルク先生を見ないで!」
困惑した様子でクラウディア様は後退る。それに反して、ハンナ様は庇うように前へ進み出ていた。
「どうして邪魔をする? その女は、ハンナさん、貴方の敵でしょう?」
恐慌状態のディルクがクラウディア様を指差す。私も同じ気持ちだった。
どうしてハンナ様がクラウディア様を助けようとするの?
アデリナ様は違うと言った、それでもハンナ様とクラウディア様は敵対しているはず――。
「それは、私が……クラウディア様の味方だからだよ!」
叫ぶと同時にハンナ様はディルクの腹部にこぶしを叩き込む。そして、手早くハンナ様の手が魔法陣を描き出していく。
土人形の腕が地面から幾つも生み出され、よろめくディルクを引き倒して四肢を拘束し、地面へ縫いつけていた。




