013 派閥への潜入
「……初めまして、エリーゼ・スティアートと申します」
私は緊張で心臓をバクバクと鳴らしながら深く頭を下げる。いくつもの視線が私に突き刺さっていた。感情の色を覗き見なくとも、敵意を孕んでいることは明らかだった。
ハンナ様派閥から見れば、私はクラウディア様派閥の人間らしい。初めて、噂と私の認識が一致していた。
高等学部の門でセレナと別れ、私はハンナ様を探して歩きまわっていた。クラウディア様の噂の中で登場するとは言え、私の顔まで知っている人は少ない。判別できるのは、魔法実技の講師として基礎学部に訪れている人くらいだろう。
道すがら学生に訊ねれば、快く案内してくれたのだ。
クラウディア様が悪評ならば、ハンナ様は好評。別の意味で目立つ存在らしく、居場所はすぐにわかった。アラン様とクラウディア様に続き、第三位の地位に立つだけあり、魔法研究に熱心らしい。
案内された先は研究室。高等学部ともなれば、放課後に魔法研究や修練へ精を出す学生が多いそうだ。有事の際には貴族も前線に立つのだから、魔法を極めんとするのは当然のこととも言えた。
案内してくれた学生にお礼をし、研究室のドアへと向き合う。小さく息を吐き出した後、私はコンコンとノックする。……しかし、返事は戻ってこなかった。
二度三度とノックを繰り返すが、何も変わらない。意を決した私は失礼を承知でドアを開けた。
「――誰だ?」
ドア近くに立つ眼鏡をかけた男性が鋭く言い放つ。その瞬間、研究室中の視線が私に向けられていた。室内には男性が三人、女性が二人いる。
私は慌ててハンナ様を探し、助けを求めるように見つめる。奥で女性と話していたハンナ様は小さくうなずいて答えてくれた。
「エリーゼ、待っていたよ!」
ハンナ様は弾んだ声で叫び、一目散に駆け出す。そして、大きく広げた両腕でガバリと私を抱きしめていた。
「来てくれると想ったんだ。ありがとう」
私の耳元でこっそりとハンナ様はつぶやいた。トントンと背中を優しく叩き、私から体を離していく。
悪戯っぽくウィンクを一つ私に送ると、ハンナ様は室内へと振り返った。
「エリーゼを招待したのは、私よ。だから、そんな怖い顔で見ないであげて」
「ハンナ、その令嬢は――」
「自己紹介してもらうから、急かさないで!」
警戒心丸出しで私を睨みつける男性の言葉を遮ってハンナ様が言う。心配そうな顔で「お願いできる?」と私へつぶやいた。
私がコクリとうなずくと、ハンナ様が優しく頭を一撫でして一歩横へとずれる。震える足で踏み出した私は深く頭を下げて名前を告げたのだった。
重苦しい沈黙は数十秒続いただろうか。室内の誰も口を開かなかった。
名前を告げた瞬間、室内の空気は一気に急降下していた。まだ夏のはずなのに、無理やり氷を押しつけられたように背筋は凍てついている。
名前で私が何者かがわかったのだろう。友好的な雰囲気はどこにもない。あるのは明確な敵意だけだった。
歓迎されないことはわかっていた。だから、敵地に踏み込む覚悟でハンナ様を訪ねたのだ。でも、つもりでしかなかったのだろうか。私から会話を始める勇気は、どこか遠くに消え去っていた。
どうすべきかもわからず、頭を下げた姿勢のまま動けなくなっていた。
無関心は嫌い。私を見てくれるならば、嫌ってくれてもいい。
私がずっと想っていたことだ。室内の人達が、私を嫌ってくれるならば喜ぶべきなのだろうが……そんな気にもならない。
怖くて怖くて仕方がなかった。ここにいたら、殺されてしまうのではないか。嫌な想像が拭い切れず、一つ二つ三つと不安が積み重なっていく。
勝手に震え出していた両手で、私は必死にスカートを握りしめていた。
「エリーゼ、嫌いな相手が貴方を見てくれるわけではないんだよ」
――ああ、どうしてクラウディア様と同じことを言うの?
両膝を床につけてハンナ様が下から私を抱き留める。私を敵意から守るように、ハンナ様の胸元へと顔が押し込められていた。
力なく両膝を床につけた私は、ハンナ様に身体を預けていく。俯く私の脳天に、ハンナ様の額が押し当てられていた。
「よく覚えていて、私は『エリーゼ』を見ているわ。だから、『エリーゼ』を私に……違うね、皆に見せてよ。私が……何度も手伝ってあげるから、ね」
ハンナ様の声はどこまでも優しい。幼子に言い聞かせるようなゆったりとした口調だった。
泣いたらダメだ。そうわかっているのに、ポロポロと涙が零れ落ちていく。涙を止める方法がわからず、ハンナ様の身体に顔を押しつけてしまう。
背中から抱きしめるハンナ様の両手には力がこもっていった。
「私は、今も未来も『エリーゼ』の味方よ。それを、忘れないで」
強い口調でハンナ様は断言する。私は……コクン、と大きくうなずいていた。
ハンナ様の嬉しそうな笑い声が小さく響き、私の体がふわりと宙に浮かぶ。慌てて顔を上げた私に向かって「大丈夫だから」とハンナ様がささやいた。
風魔法で補助して私を横抱きにしている――その事実にはすぐに気がついた。
横抱きにされるのはクラウディア様に次いで二回目だ。
ハンナ様が噂をなぞったとは想わないが、恥ずかしいことに変わりはない。子供扱いをされているようで、少しだけ悔しかった。
「ハンナ、その女は――」
「私のお客さん、それ以上でもそれ以下でもないわ」
ハンナ様はぴしゃりと言い切る。反論を聞くつもりはないのか、スタスタと足早に奥へと進んでいった。
初めにハンナ様が座っていた場所に着くと、私を椅子に下ろす。ハンナ様は別の椅子を持ってきて私の隣へ腰掛けた。
私が研究室を訪ねたとき、ハンナ様と会話をしていた女性は不快げな眼差しを送っていた。
「悪いけれど、席を外してもらえる?」
ハンナ様はちらりと一瞥して訊ねる。その声は冷たかった。
「どうして……?」
「エリーゼを怖がらせたくないの。お願いできない?」
「その女は、あのクラウディアの――」
「――黙りなさい」
感情的な女性の言葉に被せ、ハンナ様が鋭く言い放つ。すると、女性は下唇を噛み締め、憎々しげに私を見下ろしてくる。
女性を見つめるハンナ様の横顔は、怒りを押し殺して歪んでいた。
「クラウディア様は王太子殿下の婚約者、エリーゼは公爵令嬢よ。どちらも蔑ろにされて良い存在ではない。……そんなことも理解できないの?」
お前たちはバカなのか? 言葉にせずとも雄弁に語っていた。
女性の顔色は青褪めていく。ハンナ様は怒鳴ったわけでもないが、室内の空気は重苦しいものに変わっていた。
室内にいた男性も女性も全員が顔を俯かせている。私は信じられない気持ちでハンナ様を見つめていた。
ハンナ様が、クラウディア様のことで怒っている?
まったく、その理由がわからない。ハンナ様は、クラウディア様と敵対しているはずなのに……。
正論を言っているのに、ハンナ様の言葉を素直に受け止められない。
それは、室内にいるハンナ様以外の人達も同じなのだろう。こそこそとハンナ様を覗き見ていた。
ハンナ様の深いため息がやけに大きく聞こえる。咎める声はどこからも聞こえてこなかった。
数秒後、冗談めかした口調でハンナ様は全員に訊ねた。
「貴方たちは、私が『エリーゼ』の心を掴めないと想っているの? そんなに、私のことが信用できない?」
一瞬、ハンナ様が何を言っているのかが理解できなかった。
「エリーゼ!」
「えっ?」
「私のこと、嫌い?」
反射的に私はブンブンと首を左右に振る。好きとは言わないが、嫌いとも言い切れなくなっていた。
ハンナ様は幸せそうな顔で笑う。そして、弾んだ声で言った。
「ほらね、エリーゼは味方よ」
室内にいる全員の視線が私に集中していく。味方と言い切られて、何だか気恥ずかしい。顔に熱がこもっていくのが私自身にもわかった。
「……そういうことにしておきましょう」
多分に呆れを含んだ声が聞こえる。チラリと下から覗き込むと、眼鏡の男性が大きく肩をすくめていた。
「エリーゼ嬢、失礼を態度をとったことをどうか許して欲しい」
私の目の前まで近づき、男性は頭を下げる。それに倣うように、室内の人達が口々に謝罪していく。
謝罪を受け入れない選択肢は、最初から私にはないのだろう。何も気にしていない、と応えるしかなかった。
わだかまりは残っているが、ハンナ様がいる手前、表立って何かを言うつもりはないらしい。
クラウディア様派閥の私を表面的には受け入れていた。途中参加ではあるが、ハンナ様主催の魔法勉強会への参加が許されていたのだ。
公爵家と侯爵家が一人ずつに、伯爵家が二人。男爵家のハンナ様が身分としては一番低い。ただ、ハンナ様の実力を認めているからか、見下すどころか敬意が払われている。
基礎学部と高等学部の違いなのだろう。身分よりも実力で判断されている。平民だからと目の敵にされるセレナとは状況が異なっていた。
事実、ハンナ様は噂通り優秀だった。
高等学部の魔法は私には難しく、目を白黒させる場面が多かった。しかし、その都度、平易な内容に噛み砕いて説明してくれるから概要くらいは理解できた。
何がわからないかもわからない状態で質問するから、的外れなことを何度も訊ねてしまう。それでも、嫌な顔一つせずに教えてくれる。
まるで私がどこで詰まるのかを知っているようで、なんだか不思議な気持ちになっていた。
ハンナ様が間に入って話を取り持ってくれるからか、ハンナ様以外の人とも少しずつ会話が増えている。仲良くなりたいと想える人たちもいた。
眼鏡の生真面目そうな、エドヴィン・デニア公爵令息。
不快げに私を見ていた、アデリナ・プリムローズ侯爵令嬢。
この二人は特にハンナ様と仲が良いらしい。ハッキリと言葉にしていないが、ハンナ様も積極的に関わるように勧めているようだった。
ただ、温厚なエドヴィン様に対し、アデリナ様は遠慮を知らなかった。
――そんなことも知らないの? 一度しか言わないから、よく聞きなさい。
――貴方、少しは笑ったらどうなの? 可愛いい顔が台無しだわ。
アデリナ様の言い様に、ハンナ様とエドヴィン様は苦笑いを浮かべるばかりだ。実際、アデリナ様は行動と感情が一致しないチグハグな人だった。
瞳に魔力を集めて見つめてみれば、私に向ける感情は後悔ばかりだ。憎々しげに表情を歪めているのに、私への敵意は見当たらない。エドウィン様にも敵意はなかった。
他の令息たちからは敵意を感じるから、ハンナ様の見立てはきっと正しかったのだろう。エドヴィン様とアデリナ様、二人以外とはあまり仲を深めたいとは想えなかった。
「別に、エリーゼさんが来たいなら、勝手に来たらいいでしょう」
勉強会が終わり、次回の予定について訊ねる私に向かってアデリナ様がつぶやく。そして、私の返事を待たずに、スタスタと早足に廊下を進んでいった。
遠ざかるアデリナ様の背中を見つめていると、隣からハンナ様とエドヴィン様の笑い声が聞こえてきた。
「エリーゼ、アデリナを反面教師にしなよ。素直に気持ちを伝えるようにしないと、アデリナみたいな面倒くさい性格になるからね」
ハンナ様が笑い混じりに言う。エドヴィン様も何度もうなずいていた。
「私、また来てもいい?」
三人の話しぶりから問題ないとは想ったが、素直に訊ねてみる。ハンナ様は正解と言わんばかりに、満面の笑顔を浮かべた。
「エリーゼなら大歓迎だよ。また、おいで」
「……ありがとうございます」
ハンナ様は私の頭を少し乱暴に撫でまわす。少し痛かったが、嫌ではなかった。
こうして私はハンナ様の派閥と関わるチャンスを手に入れていた。




